第32話 期待するよ
と、蒼井さんは無言で扉を閉め、さらには鍵も掛けた。スムーズな動作に、一瞬何が起こったのか分からない。あの蒼井さんが、締めだした?? 鈴村さんを??
表で騒ぐ彼女に、蒼井さんは表情を変えることなく廊下を歩いていく。私は唖然としながらも、靴を揃えて脱ぎ、その後姿についていった。
「い、いいんですか? 鈴村さん」
「んーだって呼んでないし」
私も呼ばれてないけど……。
すると、リビングと思われる扉を前に蒼井さんが立ち止まり片手で顔を覆う。そしてか細い声で言う。
「って、しまった……」
「蒼井さん?」
「来るときは、連絡してほしい」
「あ、ごめんなさい私……非常識で」
「今、部屋が散らかってるんだ」
恥ずかしそうに言った蒼井さんが、なんだかとても人間らしくて驚いた。いや人間なんだけど、でも蒼井さんっていつも涼しい顔してなんでもこなしている完璧な人というイメージだから、部屋が散らかってるとか人を締め出すとか、ずいぶん普段と違う。
「体調悪かったし仕方ないです! 全然大丈夫です!」
「引かない?」
「引きません!」
頭を掻きながら蒼井さんが扉を開ける。目をらんらんと光らせて中を覗き込む私は、失礼な人間の自覚がある。
だが、中の様子を見て拍子抜けした。中は広くてすっきりしたリビングだった。確かに、脱いで放置されている服がソファにかかっているし、キッチンには洗っていないグラスやインスタント食品のごみが適当に置かれていたので、普段の蒼井さんとは少しイメージが違うかもしれない。でも、全然綺麗な部類に入ると思った。
昨日高熱があったし、今日だって病み上がりなんだから掃除する余裕がなかったのは分かっている。むしろ、体調悪くてこの状態って。
「蒼井さん、これで散らかってるんですか? 私の部屋は毎日こんな感じなんですけど」
正直にそう言うと、隣にいた彼が噴出して笑った。しまった、自分からずぼらを打ち明けなくてよかったのに。
彼はローテーブルの上に置かれた飲みかけのペットボトルなどを片付けながら言う。
「相変わらず面白いね。コーヒーでいい?」
「あ、お構いなく! そうだ私お茶を買ってきて」
と、言いかけたところで止まる。両手にあった差し入れたちは、鈴村さんに奪われたままだとようやく思い出したからだ。しまった、手ぶらで見舞いに来るとは。
蒼井さんがすぐに感づいてくれる。
「もしかして鈴村さんが持ってたやつ?」
「あ、そうです……薬局で適当に買ってきたんですけど、返して貰うの忘れてました……」
「あいつ、無理矢理取ったんだな……覚えてろよ。でも、あんなにたくさん買ってきてくれたの? ありがとう」
前半はなんだか蒼井さんから聞きなれない言葉が出てきた気がしたけれど、彼が嬉しそうにはにかんだので、その威力しか私の頭には残らなかった。彼はリビングをすっきいりさせてキッチンに向かう。
「どうぞ座って」
「失礼します……」
私はおずおずとソファに腰かけた。紺色のお洒落なソファだった。緊張から自然と背筋が伸びてしまう、ここが蒼井さんのお部屋だなんて。
やっぱりシンプルで無駄なものがなく、蒼井さんって感じ。いけない、ドキドキしてきた。
しばらくして彼がコーヒーを持ってきてくれたので受け取り頂く。そして、蒼井さんが隣に腰かけてソファが沈んだ。心臓が死んだ。
あれ? コーヒーってこんなに無味だったっけ? 香りも感じない。水か? 水なのか? もう熱いか冷たいかもよく分からなくなってる。
「心配かけてごめんね、ご覧の通り体調はもいいから、明日は会社にいくよ」
「そ、それならよかったです。鈴村さんが昨日お見舞いに行ったって聞いたから、差し入れなんていらないだろうって分かってたんですけど……なんかいてもたってもいられなくて。吉瀬さんに聞いてしまいました」
