前編
プロローグ
大陸暦1955年――葬儀
その日は朝から冷たい雨が降っていた。
自室で一人、朝食を食べさせられた私は、侍女に黒い服と雨具を着せられたあと、迎えに来た兄と共に馬車に乗って出かけた。
生まれつき体が弱かったこともあり、家から外に出たのはその日が初めてのことだった。
だから私は始めての馬車と、始めて見る景色に夢中になった。
兄にあれはなんだ、これはなんだ、と質問ばかりしていた。
そんな私を兄は優しく相手をしてくれた。
一つ一つ丁寧に私の質問に答えてくれた。
その顔に、いつもよりどこかぎこちない微笑みを浮かべて。
そうしているうちに馬車はある建物の前で止まった。
空に伸びるようにそびえ立つ巨大な建造物、この国の
兄の手を借りて馬車を降りると、外には多くの人が集まっていた。
誰もが馬車を――中央教会の入口を取り囲むように配備された衛兵たちの向こうから、こちらを見ている。
その人たちと私たちとの間には距離があったけれど、視力が良い私には、こちらを見るその顔一つ一つが鮮明に確認できた。
そのほとんどが悲しそうな顔をしていた。中には泣いている人もいる。
だけど何人かは、どういう気持ちの表われかわからない表情を浮かべている人もいた。
その人たちの目がなんだか怖く感じた私は、兄の手にしがみつく。
兄は「大丈夫だよ」と私を安心させるように言うと、手を引いた。
雨が降る中、兄に手を引かれて中央教会の大きな正面扉から中へと入る。
中の礼拝堂は、静かだった。
先程まで聞こえていた人のざわめきも、雨の音も、一切、聞こえてこない。
外界の音が入らないようにと、礼拝堂全体に結界が張られているのだと知ったのは大分あとになってのことだ。
私は兄に雨具を脱がされながら、礼拝堂の広さと美しさに圧倒されていた。
家にも礼拝堂はあったけれど、中央教会のはその比ではないぐらいに壮大で荘厳だった。
きょろきょろと辺りを見回す私の手を兄は取ると「こっちだよ」と言った。
中央に敷かれた奥まで伸びる黒い絨毯を、落ち着きなく辺りを見ながら歩く。
周囲には静かに、それでいて忙しなく動く修道士や修道女が何十人もいたけれど、この礼拝堂の広さに比べればわずかな人数のように思えた。
長い絨毯をゆっくり歩き、やがて奥の祭壇が近づいてくる。
祭壇の下には髭を生やした老人と父が待っていた。
老人は中央教会の教会長だ。彼は家にも来たことがあるので知っている。
二人はなにやら小さく言葉を交すと、父が歩いてくる私たちに近づいてきた。
私は兄から離れ、父に駆けよった。父の大きな体が私を抱き留める。
「まだ、理解できてないみたいで」
頭の上から聞こえたその声は、兄のものだった。
なんの話をしているのだろうと、父から離れて二人を見上げる。
父の顔はいつも通りに見えて、どことなく元気がなかった。先程からの兄と同じように、ぎこちない微笑みをこちらに向けている。
普段と様子が違う二人を不思議に思っていると、左右から手が伸びてきた。私はその手を取り、二人に手を引かれる形で、細長い箱が置かれている祭壇の上へと一段一段あがる。
その途中、ふわりと花のいい香りがした。
覚えがある香りに、どうしてか胸の鼓動が早くなる。
好きな香りなのに、ここでその香りがすることに不安を覚える。
その花の香りは、祭壇上の細長い箱から漂っているようだった。
そこに行きたくないと思いながらも、左右から手を引かれているので足を止めることはできない。
そうして自分の意思に反して祭壇の上まで辿り付くと、自然と箱の中が見えた。
中には――母がいた。
好きな花に囲まれた母は、胸の下で手を組んで目を瞑っている。
穏やかな顔でそこに、横たわっている。
そこで私はやっと、どうして自分がここに来たのかを理解させられた。
母を、見送りにきたのだ。
母は昨夜、眠るように息を引き取った。病死だった。
そのことを朝、向かえにきた兄から教えられたけれど、私はそれを軽く受け流していた。
大好きな母が死んだことが信じられなくて、信じたくなくて、それを見ない振りをした。
母がもういないことを、事実として受け止めようとはしていなかった。
死というものがどういうものかは飼い猫が死んだとき、教えられていたから。
死は今生の別れであり、二度と会えなくなることだということを知っていたから。
私は父と兄を交互に見る。二人は先ほどと同じく、微笑み返してくれる。
その微笑みがいつもよりぎごちなかったのは、二人が悲しい気持ちを精一杯に隠しているからだった。
修道女から花を受け取った父が、一輪ずつ私と兄に渡す。
父と兄は私に目配せをして、
母の死を理解しても、私にはまだ実感が湧いていなかった。
だから泣くこともなくただ、ぼんやりと母を眺めてしまう。
眠るようにそこにいる母を、ひたすら見続ける。
するとどれくらいかして、父が私の名を呼んだ。促されて後ろに振り返ると、教会の関係者しかいなかった礼拝堂に、人が増えている。
親戚と、母が生前に親しくしていた人たちだ。
その人たちは祭壇を降りて横に退いた私たちに言葉をかけると、流れるように次々と
それをまたぼんやり眺めていると、二人の男女が私たちの前に立ち止まった。
