転移トリマーの初恋ヘタレ猫攻略計画!〜100日後には王妃様〜
汐瀬うに(しおせ うに)
<前編> らぶ?!ストーリーは突然に
これは、人生をかけて猫を愛した王妃さまのお話。
――事の発端は、数日前の目覚めだった。
背中にひんやりとした固さを感じた。昨夜ベッドで寝た時とは、全く異なる寝心地。寝相は悪くないはずだけど……もしかして床に落ちた?
体もなんとなく寒いし、背中も肩もバキバキで嫌なタイプの目覚め。目を閉じたまま、うーんっと伸びをして目を開けたところで、全身の違和感の正体に気付いた。
ここは家の床ではなく大きな教会らしき建物の中央、大理石の祭壇の上。様々な種類の猫たちが二本足で立ち、両サイドから私を好奇の目で見ている。
「村上 清香様」
それは、確かに私の名前。でも、重い瞼を擦って夢から醒めようとしても、私を取り囲む神々しい景色は変わらない。
パジャマは昨日着たままのブラウンのサテンパジャマ。髪は真っ黒で腰まで伸ばしっぱなしの黒い髪。どうやら私自身だけが昨夜眠った格好のまま、この訳が分からない世界に降り立っているという状況らしい。
目の前には、2足で棒立ち状態の――大きな黒猫。
白地に金刺繍の小さなケープとモノクルを着け、重そうな厚手の本を小脇に抱えたその艶やかな毛並みの猫は、尻尾を勢いよく振りまわし、不機嫌のサインを見せつけている。
「今回の王妃様は、また随分と優雅なお目覚めでらっしゃいますな」
驚くほど嫌味な第一声。
気取った服の猫が喋っていることすら理解できないのに、どういうことだろう。ツンデレ黒猫は大好物だけど、流石に夢オチであって欲しすぎる。
今すぐ眠れば次こそはちゃんと目覚めるだろうと、もう一度体を横にして目を閉じようとすると、真横まで歩いてきた黒猫にシーツを奪い取られた。
「……何をしているのです」
「いやコレ絶対夢ですよね? 私早く起きないとサロンが」
個人経営で2年目になるトリミングサロンは、今日も朝から立て続けに4件の予約が入っている。顧客の殆どがリピーターで、こちらに気を許してくれている大切なお客様。私の寝坊ごときで失望させるわけにはいかないのだ。
こちらの事情を説明しても、黒猫は「これは現実です」と言って話を聞かない。猫が喋ったり、二足歩行でコチラを覗き込んでみたり、こんなかわいい現実があるわけがないのに。
「このニャローム王国では王が変わる度、こうして前王と関わりの深い人間を召喚して第一王妃として迎え入れるのが慣わし。誰がなんと言おうと、お前は第35代国王グランディス陛下の王妃になるべく人間なのです」
「関わりが深いって……私別に王様を助けたりはしてないと思いますけど」
「呼ばれる基準や価値は王のみぞ知る事。我々の範疇ではない」
赤銅色の瞳はこちらに終始ジトリとした目線を送っていて、好ましく思われていないことを即時に理解した。ピンと耳を立てる様子は、まるで飼い主以外の人間を知らないタイプの、警戒心マックス猫ちゃんだ。このまま機嫌を損ねる事をしたり、不用意に近付けば、強烈な猫パンチが飛んでくる気配がある。
それに加えて周りの猫たちも、それぞれ眉間に皺が寄っていて気が強そうな顔立ちの子ばかり。こちらに多少の興味はあるものの、警戒心ビンビンに近寄りたくないという顔をしている。
うんうん、わかるよ……知らない人間って怖いよね。
今日1番手に予約の入っている元野良のサバトラちゃんを思い出す。今は甘い声で鳴いてくれるあの子も、最初は洗濯ネットに入れて爪切りしたんだったっけ。
回想を交えながら自分の置かれている状況を確認している間に、白いワンピースを着た三毛猫が近くへやって来た。こちらの理解スピードを無視して、黒猫は「禊ぎの間へ運べ」と声をかける。
