第4話



 コンクリートはまずかったかな。どうせ、あの男の差金に決まっている。何となく落としたくなったんだ。仕方がない。でも、あんな小さな子供だとは思わなかった。あの男は何を考えているのだろう? 私を付け狙って、一体何がしたいというのだろう?


 気分を変えるために、煙草入れから一本煙草を抜き取って火をつける。換気扇は回しっぱなしにしていて、それでも部屋は煙草臭かった。もう慣れてはいるけれど。


 何服か吹かしている内に気分も落ち着いてきたけれど、相変わらずあの男に対する憎しみの気持ちが沸々と湧き上がってきて止まらず、思わず壁を殴る。壁を殴ると、音が向かい側に伝わったのが分かる。どこかの部屋の住人が怒って壁を殴り返した音が聞こえてきた。その音で私はニヤリと微笑んだ。


 どうせ、この穴の中からは出られないんだ。私の人生は、ここでお終いだよ。思えばあの頃からおかしかったんだ。両親が借金をして引っ越しを繰り返して、私は転校した先々で軽いいじめを受けた。両親が仲良さげにしているところを私は見たことがなかった。それぐらい惨めだった。私が話しかけるのは通学中ゴミを漁る黒いカラスとか、鳩とか、鼠みたいな小さな生き物達ばかりだった。私は人間の事が大嫌いなのだ。


 そんなある日、私は不意に思い立って、ドキドキする気持ちを抑えながら家を出ていった。高校三年の冬も直近の秋。後少しで卒業という所で、私の中の何かがフツリと切れてしまった。切れてしまったのだからしょうがない。私は少ない貯金と宝物や生理用品なんかと一緒に、いつか旅に出る事を夢見て貯金して買った大きな木肌色のナップザックの中に入れて家を出ていった。後悔はなかった。これからのことを思うと寒気もしたし、悦びの興奮でゾクゾクもした。でも、今はどうしたらいいのか分からない。あの男に目をつけられたのが運の尽きだ。一部のネットでも話題になっている。若い女ばかりを付け狙い、ゴミを漁る人間がいる、と。掲示板に数個書き込みがある程度の噂話でしかないけれど、それは恐らく、いや、十中八九あいつのことだ。私は目をつけられてしまったのだ。煙草がもう切れそうだ。バイト代はまだ入らない。近くの喫茶店と本屋とコンビニを掛け持ちして、今は何とか食い繋いでいる。今は、まだ。


 メントールの煙草が残り少ないのを目で確認してから、換気扇の音に耳を澄ませる。


 そろそろいいかと思って閉めたカーテンを開き、窓を透かして階下を眺めやる。あの子供が立っていた辺り。私のゴミ袋が開いたまま、コンクリートブロックが突き刺さって、周囲にゴミが撒き散らされている。私は溜息を吐きながらカーテンを閉じる。子供はもういない。あのブロックを持って上がるだけでも一苦労だったのに。でも、相手があんな子供だと分かってたら私は落としただろうか。それとも粗野な格好のお爺さんだったなら、迷うことなく落としたのだろうか。分からない。けれども、考えたくもないことだということも私には分かった。だからベッドに身を投げて、目を閉じる。


 私はこれから、どうなっていくのだろう。書店にはマインドフルを謳う文句や繊細な体質の人向けの心理指南書が溢れているけれど、私だってある意味繊細だ。それに繊細じゃない部分ばかりの人もそう多くはないだろう……インターホンが鳴った。私の部屋の音だ。玄関に誰か来たのだろうか。いや、一応二重ロックのアパートだから、それはない筈、よいしょ、と声を上げながらベッドから降りてインターホンへと向かう。


 もしもし、と言うと、音がなかった。ということはやはり玄関なのか。


「はい」と玄関に向かって言うと、


「宅配便です……というのは嘘です。怪しいものじゃないので、開けて話を聞いて下さいませんか? あ、チェーンは掛けたままで結構です」


 何物? 言葉を聞く限り、ただの不審者だし、放っておいた方がいい。でも、何故だろう、この言葉遣い、声の質。なんというのか、本当に危害を加えられることがなさそうな。私はそういう直感にだけは鋭さに自信があったから、何故か、本当に何故か、その声の言う通りにしてみてもいい気がしたのだった。


 私は言われた通り、チェーンは掛けたままで、唾を飲み込んでから、薄く扉を開けた。


「どちら様?」


「ハロー、ドゥーチューブ、ドゥンドゥン……」


 そこに立っていたのは、背の低い奇妙な姿の男だった。身長は平均的だが、長い白いコートを羽織っている。黒い髪は長めで、色白。若く見える。右肩に何か動くものが乗っていて、私の事をつぶらな瞳で見てきている。


「……チンチラ?」


 嘘かと思ったが、チンチラに見えるその生き物は、私の発言を聞いたせいなのか、腰に手を当てて胸を持ち上げ、どや、という言葉が聞こえてくるぐらいに堂々とした表情で微笑んでいた。男は私の方を薄い目で観察してきている。その目の奥に窺える瞳の色は、よく見ると雪原のようなまっさらな白色だった。男の声が聞こえてくる。


「薄桃(ハクトウ) 桃子(トウコ)さんですね。あなたにご忠告があって来ました」


 私はその瞬間寒気に襲われて、瞬間的に扉を閉じようとした。その間に男は手を差し入れてきて、扉が閉まるのを止めた。凄い力だった。「まあ、話だけでも聞いて下さいよ。悪い話じゃありません。あなたの為の話なので」


「一体、私に何の用? あなた、誰? 私知らないんだけど」


 それはそうだ、という表情を男は一瞬浮かべて、私が力を抜いたのが分かったのか扉から手を離し、手に一瞬息を吹きかけてから、徐に言った。


「桃子さん、あなたに危険が迫っています。あの男が近々、あなたに接近して来る筈です。そのままにしてしまうと、あなたはあいつに剥製にされてしまいます。そうならない為に、私が来たのです……」


