大陸暦1962年――ピアノと歌


 その日の夜、私はお風呂を早く済ませて礼拝堂でピアノを弾いていた。

 ピアノを弾くのは先日の夜以来になる。弾く気にならなかったのではない。来づらかったのだ。私がピアノを弾いたらまたユイが泣いてしまうんじゃないかと思って。別に泣かせようとして泣かせたわけじゃないけれど、理由がわからない以上やっぱりいい気分はしない。

 それでもピアノを弾きたい欲には勝てず、今日は来てしまった。

 そして弾きながら思う。やっぱりピアノはいいなと。

 今はこうして普通に弾けているピアノだけれど、一時期は弾けないときがあった。

 七年前、お母様が亡くなったあとのことだ。

 それまで毎日のように触れていたピアノに、あれだけ大好きだったピアノに私は触れられなくなった。

 怖かったのだ。お母様との思い出が強いピアノに触れるのが。

 思い出を通して、お母様に責められるのが。

 お母様が亡くなったあの日から、私はお母様が死んだのは自分の所為だと思っていた。

 私が無能者マドリックとして生まれてしまったばかりに、お母様は命を縮めたのだと。

 そして生前も星王家せいおうけ無能者マドリックを生んだことで、きっと回りに口さがないことを言われ続けていたのだろうと。

 だからお母様は私を恨んで死んだのだと思っていた。

 それは心理的要因となり、私は不眠症にもなっていた。

 レスト修道院に入れられてからも、夜が眠れなくて修道院内を歩くことが多かった。

 そんな私にビクトリアは、ピアノでも弾かれたらどうですかと薦めてきた。私がピアノを好きなことは、おそらくお父様にでも聞いていたのだろう。

 ピアノのことは私もずっと気になってはいた。

 お母様のことがなくとも、私は純粋にピアノが好きだったから。

 でもやっぱりまだ触れるのが怖くて、お母様との思い出に向き合う勇気がなくて、ピアノを弾くことは出来なかった。

 だけど修道院に入って一年が経ち、お父様に捨てられたのだと気づいたあと、私は初めて礼拝堂へと足が向いた。

 そしてピアノの前に座り、恐る恐る鍵盤を一つ押した。控目な音色が、礼拝堂に響いた。ピアノの音は礼拝のときに聴いてはいたけれど、自分で音を出すのはほぼ三年ぶりだった。