両脇をとろふわな毛並みのお手手に掴まれて行き着いた先は、豪奢な浴室。あれよあれよという間に服を脱がされ、浴槽へ浸けられ……私は、足の先から髪の先までしっかりと洗われてしまった。
「まさか生きてる間に聖女様を洗える日がくるなんて、身に余る光栄ですっ」
ミトンの様にまあるい手を器用に使い、泡立てた海綿で私の身体中を触れるたび、その猫は喉を鳴らしていた。
浴室を出てからも、食事の時間も、この世界は見渡す限りの猫、猫、猫の猫天国。
皆が二足歩行で私と同じくらいの背格好。かわいいのと恐ろしいのとが混在する異世界。まるで自分がアリスのように小さくなった感覚で、乗り物酔いに似た眩暈すら感じた。
***
この謎の屋敷へ来て、1週間。
私にやれることはこの王国の歴史書を、あの三毛猫ちゃん――リディアに読んでもらったり、お散歩かお昼寝をするくらい。
初日は流石に現実世界で目覚めてくれと願ったけれど、ここまでぐうたらとした猫生を送る日々を続けていると、案外諦めがついてくる。それに、人間としてキビキビ生きていた時よりも格段に心身の調子がいい。満員電車に食事の準備、掃除片付けなど、とにかくストレスがない。
ただデメリットを挙げるなら、この生活を送っていくなかでひとつだけ、どうしても納得できていないことがある。
グランディスと呼ばれる王猫の嫁になるはずなのに、肝心の結婚相手が一向に顔を表さないのだ。
どうやら深い理由があるらしいけれど、枢機卿と呼ばれていた黒猫もリディアも私には何も話してくれなくて、ただ一日がゆっくりと過ぎていくばかり。私は"猫の国の王妃様になる"という名目がないと、ただ人間社会から隔離された堕落人間でしかない。
「やっぱり社会からの隔離感が辛いよ、リディア……」
「猫の社会ではダメですか? ゆったりまったり、やりたい事をして生きるのもいいものですよ?」
「うーん、それも良いんだけど。誰かのためだったり、何かのためだったり、私は私の目的を持って生きたいの」
「では……キヨカ様の心の平安のため、では?」
「そ、う、じゃ、な、く、て……あぁ、なんて言ったら伝わるんだろう。うーん」
教育・勤労・納税を義務として生きてきた純ジャパニーズとお猫様の生き方は、相容れないのかもしれない。何度話しても、リディアは「はて?」という顔しかしなくて、ただただ働きたい気持ちを理解できないようだった。
「ねぇリディア、王様はどうして私のところに会いに来ないの? 私、王様のために呼ばれたんでしょ?」
「それは王のみぞ知る事ですからねぇ」
「せめて会いに来てくれたら、私も義務を果たせるのに」
「うーんまた難しいこと言って……。今日は何も考えず、キヨカさまも日向ぼっこしましょうよ」
「……今日は、じゃなくて今日も、ね」
もう何度散歩したかわからない、自然のままに作られたお庭を歩く。飛び込んだら全身種だらけになりそうな草木が、絶妙なバランスを保っている庭。高さも、色も、香りも違う草花がギュッと詰まって生えていて、大抵私よりもリディアの方がいつも揺れる葉先に夢中になっている。私のお付きという名目でお散歩やお昼寝を一緒に楽しめるこの仕事を、彼女は目一杯満喫しているようだった。
「キヨカさま、あの木の下なんてどうですか?日光浴すると心地良くて、風に混ざるお花の匂いも最高なんです」
彼女の指す先には、1本の大樹がある。尖った葉の細枝がこんもりと丸いボールのようにカットされ、風でふわふわと揺れていた。
「ん、いいわね。じゃあ……木陰で本を読むから、その間リディアの背中を貸してくれる?」
「はいっもちろん!」