知らない二人は一礼をして、父と男性が言葉を交し始める。その様子を何気なく見上げていたら、連れの女性がこちらを見ていることに気がついた。
その淡い緑の瞳は感情に揺れていて、子供から見ても綺麗なその顔は先程まで見てきたどの弔問客よりも悲しそうだった。
どうしてか女性はなにも言わず、ずっと私を見ていたけれど、やがて男性と父の話が終わると、父を見てから膝を曲げて私の頭を撫でてきた。
泣きそうな顔で、それでもその人は優しく微笑んでいた。
それから多くある礼拝席を全て埋めて、お葬式――
その内容はよく、覚えていない。
覚えているのは式の最後に朝から降り続けていた雨が上がったことと、中央教会の中庭で母の
そのあとはまた馬車で家に戻り、食事会が開かれた。
死者のことを想い、語らい悼む場だ。
食事会が開かれた大広間には多くの人が集まっていた。
その人たちは次々と、遺族である私たちに声をかけてくる。
それに応対するのは父と兄だったけれど、まれに直接、私にも話しかけてくる人がいた。
その度に私は戸惑った。
その日まで、このような大勢の人がいる公の場に出されることなどなかったからだ。
それに加えて人見知り気味だったのもあり、人の多さと慣れない雰囲気に私の気持ちはすっかり畏縮してしまい、まともな返答などできなかった。
そんな私を兄はずっと気遣ってくれて、移動するときも必ず私を連れ歩いた。
私も最初は大人しく兄のそばに付き従っていたけれど、知らない人から繰り出される挨拶や場の雰囲気に次第に耐えられなくなり、兄が挨拶に気を取られている隙にその場を抜け出した。
行きたい場所は決まっていた。空中庭園だ。
母と多くの時間を過ごした、花が咲き乱れる場所。
もしかしたらそこに行けば母がいるのではないか、会えるのではないかと儚くも幼い私は思っていた。
食事会が開かれていた大広間は私が知らない場所だった。
家は広く、これまで私の生活できる範囲は定められていたからだ。
だからどこをどう行けばいつもの生活区域に行けるのか全くわからなかったけれど、それでも母に会いたい一心で足を進めた。
すれ違う人たちから怪訝な目を向けられながらも突き進んだ。
でも思いだけではどうにもならず、一向に知らない場所から抜け出せなかった。
初めての迷子に不安になりかけていたそのとき、先の曲がり角から男性の話し声が聞こえてきた。
「
その内容からするに、食事会の参加者のようだった。
「えぇ。なんたって
マドリック――それはこれまでにも何度か耳にしたことがある言葉だった。
いつぞやか私はその言葉の意味が知りたくて、家族や回りの人間に聞いたことがあった。けれどいつも上手いことはぐらかされて、誰も教えてくれなかった。だから私は一人のときこっそりと書庫で調べてみることにした。
文字の読み書きは早くからできるようになっていたので余程、難しいことが書かれていなければ本を読むことは可能だった。
でも目的のことが書かれた本を捜すのはかなり難航した。
それは私が本を読むのが好きではなかったのもあるけれど、題名でそれとわかる本が書庫になかったのも原因だ。おそらく確実にそうとわかる本は、私の生活圏内にある書棚や書庫からは除かれていたのだろう。
それでも好奇心からくる執念か、それともマドリックという言葉に無意識になにかを感じ取っていたのか、それが主題ではない本の中からなんとかその記述を見つけだした。
マドリック。
生きとし生けるものならば誰もが生まれ持っている、神から授かりし粒子を一切、体内に持たない人間。
素養以前に粒子に作用する魔法や魔道具を使えないどころか、治癒や補助魔法自体も作用しない。
そして、子孫すらも残せない特異な体質。
なにも生み出すことができず、なにも残すことができない存在。
そのことからマドリックは別名、無能者とも呼ばれている――。
そのときは、そんな人がいるんだぐらいしか思わなかった。
そしてあまりよくない言葉だからみんな教えてくれなかったのだと一人、納得していた。
でも、彼らの言葉は明らかに私を指していた。
だって兄は、母の子供ではなかったから。
母の子供は、私一人だけだったから。
「それを嘆いて、病床に伏せたという噂もあります」
曲がり角の先の声は続けて、そう言った。
「あんな出来損ないを産み落としてしまったら、そうもなるでしょう。おかわいそうに」
私はそのとき、始めて知ったのだ。
自分が
自分の存在が人から蔑まれ、疎まれるものであることを。
「しかし、亡き王太子殿下が優秀な子を残しておいてくださってよかったですね」
「あぁ。お体もご健康でご聡明なアーヴィン王太子殿下ならば、この国も安泰であろう」
そのように言い残しながら、声は遠ざかっていった。
私は彼らが言っていたことが衝撃すぎて、その場から動けなかった。
そこにしばらく立ち尽くしていた。
そうしているとやがて、兄が慌てて私を探しに来た。
兄の姿が見えた途端、私はこれまで溜まっていた感情が溢れるように泣き出した。
大好きな母が死んだ。
その母は、自分が生まれたせいで死んだ。
それが悲しくて、辛くて。
私は兄に抱きついたまま、いつまでも、いつまでも泣いていた――……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます