彼女の奇跡②


「リディ……」

 華奢で、傷跡一つない真っ白な背中が破れた隊服の隙間に覗いている。視線を上げれば、真っ白だった頬や唇にやや赤みが差していて、苦しく途切れそうだった呼吸は元に戻っていた。どっと身体の力が抜け、地面にへたり込む。そのリアージュに、近寄ったエトワールが耳元で囁いた。

「約束はお忘れなきように」

 その一言に、はっとリアージュは我に返った。

 軽い足取りでその場を去っていく、緩やかな珊瑚色の髪の神星官に彼は唇を噛んだ。

 今目にしたのは、尋常ではないほどの星力だった。それも……星からの祝福を授けるように、花々が舞ったのだ。こんな奇跡は見たことがない。ということはつまり。

(彼女は……)

 自分たちが引き入れようと考えていた聖女で間違いないだろう。

(教会は知っているのか……? それに殿下や皆は……)

 見たことは誰にも話すな。それがエトワールがリディアを癒す条件だった。ぐるぐると胸の内を打算が渦巻くが、リアージュは無理やりそれを呑み込んだ。

 彼女は「時が来るまで」と言っていた。

 それがいつなのかは不明だが、必ず訪れることだろう。その際に、リアージュたち王党派の計画を発動させればいい。現状、やらなければいけないのは毒サソリ、ダイアウルフ、そしてリディアを襲った犯人を捕まえ、元宰相派に関わる人間なのか調べ上げることだ。

 判明すれば、しばらくは連中を抑えておける。

 ふーっと長く息を吐いて高まった苛立ちと焦り、怒りを沈めていく。それから顔色がよくなりつつある婚約者に、そっと近寄った。手袋を脱いで直に、指先で彼女の前髪を払って額から頬へとなぞる。

 血まみれで倒れる彼女の姿を見るのは、全身を引き裂かれるのと同じくらいの苦痛だった。あのまま星の女神が彼女を連れて行ってしまったら……。

(駄目だ……リディアは単なる餌だったはずだ)

 自分から飛び込んできて、こちらを真っ直ぐに見つめ、自分の婚約者を排除して欲しいと訴えていた。彼女を犯人にする計画すら立てた。

 だがもう、何も知らずに彼女を駒だと扱えた頃には戻れない。

 リディア・セルティアに運命を狂わされた。

 ゆっくりと顔を伏せ、柔らかな呼吸を繰り返す唇を、そっと唇でなぞる。掠めるようなふれあいだが、リアージュはそれで満足するよう自分に告げて、無理やり身を起こした。それから大股で幕屋を出る。

 すぐさまナインが駆け寄ってきて、リアージュは叱責を堪えた。今はまだ、彼女を罰する時ではない。

「ナイン」

「はい」

 青ざめて俯く彼女に、リアージュは谷の平定は完了したので今度こそリディアを護り、隊を率いて砦に戻れと命じる。

「閣下はいかがなされますか?」

 見上げる銀色の瞳に、リアージュはぞっとするような笑みを浮かべた。

「キツネ狩りだ」

 オーガストを狩り出す。

 くるりと踵を返し、オルダリア公爵は靴音高くその場を後にする。

 誰もがもう、容赦しないだろう。全ての元凶がオーガストだと、証拠を見つけてくるはずだ。

 歩きだす公爵にナインはついて行けない。それは許されない。リディアを護るという任務に失敗したのだから。それでもまだ、退路を任された。

「退却する」

 全員に聞こえるよう命じ、ナインはそっと幕屋を覗いた。自分の所為で傷ついた彼女に顔を歪め、壊れ物を扱う様に抱き上げる。いきている。

(リディア様ッ)

 じわりと滲んだ視界を誤魔化し、ナインは大急ぎで修復済みの馬車へと向かった。なるべく早く、この地を去りたかった。

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