軽い足取りで、たたたっとその木の近くへ歩を進めた。が、今日はなぜか先約がいる。何か白くて大きなふわふわ。回り込んでよく見れば、オッドアイでサバトラのような模様のサイベリアンが先に陣取っていた。来訪初日に見た黒猫やリディアよりも格段に大きい。
時折、ぱたりぱたりと優雅に動く銀灰色の尻尾を見ると、リラックスして何かを見つめていたのかもしれない。まだ大人になっていないのか、たまたまそういう格好なのか、その幻想的な色の猫は何も着飾らず、猫らしい姿のまま、ただそこに丸くなっていた。
清香とリディアに気付いたその猫はゆっくりと立ち上がり、お尻を高く上げてぎゅーっと伸びをする。一度座り込んでリディアを見た後、すぐに清香の方へと目線を移した。湖と満月を抱くようなそのオッドアイは、底なしの輝きがある。
瞳に吸い込まれるようにゆっくり近付くと、気まぐれな尻尾が清香の背中をポンと叩いた。しっかりとボリュームのある尻尾から繰り出された衝撃は凄まじい。清香は当然勢いを殺せず、真っ白で立派な腹毛へと体ごとダイブした。
正直なところ、仲の良い猫ちゃんの胸毛をお借りして顔を埋めたことは、何度もある。けれどまさかここへ、全身でダイブできる日が来るなんて。猫好きには夢のまた夢でしかない。
猫ちゃんだらけの異世界、様様。こういうハプニング付きなら大歓迎だ。一瞬でもふもふ天国に飛び込んだ私は、その暖かさと柔らかさに夢中になった。
「……い。……おい! お前……っはなれろっ! ニンゲン! ハナヨメってば!」
突然の幸福を満喫していたというのに、立派な腹毛の持ち主がくすぐったそうに体をもだもだと動かしたことによって、私はその振動に耐えきれず、青々とした芝生へずしんと尻餅をついた。
「あぁもう、面倒だな……。おい、ハナヨメっ! 今のことは、だれにもいうなよっ!」
毛だらけの猫の顔色なんて、普通ならわかるはずもない。
けれど、顔を左右に細かく動かしたり、眉間に皺を寄せたり、立派な耳を少し下げていたり……彼にはなんとなく恥ずかしそうにしている雰囲気があった。私にはわからない何か、お猫様的にまずいことでもしてしまったのかもしれない。
「えーっと、よくわかんないけど……ごめんね?」
「ん? ニンゲンはわかんなくてもあやまるのか?」
不思議そうにこちらを眺める大きな顔が近づいてくる。サイベリアンらしいシュッとした顎。ピンとはったお髭とツヤツヤのお鼻が、むにむにと小さく動く。少なからず、こちらに興味を示しているみたい。
「……またな、ハナヨメ」
立派な尻尾の猫は、清香のサイズを確かめるように一周体を擦り付けてから、少し勢いをつけてその場から飛んだ。その巨体は物置小屋の屋根、2階の出窓、3階の出窓……と身軽に移動し、早々と姿を消した。
この城に来てから、
よく理解のできないまま部屋へ戻ると、リディアの説明によって少しずつ彼らの事情が見えてきた。
猫とは通常1年半で成人し、20歳になる。これは猫好きとしては常識中の常識だから理解できる。
その後は1年で4歳ずつの計算になるのけれど、グランディスはまだ18歳。本来ならば20歳を超えてからやるべき王妃召喚の儀式を、彼は好奇心で100日も早く行ってしまったのだそう。そしてこれが、地味に大きな問題になっているらしい。
今回は無効にすべきだと騒ぐもの、日程など気にせず進めよというもの、議会が割れて話にならないのだとか。この間の枢機卿はひとまず私をこの離れへ置き、100日待つ計画を立てたのだけれど……結果、その警戒の間を潜って顔を見に来てしまったのがさっきの大猫、国王グランディスだという話だった。
