第7話 竜頭蛇尾(りゅうとうだび)

企業買収とは、主として株式の取得によって行われる。

通常の株式には議決権という、企業の意思決定の権利が付帯する。そのため発行済み株式総数の50%超を取得すれば、株主総会での単独決議が可能となる。つまり誰を取締役にするか、代表者にするかを決定できるのである。


プルプルプルプル


応接室の内線が鳴る。うん、お通ししてと澤井は答えた。


コンコンコン


ノックの音が聞こえ、どうぞと澤井は声をかけた。

失礼しますと入ってきたのは、いかにも優秀だぞと言わんばかりの高身長、パリッとしたスーツに高そうなメガネで身を固めた青年であった。麟はエリートメガネと名付けた。エリートメガネはスッと麟に名刺を差し出すと


「帝国銀行の成田と申します。どうぞよろしくお願いします。」


麟が名刺を受け取ると澤井が麟を紹介してくれた。こちらが弊社の株主、先代の海藤志郎社長のご息女、海藤 麟さんですと。成田に応接室のソファに腰掛けるよう促すと、麟にも同様に促した。


成田さん、何が良いかな?と澤井がドリンクサーバーに歩み寄る。


成田「お気遣いなく。澤井専務もどうぞお座りください。」

澤井「いやいや、お茶くらい出すよ。成田さんも気を遣わなくて大丈夫だから。」


澤井はドリンクサーバーを指し、で、どうするの?と目で成田に促した。


成田「では、温かいお茶をお願いいたします。」

澤井「お茶ね。」


澤井はドリンクサーバーのボタンを押し、お茶を入れながら


澤井「成田さん、海藤さんには先に買収の件を話しておいたよ。だから回りくどい話は抜きだ。」


成田は一瞬、目を大きくしたが平静を装う。


成田「そうでしたか。それなら話は早いですね。海藤さんは買収をどうお考えですか?」

麟「私は父の遺志を継ぎたいと考えています。なので会社を売るなんて考えていません。」

成田「そうですよね。告別式の挨拶でもそうおっしゃっておられましたから、きっとそうだと思っていました。」

麟「え?でしたら買収は…」

成田「当行としては海藤印刷さんの利益が一番ですので、海藤さんが社長に成られて業績を上げていただけるのであれば、買収に応じていただかなくてもまったく問題ございませんよ。」


成田はクイッとメガネを上げながら麟を見る。


麟「業績って…」

成田「言葉通りです。当行は御社に追加の融資をお申し込みいただいております。先月の事故で詳細の詰めが遅れておりますが、その件も踏まえてのことです。」

麟「融資?澤井さん、今のお話は?」

澤井「成田さんがおっしゃっておられる通りです。海藤印刷は帝国銀行さんに追加の融資をお願いしています。そして帝国銀行さんからは追加融資の条件として今年度の事業計画並びに業績改善計画の提出を求められ、そちらは提出しております。」

成田「そしてその計画では融資は難しい…というのが当行の判断です。」

麟「そんな話…」

成田「聞いてないですか?そうですね、海藤さんはご存知ないかもしれませんね。別に業績改善の話は今に始まったことではないのですけどね。」


成田はチラッと澤井を見る。


澤井「……。海藤さん、決算資料は見ておられますよね?いろいろ頑張ってはいますが、減収に歯止めを効かせられていないのが今の現状です。」

成田「当行としても歯痒い思いなのです。海藤印刷さんには頑張って欲しい!でもなかなか上手くいかない。ペーパーレスやDX化により、紙媒体は減少。印刷業界全体が落ち込んでいます。それでも海藤印刷さんとは長いお付き合いもございますから、なんとしても業績回復のお手伝いをしたい…買収の話はそういうことなのですよ。」

澤井「成田さん、ウチを買いたいと言っているのはどこなの?」

成田「申し訳ございませんが、業界大手としか申し上げられません。ただ1つ言えることがあるとすれば、専務も海藤さんもきっとご存知の企業ですよ。」

澤井「そんな大手がなぜウチなんかを…」

成田「この地域はいろいろありまして、支店の出店が難しい。そして海藤印刷さんには地方行政との長い繋がりがある。さらにこの規模の印刷工場を作ろうと思えば買収のほうが確実。買う側にメリットが無ければそもそもこのお話はありません。」

澤井「条件は?」

成田「詳しいお話は後日になりますが、株式取得と営業権評価を買収価格と考えています。ざっくり20億を見積もっています。」

澤井「体制はどうなりますか?」

成田「それは私にはわかりかねます。むしろ海藤印刷さん側から条件を提示いただけると先方にお伝えできますが。あ!そうそう、当行からの借入については買収時に差し引かせてもらいますので、連帯保証債務は無くなりますよ。海藤さんにとって悪い話ではないと思いますがね。」


2億の連帯保証債務が無くなり、10億以上の大金が手元に入ってくる。それだけあれば自由に暮らせるし、何でもやりたいことができる。今の印刷業界と経営状況を考えてみれば、麟にとっては魅力的とも言える買収条件であった。経営にあたって学んではいるが、実績も自信もあるわけではない。このまま買収の話を進めるのも悪くはないかも…麟はそう考え始めていた。


澤井「人員整理は行わない。これは弊社からのお願い…とお考えいただきたい。」

成田「あくまで株主は海藤さんですから、海藤さんからの条件提示ということでしょうか?」

澤井「海藤さん、どうでしょう?」

麟「えっと…先ほどは私が経営を立て直すとお話ししましたが、私の知らないことがまだあるようですので、澤井専務とも相談したいと思います。少しお時間をいただけると助かります。」