 その音はお世辞にも家にあるピアノより、良いものではなかった。

 レスト修道院にあったピアノはグランドピアノではなく、アップライトピアノだったから。

 だけど、それでも自分で音を出したという事実が、想像以上に私の心を揺さぶった。

 もっとその音を奏でたい、そう思うが先に私の両手は鍵盤の上に乗っていた。

 自然とその指が走り、曲を奏でていた。

 お母様が好きだった曲を。

 するとお母様との思い出が蘇ってきた。

 お母様と過ごした、お母様が亡くなるまでの思い出が次々と。

 それらの記憶を思い出し、私の目からは涙が溢れていた。

 何一つ冷たいものがないその温かな記憶に触れて、気づいた。

 お母様が、私を恨んでいるわけがないと。

 だってお母様は言っていたから。

 私が生まれて本当に嬉しかったと。

 生まれてきてくれてありがとうと。

 病床に伏せてからも言ってくれていたから。

 私のことを、愛していると。

 そう言って笑ったお母様の顔には、嘘は浮かんでいなかった。

 お母様は心から私のことを、愛してくれていた。

 亡くなるその日まで多くの愛を、私に与えてくれた。

 私はそのことに、お母様が好きなピアノを通して気づいた。

 そして自分の愚かさを恥じた。

 他人の言うことに惑わされて、お母様の気持ちを歪めてしまっていたことを。

 お母様のことを信じ続けられなかったことを。

 それでも私を生んだことで、お母様が寿命を縮めたのが事実かどうかはわからない。無能者マドリックに対してそういう説があるのも確かなようだから。

 でもどちらにせよ私はもう、自分の所為でお母様が亡くなったとは思っていない。

 そんなことを思ったら、お母様が悲しむのはわかっているから。

 いやむしろ『なに馬鹿なことを言っているの』と笑い飛ばしてくるかもしれない。

 お母様は明るく前向きで、どんなときでも笑顔を絶やさない人だったから。

 その太陽のような笑顔を思い出し、思わず口端があがる。

 そのままお母様の思い出に浸りながら弾き続け三曲目に入ったとき、扉が開く音がした。確認しなくともそれが誰だかはわかっている。

 今日はまだ消灯時間ではない。弾いた曲数でそれがわかる。

 彼女は――ユイはそばまでやってくると、横からピアノを弾いている私をじっと見てきた。


「気が散るんだけど」


 手を止めないまま、私は言う。


「すみません」


 謝りながらも、そこに感情は全くこもっていない。そして動く素振りも見せない。

 私はため息をついて手を止めると横を見た。いつもの無感情なユイの顔がそこにはある。

 今日は、泣いていない。そのことに少し安堵しながら私は言った。


「座れば」


 ユイの目が瞬く。心なしか驚いているように見える。


「どうせ、終わるまで待ってるんでしょ」

「はい」


 お店に迎えに来たときとは違い、ユイはすぐに肯定した。そこから彼女の音楽に対しての興味みたいなのが感じられた気がする。まぁ、私の勝手な思い込みかもしれないけれど。

 ユイはピアノがある壇上を下りると、一番前の礼拝席に座った。それを見届けてからピアノに向き直る。

 人前で弾くのは何年振りだろうか。そう思いながら演奏を再開する。

 演奏中、視界の端に映るユイはじっとこちらを見ていた。いつも通りの反応だ。一曲二曲三曲と弾いても、反応に変化はない。

 三曲目が弾き終わると、私は少し迷いながらも四曲目に入った。

 それは先日の最後に弾いた、お母様が好きだった曲だ。迷ったのはユイが泣いた原因がこの曲にあるのではないかと思ったからだ。それでも本当にそうなのかを確かめたい気持ちもあったので、私は演奏に踏み切った。

 弾きながら私はユイを窺う。するとこれまでこちらを見ていた彼女が少し俯いて目を伏せていた。まるで曲に聴き入るように。明らかにほかの曲とは違う反応だ。

 ……もしかして。

 曲の途中で手を止めると、ユイが顔を上げてこちらを見た。


「この曲、知っているの?」

「はい」とユイがすぐに認める。

「歌える?」


 そう。お母様が好きだったこの曲は、ピアノ独奏の曲ではない。星歌せいかの伴奏だ。

 お母様が初めて行った星祭せいさいで聴いて感動した星歌せいかの。

 星歌せいかはどれもお母様のお気に入りだったけれど、切なくも荘厳で美しいこの曲をお母様は特に気に入っていた。

 星歌せいかはたまにお母様もピアノを弾きながら歌うことがあった。でもそれが本当に酷いもので、私たち家族はそれを聞いていつも笑っていた。それに対してお母様は拗ねるでもなく『人を笑わせる歌が歌えるなんてこれも才能かしら』と言っておどけていた。

 ……あの楽しい日々も、今では遠い昔のようだ。


「私、歌は苦手なのよ」


 私が礼拝で星歌せいかを歌わないのは、お母様譲りの音痴だからだ。

 音を聴くのは大丈夫なのだけれど、どうしてかそれを自分で出すことが出来ない。

 ユイはじっとこちらを見たあと、目を伏せた。お店に迎えに来たあのときのように。


「子どものころに、歌ったきりです」


 そして目を伏せたまま、そう言った。

 そう言うってことは、本当に歌は歌うらしい。

 流石のマクレアもこんな嘘は言わないとは思っていたけれど、本人に確認するまではこのユイが歌うとはどうしても信じがたかった。


「歌えるところだけでもいいから」


 私は最初から曲を弾き始める。

 正直、ユイが歌うとは微塵も思っていなかった。

 それどころか彼女が歌うことさえまだ信じ切れていない自分がいる。

 それなのにああ言ったのはただの気まぐれと、少しの好奇心だ。

 だけど私の予想に反して、前奏が終わると声が入ってきた。

 その聞こえてきた声に驚いて、手を止めないままユイを見る。

 ユイは座ったまま目を伏せて歌っていた。

 その顔にはいつも通り感情は浮かんでいない。

 その目も無機質にじっと下を見ている。


 でも、歌はそうではなかった。


 その透明感のある声には、明らかに感情というものが乗っていた。


 いつも無感情の言葉しか出てこないその口からは、曲調と同じく切なくも荘厳で美しい歌が紡がれている。


 しかもその歌は聞いたことのない言葉の羅列で歌われていた。

 おそらく本来の星歌せいかで使われる、古代言語だろう。

 本来の星歌せいかは一般信者には縁がないものだ。普通は歌えるものではない。

 それを知っているということは、少し歌ったことがあるという程度ではないということだ。

 本来の歌詞を歌えるぐらいに、歌詞を暗記するぐらいに彼女は何度もその歌を歌ったことがあるのだ。

 いったいいつ、どこで――。

 そのまま歌うユイを見ていると、ふと彼女が口を止めた。

 それから視線をあげてこちらを見てくる。


「殿下?」

「な、なによ」


 彼女をずっと見ていたことが気恥ずかしくて、つい喧嘩腰になってしまう。


「どうかされましたか」


 なにが、と思って気づく。ピアノの音がしていないことに。

 どうやらいつの間にかピアノを弾く手を止めていたらしい。

 歌に聴き入るばかりに。


「――」


 そう何気なく思って、耳が熱くなった。

 私は鍵盤の蓋を閉めて、立ち上がって歩き出す。


「そろそろ戻るわ」


 目で追ってくるユイの顔を見ずにそう言って、さっさと礼拝堂を出る。するとすぐに後ろから足音が付いてきた。

 振り返り見ると、そこにはいつも通りの無感情な顔があった。

 無機質な目で、私をじっと見ている。

 その顔と何秒か見合ったあと私は歩き出した。

 魔灯まとうで照らされた薄暗い通路を進む。

 後ろから聞こえる足音を耳にしながら思う。


 普段、まるで感情のない人形のような彼女。

 でも、本当に感情が無いものに、あのような歌が歌えるものだろうか……?

 あんなにもきよく、あんなにも……美しい、情緒にあふれた歌が――。


 その疑問は廻りに廻って、いつまでも私の中から消えることはなかった。


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