「えっじゃあ、会っちゃったって知られたらまずい?」
「う、それが……」
申し訳なさそうに背中を丸め、しっかりと猫背になったリディアの後ろから、枢機卿の黒猫がゆっくりと歩いてくる。足音のない歩みは、さすが黒猫というべきか。
「今更隠し立てしても遅いと、お伝えするべきでしたかな」
「あぁ、ね」
体を小さく丸め、本来の猫らしい丸みを帯びた座り姿のリディア。私からすればかわいいけれど、枢機卿の怒りに震えていると思うとかわいそうに思えてならない。
「でも彼が好奇心で来ちゃったんだから、仕方ないでしょ」
「仕方ないで済ませられたら、我々の介入は不要でしょうな」
「そうね。だからそれで良いんじゃない? だって猫って元々気まぐれでしょう?」
「全てを、その気まぐれで片付けられるとお思いか?」
「そうは思わないわよ。でも私がここに来たのも彼の気まぐれなんだから、今回の事はそれで片付けて先に進めるべきだわ」
この後、「なぜ国王と引き会わせたのだ」と詰められそうなリディアを守りたくて、必死で言い返す。ふたりで散歩してたらたまたま出会しだけなのに、そんなことで責められちゃ堪ったもんじゃない。
細身な体から繰り出される唐突な猫パンチは、流石にこのサイズ感では避けられなさそう。だけど、こっちは人間歴27年。猫の年齢でいえば、124歳の化け猫同然だ。偉そうなだけの猫に舐められてたまるかい。
「ああ言えばこう言う。うるさい娘だ」
「あったりまえでしょ。ひとりで切り盛りしてクレーマーだって対応してきたんだから」
ふんっ!と腕を組んで怒りをあらわにすると、何か負け惜しみを言うように小さな声でみゃうみゃう言いながら、黒猫は部屋を後にした。
「やだ、キヨカ様すごい……。ノワール様にあんなに強気になれる方、見たことないです」
「あいつノワールっていうの? 本当に毎回嫌味な猫!」
リディアは「猫に猫というのはちょっと……」というので理由を聞くと「ねえ、人間」と声かけたりはしないでしょう?と返された。なんとなく面白くて、今後もあえて猫と呼んでやると心に誓った。
***
100日早く呼び出されたのなら、そのまま100日後まで放置されるのかと思いきや、引き合わせの日は案外早かった。あの日、枢機卿を詰めたのが何処かで効いたのかもしれない。
「キヨカさま、今夜のお召し物はセクシーにします? キュートにします?」
「あの猫が来るんでしょ? 普通の寝巻きじゃだめ?」
「のんのんのん! 夜の王様は、すっごいらしいですから。キヨカさまもここは対抗するつもりじゃないと!」
「対抗? ちょっとよくわかんないけど、猫ちゃんなら結局あったかいのが一番なんじゃないの?」
「う……確かにあったかいのは引き寄せられはしますけど……」
「じゃあほら、やっぱりあったかいのにしようよ〜」
ふたりでああでもない、こうでもないと話しているうちに時間はやってきて、結局私はリディアのおすすめで、とろっとした素材のナイトドレスを着ることになった。これもう、ふみふみしたくなっちゃいますね〜というリディアのお墨付き。
髪は櫛を何度も通してサラサラにしたし、前髪は数日前に切ってもらってバッチリいい感じ。王妃様とまではいかないけど、多少の新妻感もある。これなら、夜はすごいという王様にも太刀打ちできるかもしれない。
――と思ったのも束の間。私はそんな甘い考えを持っていたことを、一瞬で後悔する羽目になった。
ブロンドのショートボブに真っ白なお耳。ふさふさで自慢げにゆらゆらと揺れる立派な尻尾。真っ白な詰襟の丈の長いシャツに同色のパンツを履いただけのシンプルな格好だというのに、信じられないほどに品がある。27歳の肌では到底太刀打ちできない美少年がやってきてしまった。
