彼と彼女の誤算
三階へと降りてきたリディアは、レティキュールからもう一つの鍵を取り出し扉を開けた。こちらには誰かが侵入した形跡もなく、ベッドのマットレス下に隠しておいた宝石箱も明けられた形跡はなかった。
それでも中を確かめ、手紙を目にして安堵する。振り返れば入り口で公爵が目を丸くしており、ざわめいていた心がいくらか落ちつくのを感じた。
「念には念を入れまして。別名義で部屋を取っておいたのです」
本名で取った部屋に、遅かれ早かれ気付いたオーガストが何かしら仕掛けてくるだろうと読んでの行動だ。
どいつもこいつも伯爵令嬢は頭を持っていないと考えていてくれてありがたい限りだ。こうもあっさり罠にかかってくれるとは。
(もっともこんなにすぐだとは思わなかったけれど……)
社交欄にオルダリア公爵とのワルツの件が載るのは恐らく明日だろう。リディアが黙って屋敷を抜け出してからすでに一週間近く経過している。オーガストは死ぬ気でリディアを探しているだろうし、どこかから所在が明らかになった際に連中が仕掛けてくると予想はしていたのだが、それ以上に早かった。
(次からは武器を携帯しないと……)
この世界には剣と魔法と銃がある。リディア・セルティアの得意科目がわからないが、剣でないことは事実だろう。となれば練習すれば使えそうな銃か魔法。手っ取り早く銃を手に入れるべきかと一人考えていると、近づいてきた公爵がそっとリディアの肩を掴んだ。
そのままくるりと回れ右をされる。
「閣下?」
「とりあえず荷物をまとめてここを出るぞ」
「え?」
確かにホテルへと潜入を命じた人間が戻って来なければ、その人間を派遣した相手……オーガストが何かしら仕掛けてくるだろう。だが喫緊ではない。それに荷物をまとめてどこに行けというのだ。
「お気持ちはありがたいのですが、閣下。今日はこの部屋に泊って、明日別のホテルを探しますから」
「いや、どこに誰の目があるかわからない。ここに君が滞在しているとこんなに早くバレるとは思っていなかったんだろう?」
図星だ。
う、と言葉に詰まるリディアにざっと部屋を見渡した公爵が宝石箱を傍にあった鞄に詰め込む。
「他に荷物は?」
「……荷ほどきはしてませんのでそれだけです」
「では参ろう」
「ええ!?」
再び驚くが鞄を手にし、リディアの肩を抱く公爵はそのまますたすたと歩きだした。
「ど、どこに行くんです? どこかに泊れるあてでも?」
相手は今を時めくオルダリア公爵なのだ。もしかしたら秘密の隠れ家的なものがあるのかもしれない。そう考えて尋ねれば、ふと足を止めた彼がひたりとその視線をリディアに向けた。
「……君に、わたしから三回、ワルツを申し込んだ」
「…………ええ、まあ……そうですね」
いいように利用するためだけど。
半眼で見上げれば、彼がふっと妖しくその目を細めて笑う。
「結婚秒読みかと噂される予定の君を、ホテルから連れ去って屋敷に迎える……別にオカシナ行動ではないだろう?」
「はぁ!?」
オカシナ行動過ぎるだろう、それは!
大きめの反論がリディアの口をついて出る。慌てて彼の腕から逃れようと後退するが、背中に手をまわした公爵閣下はそれを許さなかった。
「ここにきてワルツが役に立ったな。これから君は俺の監視下に入ってもらう」
荷物を掴んだまま抱き寄せられ、抜け出そうともがく耳元で甘く囁く。まるで恋人に謳うような声音だが、言ってることは監禁生活宣言だ。
「じ、冗談じゃありません! 自分の身くらい自分で守れます! 見たでしょう!? 私の戦いっぷりを!」
「頬に傷を作って何を言っている」
痛い所を突かれた。
「け、けど……!」
「駄目だ。連れて帰る」
「名目は!?」
声を荒らげて尋ねれば、公爵は
「婚約者を屋敷に住まわせる理由は、結婚式が近いから、だろうな」
「結婚って! そもそも婚約すらしてませんけど!?」
必死に胸元を両手で押すが、彼はただにこにこと笑うだけだ。
「ではその頬の傷の責任を取ろう。オルダリア公爵の意中の人と見られたせいで傷を負った。責任を感じた公爵はミス・リディア・セルティアを屋敷に連れて行き、大切な人だと周囲に知らしめることにした。これでどうだ?」
「何一つ話の内容は変わってませんよね!?」
悲鳴のような声を上げるが、彼はただ楽しそうにリディアの背中を押して歩くだけだ。
(どうしてこうなった!)
ぎりっと奥歯を噛み締め、リディアは頭を抱えたくなる。この世界での自分の人生は三行にも満たない説明文のみのはずだった。
それをどうにかひっくり返そうとしただけなのに。
主役の一人であるオルダリア公爵とはもともと関わり合いになる気はなかった。ブルーモーメントもハイランド侯爵が主催だといわれていたのに、蓋を開けたらこれだ。
内心頭を抱えながら有無を言わさぬ公爵について行かざるを得ない。のろのろと廊下を行き、螺旋階段を下りるのかと思ったら使用人用の通路に連れていかれ、人目に付かないようにホテル内を外へと連れ出されていく。そんな無言の公爵を見上げて、リディアは溜息を呑み込んだ。
どうやら本当にここを出て公爵家に行かなければいけないようだ。
(……でもまあ、しばらく大人しく監禁されていれば……)
呪術師の件を探り出した公爵がオーガストを消し、黒の領地で聖女エトワールと公爵が出会った時、晴れて自分は自由の身になれるだろう。その間、公爵家で悠々自適に生活すればいい。
そうやってどうにか前向きに今後の見通しを立てるが、何故か薄ら寒いものを感じる。
「…………あの……周囲に婚約者だなんて言いませんよね?」
恐る恐る彼の上着の袖を引っ張って尋ねれば。
足を止めた彼がリディアに向き直り、そっと顎に親指と人差し指を当てて持ち上げ、乾いた血のこびりつく傷に目を細めた。
「その傷が明日の朝にきれいさっぱり消えていればな」
夜遅くゴシップを扱う大手新聞社に一通の信書が届けられた。
オルダリア公爵、リアージュ・エル・ラムレイからのもので、遅くまで詰めていた記者はその内容に目を見張った。
そこにははっきりとミス・リディア・セルティアに求婚し承諾を得たと書かれており、衝撃なその内容に、彼らは大急ぎで社交欄の差し替えに奔走するのであった。
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