俯きながらそう言うと、蒼井さんが目を丸くしてこちらを見た。
「見舞い、って……確かに鈴村さんは来てくれたけど、僕は出なかったから会ってないよ。ドアノブに買ってきた差し入れを掛けといてくれたから、ラインでお礼は言ったけど、もう来なくていいって伝えたんだよ」
「え……そうなんですか?」
「家の中になんか、入れるわけないよ」
きっぱり言い切ったのを聞いて、今家に入ってしまっている自分の状況が何だか凄く恥ずかしくなった。同時に、とても嬉しい。
彼は少し表情を歪ませながら続ける。
「もしかしてそれでなんか勘違いしてた?」
「え、えっと……家も知ってたので」
「それは! あの子が来た初日、食事を行くことになったでしょ? あの時、鈴村さんの兄も呼んで三人でいたんだけど」
「えっ、三人?」
驚いて聞き返してしまう。てっきり、あの後二人きりで食事に行ったのかと思っていた。その翌日、彼女は凄く楽しかったと言っていたし、充実した時間だったのかなあ、と。
でも思い返せば、鈴村さんは一言も『二人きりで』とは言っていなかったか……。
「そうだよ。当然でしょう。だって僕は元々、あの子じゃなくてあの子の兄貴と仲がよかったんだからね。そこそこ近くに住んでるって聞いたから、呼んで三人で飲もうってなって。あの子は兄を呼ぶのは嫌だって言ったんだけど、じゃあ解散って言ったら呼ぶことになったよ」
「……そうだったんですか……」
「久々の再会に盛り上がったら、兄の方が酔っぱらってね。タクシーに押しこんでもよかったんだけど、今仕事を辞めて転職活動の真っただ中であまりお金に余裕がないって言ってたから、僕の家に泊めたの。鈴村さんは、兄からこの住所を聞いたんだよ。勝手に教えるなって怒っておいたけど、あいつ妹に弱いから……」
「わ、私も吉瀬さんに勝手に聞いてきたので、そこは鈴村さんを叱れません」
「君はいいの」
蒼井さんがそう優しく言った。彼と目が合い、咄嗟に逸らす。目なんて合わせていたら、こちらがおかしくなってしまいそう。
彼はコーヒーを一口飲む。
「三人で飲んだ時、あの性格は注意しておいたんだけどなあ……あの子、昔から自分が一番じゃないと気に入らない節があってね。周りからちやほやされたいっていうか。当時は向こうは子供だったから僕もそんなに気にしてなかったけど、それが変わってないって一日で分かった。子供がそのまま成長したみたいで驚いたよ」
「昔から?」
「そう。食事の時は兄もいたし注意するいい機会だと感じたんだけど、言い方が甘かったのかな。全然反省してないよね、あれ。ごめん、僕がいないところで色々言われてたんでしょう。気づけなくて申し訳ない」
「蒼井さんが謝ることじゃないです!」
「でも……迷惑かけたのに、こうして来てくれたの本当に嬉しかった」
噛みしめるように言う蒼井さん。その声が心にじんわり染みた感じがした。ああ、私来てよかったんだ。迷惑じゃなかったんだ……。
彼は私にゆっくり向き直り、こちらを窺うように顔を覗き込む。その様子に、私は緊張から体を強張らせ、膝の上に置いた手は汗をかく。
「もしかして、あの子とのことで色々気にしてくれてた?」
「……は、はい」
「それで直接来てくれたの?」
「そ、そうです」
「これは、期待するよ?」
がちがちになって動けなくなっている私の手に、彼の指がそっと触れる。
私の反応を見ながら、指先同士を少しだけ密着させる。ほんの少し触れているだけなのに、蒼井さんの手が熱いことが分かった。逃げない私の様子を見て、彼の指は徐々に私の手を包むように動く。そして指を絡ませ手を握られると、目をぎゅっと閉じて俯いた。
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