「あの……君って本当にこないだの白猫……?」
「君って? それもしかして僕に言ってる?」
「あ、うん……まずかった?」
「いや、まずいとかじゃないけど。僕にそんな口の聞き方する奴は初めてだから」
そんな口の聞き方?じゃあ何が正解なんだろう。一応今はまだ、私の方が年上のはずだけど。
「それじゃあ、敬語の方がいいですか? えっと……グランディス様」
「えっと……ってなんだよ。失礼な奴」
「何よ。あなただって失礼じゃない、私の方が年上なのに」
「僕に向かって年齢如きで偉そうにする奴なんて他にいないから」
まぁなんでもいいとばかりにベッドに腰掛けた彼は、用意されていた葡萄酒を飲みながら、静かにこちらを眺めた。尻尾の機嫌は、そんなに悪くなさそう。耳の様子は……ちょっと外向きでリラックス中ってとこ。語気は強くとも案外落ち着いているみたいだし、これなら彼の思いも聞けそうだ。
「ねえ、私達って本当に結婚するの?」
「形式上はね。僕は別に君じゃなくてもいいけど」
「え! でも私しか召喚されてないよね……?」
「別に2人目以降は猫でも問題ない」
「そうなったら私は……?」
「ただここでまったりしてればいい。いい身分だろ?」
飲み終わったグラス片手に、グランディスはベッドへ横になった。一応初対面の人のベッドでゴロゴロするのに抵抗がないのは、やっぱり彼が猫だからか。
「……じゃあ、私じゃなくてもいいじゃない」
「ところが、それはそうでもない」
ベッドサイドでゆらゆらとさせていた尻尾を止め、こちらの方へ体を向けた。口元は笑っているけど、目は笑っていない。真面目なのか、冗談なのかわからない表情はやけに色っぽくみえる。
「どういうこと?」
「君さ、昔金色の猫を助けなかった? 少し丸くて、目つきの悪いの」
「うーん。すぐに思い当たる子はいないかなぁ」
「本当に? 僕は君が助けた猫の息子で、その猫こそこの国の先代王なんだけど」
「え! じゃあ、今回の話はその恩返し……的な?」
「そのはずなんだけど。助けた本人が覚えてないんじゃ話にならないよね」
「ゔ……頑張って思い出します」
まぁ来てしまったものは仕方ないからご自由に、と笑ったグランディスはそのままベッドに横になっている。私に本当に興味がないのか、はたまた目線の先のモビールを見て楽しんでいるのか、本心が読めない。
「僕は今のところ、君のこと好きでも嫌いでもない。俺は邪魔されなければなんでも良い」
「邪魔?」
「そう。昼寝の邪魔、おやつの邪魔、散歩の邪魔」
「100歳近くまで一緒にいるかもしれないのに……?」
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
「猫の愛ってそんな曖昧なの……」
「そんなもんじゃない? だから君も好きだと思ったらノワールを相手にしたって良い」
特に気にしないと言いながらも、耳をほんの少し動かしてこちらの情報収集をしている。ゆるっとした答えに頭を抱えるけれど、本当に全く興味がないという訳でもなさそう。
「ノワール?! あの嫌味ったらしい猫だけは無理」
「あはは! なんだ、お前もか! そりゃいい」
「あいつを好きになるくらいなら、あなたに好きになって貰う努力をするわ」
「へぇ。……いいじゃん。頑張って」
急に興味が湧いたのか、グランディスは太い尻尾を立ててこちらへ歩いてくる。私の顔を品定めする様に顎をくいっと持ち上げて、まぁまぁだなと呟いた。
「……ちょっと!」
グランディスはそのまま部屋を出ていこうとする。一応今夜はふたりで寝る予定のはず。こんなに早く出て行かれては、要らぬ心配と迷惑をリディアにかけてしまいそう。
「何?」
「朝まで……ここにいないの?」
猫相手に照れる必要も無いはずなのに、なんだか顔が熱い。27年生きてきて、それなりに恋愛経験もある。長く付き合ってきた人もいた。親のいない家へ誘ったこともある。それは相手が美猫だからか、明らかに年下の雰囲気があるからか、なんとなく見え隠れする感情の駆け引きに、背徳感と甘美さを感じる。
「いても良いけど」
「けど?」
「抱いてあげたりはしないよ?」
「〜……っ!!」
余裕そうな顔して笑う猫に、私が抱かれたいと思われたのかと思うと悔しくて、思わず耳まで赤くなる。ヒラヒラと手を振って背中を向け去っていく彼にそういうことじゃ無いと否定しようとしたけれど、その頃にはもう彼は部屋を出ていて、結局私は何も伝えられなかった。
***
1ヶ月を過ぎた頃から、グランディスは私を揶揄うのが面白くなったのか、寝る前に時折顔を出しては数時間で自室へ帰っていくということが増えた。
そうなればこちらも迎え撃つつもりで、迎えるたびに部屋のモビールや布団の質感を変えてみたり、またたび酒を出してみたり。とにかく手を替え品を替え、飽きさせない努力をした。
透け感のあるセクシーなパジャマも、裾の短いキュートなパジャマも、時にはもこもこのパジャマも……試しはした。結局、どれもそそられないなぁなどと揶揄われて終わったけれど。
「…………リディア。あいつ、強敵すぎない?」
「まぁ、王ですからねぇ」
今日もぽかぽか陽気だからと外へ出て、ふたりで芝生の上をゴロゴロしながら、ガールズトークに勤しむ。
初めの頃は少し抵抗があったはずなのに、今では服に多少の土や芝が付くのも全然気にならない。なんならこの芝のほろ苦い匂いが鼻腔をくすぐるたび、ほかほかした気持ちになるくらいに好きだ。
リディアは私があれやこれやと迷ったり、服を変えたりするのを、ただ目を細めて見つめてくれる。これは猫側がこちらにかわいいとか好きとか、良い様に思ってくれている時のサイン。グランディスだって、彼女くらいわかりやすく居てくれればいいのに。
「まあまあ、そんなに焦らなくても。もうすぐ春ですから」
「……春だから、焦ってるの」
専門学校でも、勤めていたサロンでも春は恋の季節だということは学んできた。服についた異性の猫のフェロモンだけで脱走してしまうこともあるくらい、春は警戒の時期。
「私が選ばれなかったら、どうしようもないじゃない……」
雄がアプローチしてきたらそれに応えるのが雌。追われて初めて、話が始まる。恋の相手にすらなれていなければ、論外なのだ。
「リディアみたいにかわいい猫ちゃんじゃないし、私なんて選択肢にすらないかも」
はーあ、とため息をつくと、リディアはズリズリとほふく前進のように擦り寄ってきて、滑らかで光沢のある毛を撫でさせてくれた。顔を抱きしめても、首元に顔を擦り寄せても、全く嫌がらない。
「私なんてそれこそ王様からは対象外ですし、大丈夫ですって」
至近距離でゴロゴロと喉を鳴らされるとたまらない。喉を撫でてもいいかと聞くとその場でゴロリと寝転んで、これでもかというほどに撫でさせてくれる。
「それに、陛下は案外キヨカさまのこと、気に入ってると思いますし」
「え、どうして?」
「うーん、猫の第六感ですっ」
仰向けのまま、アイドル顔負けの、パチンと弾ける様なウィンクが飛んできた。リディアのはちみつ色の瞳と白く長いまつ毛の力は、偉大で尊い。
「うっ……かわいい」
胸を抑える仕草をすると、立ち上がったリディアは私に追い打ちをかける様に、反対の瞳でさらにもう一発。
「うっ! それは卑怯よ、リディア!」
雷に打たれたような仕草をすると喜ぶリディアが可愛くて、結局その日は日が暮れるまでしばらくふたりで茶番を打って遊んだ。
***
彼に決断を迫られたのは、残り1ヶ月を切った頃だった。花々が咲き乱れ、暖かな空気に包まれた3月。
「なんかお前最近、つるつるしてるな」
部屋へお茶を飲みに来ただけのグランディスは、尻尾で私の顔をふさふさと触れた。会うたびに背が高くなる彼は、この間まで同じくらいの背丈だったのに、もう180近くある。顔立ちもずいぶん男らしくなったし、髪も伸びて肩を超えている。
美少年というよりも、もはや美青年。このスピードで成長するなら、私の年齢なんてあっという間に追い越していくんだろう。
出会った頃からさらに成長したふわふわな尻尾は、私から触ると嫌がるくせに、こうやって時折急にこちらへ触れてくる。持ち主に似て、だいぶ自由でご都合主義な節操のない尻尾。
……まぁ猫はそこがかわいいのだけど。
「つるつる? 何か変わったかな」
「うん。つるつる。なんか気持ちいい」
グランディスの手が私の頬に伸びてきて、手の甲で顔を撫でる。最近の私たちは、この少し不思議な距離で付かず離れずを繰り返している。友達以上、恋人未満とでもいうような絶妙加減。
見目麗しい相手から物理的に近付かれれば、アラサーの私だって絆される。ましてや、ピクピクと動く敏感な耳と太くて長い尻尾付き。魅力的なところしかない。
「ねぇ、頭撫でてもいい?」
「……聞いたからダメ」
ニカッと笑って、寝転がっていた姿勢からぴょんっと立ち上がる。鼻と鼻がくっつくほどに顔が近づいたかと思えばスッと離れ、グランディスは腕を組んだ。さらっと流れた髪はまるで絹糸のよう。
今までにない真剣な表情にどきりとさせられる。逆光であまりよく見えないけれど、顔が近づいたときは、頬が紅潮しているようにも見えた。
「お前、本当に王妃になるつもり、ある?」
「そりゃあ……あるわよ。あなたに呼ばれたわけだし」
「ふーん。わかった」
彼の腰元にぶら下げた茶色い巾着から、水色の液体の入った小瓶を手渡された。机の上に置かれたその液体は、細かいグリッターのような煌めきを放っている。
「これを飲んだら、ニンゲンの世界にはもう戻れない。ずっと、僕と一緒にいることになる」
「飲まなかったら……?」
「101日目の目覚めで、お前はこっちに来た日に戻る。何も無かったことになる」
「……わかった」
それは美容液サイズの小さな小瓶。オーロラを閉じ込めたような不思議な色。この世界を選ぶことに最早迷いなんてなかった。硬そうな蓋を引っ張って開けようとすると、何故かグランディスは手を止めさせた。
「最後の日、寝る前に飲めばいいから。それまでよく考えて」
少し取り繕ったような何とも言えない表情で、薬を持つ私の手を包み込むように触れたグランディスは、初めて私の頬にキスをした。
「〜……っ?!」
「この世界に来てくれて、ありがと」
今までにはなかった甘い展開に、私の手はしっとりと汗ばんだ。私の焦り尽くした顔を、数秒かけて下から眺め見た彼は、いたずらっ子の顔をしながら部屋を去った。彼が去っても、私の動機はしばらく治らなかった。
カーテンの影から見ていたリディアは、ほらねぇと言いながら嬉しそうに微笑んだ。
頬へのキスが彼の決意だと信じ切った私は、100日目まであと20日を残した晩、彼から手渡されたあの薬を飲んだ。少しでも早く、私の決意を彼に伝えたくて。
しかし、次に目が覚めたのは普段とは違うベッド――久しぶりの我が家だった。
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