「一体、何なの? あの男? 剥製? なんであなたがそんな事知って……」


 男の右肩に乗っているチンチラが、暇そうに後ろ足で耳の辺りを掻いている。私がその方を横目で見ていると、気を戻す為にか、男の声に少し強い調子が入った気がした。私はその声を聴いている。


「あなたにはご自分を守ってもらいたい。私からの願いです。切なるね……あなたには選択肢が二つあります。一つは、私の言う通りにして男の魔の手から逃れ、充実した人生を手に入れること。もう一つは、私の話を全て跳ね除けて無視し、男のされるがままに凌辱され果ては剥製にされるか……どちらを選ばれても、あなたの人生ですが、私は出来れば前者をお勧め致します」


「私の人生だけど、もう今の段階でも結構詰んでるんだけど」


 私は何故初対面の男にそんな事を口走っているのだろう。


 男は頷きながら、共感の意思を口にした。


「心中お察しします。けれどもね、何事にも最悪というものはありません。あなたは現在が苦しいと思っているが、それはどん底という意味ではありません。いつでも最悪に思える瞬間はあるが、それは過ぎ去ってみれば最悪ではなかったと往々に思えるものなのです……駄文はこれまで。


 どうしますか? 私の言う通りにして、あの男の魔の手から逃れる人生か、それとも現在を最悪と仮定して、いや信じ込んで受け入れ、更なる最悪を招くことを受け入れるのか……一種の脅迫めいて聞こえるかもしれませんが、嘘は言いません。私は脅迫しています。あなたを救う為にね。どうしますか? やることはとっても簡単なのです」


「この子の言う通りにしておいた方がいいわよ」


 信じられない事に、今肩のチンチラが喋ったような気がする。でも、でも本当に? 本当にこの男のいう言葉を信じてもいいのだろうか? そう信じられる根拠は? この男は初対面で、ええと……


「桃子さん、いいですか」


 男の声がとても遠くに感じられる。でも微かでも、はっきりと聞き取れる。チンチラの姿も確認できる。意識ははっきりしている筈だった。


「最後に、一つだけ。大事な選択は、思考ではなく、感覚に従って下さい。それがあなたの本心なので。あなたが家出をした時、考えてしましたか? それと同じです。大丈夫です。あなたの人生は必ず良くなります。私が保証します。その為にまず、あの男の魔の手から逃れてね……どうですか?」


 どうですかって、そんな話、急に言われても……。でも、私はどうしたい? 今がどん底なの? 最悪なの? でも、剥製になんてされたくない。あの男ならそんな事やりかねない。それぐらいやばい男だ。私は知っている。直感で分かっているんだ。あいつを一目見た時から、そんな気がしていた。それは最悪のことだ。私の心の中のもう一人の自分が言っている。この男の言葉に従えと。そっちの方が良い人生だと。だから……だから。


「分かったわ。でもどうしたらいいの? 私があの男から逃れる方法なんてあるの? あなたはその方法を知っているの?」


 心の勢いに任せ、思わず扉のチェーンを外そうとしてしまいそうになる。すると男が勢いよく手を伸ばしてきて、チェーンを外そうとする私の手を上から押さえつけてきた。暖かな手だった。色白で、雪みたいに白いのに。


「どうか、そのままで……話はすぐ済みますので。あ、あとこの後来るロビーすり抜けの人間はMHKなので、無視して下さい。で、どうしますか? 私の言う通りにしますか?」


 私の心は既に決まっていた。


 私は頷いて言う。


「じゃあ、方法を教えて下さい」


 私はいつの間にか敬語になっていると後になって気づくのだった。


「分かりました。ありがとうございます。じゃあ、端的にお尋ねします。あなたは、護身用になるような手頃な包丁かナイフをお持ちですか? 無ければ、用意させて頂きますが」


 私は鼻を鳴らして言う。


「包丁ならあるけど、護身用じゃないわ。普通の料理包丁。最近研いでないから、切れ味悪すぎて笑えるぐらい。で、包丁が必要なの?」


 男は返事の代わりに鞄から小さな箱を取り出し、私に見せた。先程は気づかなかったが、扉で隠れている彼の左半身の辺りに斜めがけの鞄を持っているのだった。私に差し出された箱は、古めかしい彫刻が為され、それはニスの光のように眩しく木目が輝いていた。


「じゃあ、これを使って下さい。これなら間違いありませんから」


 男が彫刻の為された箱を開けると、そこには一本の小さな銀色のナイフが中央にそっと置かれていた。それは何かを意味するようで、それと同時に無意味にも感じられる、不思議な物体だった。


「これを……どう使うの?」


 男は何でもないことのように言い放った。


「あ、男に拉致された時に使って下さい。持っているだけで効果を発揮します」


「はあ?」


「私の仕事はこれで以上ですので。後はご自分で頑張られて下さい。それでは私はこれで……ああ、そうそう。言い忘れていました」


「何?」私は貰ったナイフを片手に階段へ歩いていく男を見送りながら威圧的に言う。


「……鳥のこと、大事に想って下さいね」


「はあ?」


 男はそれきり、姿を見せなくなった。あれ以来、私は日替わりで家を訪ねてくる鳥達に餌を与えることで忙しくなり、それは新たな習慣となった。あの日男が言ったことは全て真実だと悟るのは、もう少し先の話になるのだけれど、でもあの後確かに来たのはMHKの集金の人だったし、それから不可思議な事件が立て続けに身の回りで起きた。でも私は生きていた。そして、あの日がやってくるのだった……。



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