成田「先方の気が変わらぬうちに決めておかれたほうが良いと思いますが…まぁ、今日の今日というわけにもいかないでしょうから、1週間後にまたお伺いするということでよろしいでしょうか?」

麟「わかりました。1週間後にお返事します。」

成田「これは私の個人的な意見なので聞き流していただけると幸いですが、今の時代、親の事業を子が引き継がねばならない道理があるわけではございません。まして大学を卒業したばかりの社会を知らない素人が、いきなり混迷極まる業界の経営に手を出すことはバンカーとしてオススメできません。海藤さんには海藤さんに合った事業を始められるのがよろしいかと存じます。買収資金で何でもできますから。」

麟「ご忠告ありがとうございます。澤井専務ともよく話し合います。」

成田「それが良いと思います。それでは、また1週間後の同じ時間に参ります。」


成田はスッと立ち上がり、キビキビとした所作で麟と澤井に挨拶を済ませた。麟と澤井も立ち上がり、事務所の玄関まで見送る。


澤井「これが会社の現状だよ…」


成田を見送りながら澤井はつぶやいた。


無言で応接室に戻ると、麟が口を開いた。


麟「澤井さん、澤井さんは買収を受けた方が良いと思いますか?」

澤井「海藤さん、それを決めるのは君だよ。海藤印刷の株主はあなただ。」

麟「でも、買収なんて経験したことないですから。」

澤井「私も経験は無いさ。だからこの後に白戸先生にお時間をもらっているんだよ。」

麟「!?」

澤井「白戸先生は買収の専門家ではないけれど、企業価値の評価などは絶対に先生のアドバイスをもらったほうが良い。売るにしても高く売りつけてやらないと。」

麟「社長になってやることなんて考えていましたが、もっと先に知らないといけないことがあったのですね…」

澤井「ここでうだうだ考えていても仕方ない。まずは白戸先生に相談だ。」


澤井は麟を促す。


麟は澤井の真意を測りかねていた。

温かいのかと思えば冷たい…冷たいと思えば温かい。

自分が社長になるのが気に入らないのかと思えば、次にすべきことは明確に伝えてくるし、必要な手続きは先に押さえている。買収の話もどこまで知っているのだろう。澤井は会社を売りたいのだろうか?売りたいのだとしたら私に売るように言うはずだ。でも決めるのは君だと言う。いったい何を考えているのだろう…


白戸の所へ向かう車中、麟はずっと考えていた。


澤井「海藤印刷を取り巻く状況は海藤さんが思っているよりも厳しい。先代も私もあれこれと考えてはみたが、上手く軌道に乗せられていない。恥ずかしい話だけどね。」


沈黙の中、澤井が口を開く。


麟「あの…澤井さん…澤井専務は海藤印刷が好きですか?」

澤井「ん?いきなり何を…」

麟「好き…ですか?」

澤井「そうだね、好きか嫌いかで言えば間違いなく好きだね。私は海藤印刷しか知らないから。」

麟「じゃあ海藤印刷がなくなっちゃったら寂しいですね。」

澤井「寂しい…か。寂しいのはそうだけれど、私は何より従業員がしっかり生きていける環境を整えてあげたいかな。大手が経営するなら今よりも給料も良くなるかもしれないからね。」

麟「人員整理ってクビにするってことですよね?」

澤井「買収ではよくある話だよ。まぁ、聞いた限りの知識でしかないけれど、不採算部門の閉鎖などで解雇するってことは当たり前の話かな。だから買収に応じるにしても従業員は守ってやりたい。」

麟「約束は守られるものなのですか?」

澤井「わからない。契約書にいろいろ書いたとしても、守る守らないは買い手側次第だからね。仮に買い手が約束を守らなかったとしても、こちらに打つ手はないことがほとんどだよ。」

麟「なんでですか?約束を破ったら無効にすれば良いじゃないですか!」

澤井「私がもし買い手側の人間だったら、契約後1年間は大人しくしておくよ。1年たって、業務の流れなどが固まって、従業員も慣れてきたら、そこで人員整理を行うかな。今更買収を無かったことには出来ないでしょ?現場は大混乱しますよ?って言えば買い手側の言うことを聞かざるを得ないからね。違約金を求める方法はあるけれど、それでも限界はあるし、解雇された従業員の救済にはならないこともある。結局は買い手側次第なんだよ。」

麟「そんな…。ルールはルールじゃないですか!」

澤井「ルールは強制力があってこそのルールなんだ。海藤さんや私に買い手側にルールを守らせる強制力は無いんだよ。海藤さんは法学部でしょ?法を絶対なものにできる根拠は何だい?」

麟「権力…です。」

澤井「その通り。私たちに権力があるかい?」

麟「ありません。」

澤井「ビジネスの契約なんてそんなものだよ。無論、約束を守らなかったらそれなりのペナルティはあるが、ペナルティ以上の利益があれば約束は絶対ではない。これは覚えておくと良いよ。さ、そろそろ着くよ。」


法やルール、約束といったものは強制力があって初めて意味を為す。君主論や韓非子にも「法は統治の手段」と記載がある。法は根本的には強者が弱者の行動を規制するために用いるのである。そしてそれは絶対的な力が背景にあるからこそ守られる。いかに自分がキレイな世界だけで生きてきたのかを麟は痛感した。法学部で何を学んできたのか…麟は自分が恥ずかしかった。


白戸先生に教えを請おう。


麟は頭を上げた。








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