第17話 番外:おともだち
グラニアにルゥ以外の友人ができた。生まれて初めてのことだった。
するりと窓から入り込み、音もなくベッドに近づく。寝間着でも品ある小柄な老婆が、浅い眠りから覚めて、穏やかに微笑む。
「またきたのねぇ、リラ」
「ええ、おばあちゃん」
彼女はグラニアを、自分の孫と勘違いしている。
あまりにも美しい薔薇園から悪の気配が漂うものだから、グラニアは近寄らずにはいられなかった。しかし『悪』があるのは、正確には薔薇園でなく、その奥にある白い豪邸からであった。
残念に思いながら、開いた窓からその豪邸に忍び込んだ。純白のレースのカーテンを避け、その部屋に横たわる『死』の気配に近寄った。しかしそこにあるのは、ただ眠りに就く老婆だけであった。濃厚な『病』の渦のなか、まだしっかりと生きていた。
的外ればかりで、まったくつまらない気持ちになったグラニアは、花瓶に飾られた薔薇の切花に目をやった。色鮮やかで艷やかな花弁だったのだろうが、時の流れには勝てずすっかり萎れかけていた。
的外れで、中途半端。つまらないことばかりである。
グラニアは気まぐれで、色褪せて散った幾枚かの花弁を掃除し、花瓶の水を窓から適当に捨て、置いてあった水差しから新しい水を注いだ。これで、この薔薇だけでも多少はマシになるのではないか。
一人満足するグラニアの服の裾を、弱々しい力が引いた。ぎょっとしてその手を払ったグラニアに、縋るような声が届いた。
「――あなた、もしかして、リラ?」
老婆の視線はふらふらとうろついて、恐らく目が見えていないのだろうと思った。
ただ他に寄る辺のない娘のような潤んだ目をして、必死に息を詰め、グラニアの答えを待っている。
グラニアは今になっても、なぜ、自分が頷いてしまったのか分からない。――その場で膝をつき、優しくその老婆の手を握りしめ、見えもしない相手に優しい笑顔を浮かべ、労る声を作った。
「そうよ」
まあ、と老婆の顔が花咲くように綻ぶ。
グラニアはそれから足繁く、孤独な老婆の元に通うようになる。
広い屋敷には、老婆の子孫達も暮らしている。彼らは、老婆には近寄りもしないくせに、彼女の遺産の話ししかしない。『悪』は彼らから漂っていた。
老婆は裕福であるが孤独で、亡くなった旦那と造り上げた、あの美しい薔薇園をひたすらに愛していた。年老い、判断力は弱まり、物忘れも激しくなっていたが、あの薔薇園だけは使用人の手で完璧に管理させていた。
そして、その見事な薔薇園を回るのが、彼女の唯一と言っていい趣味だった。時たま天気がよいと、車椅子の老婆とともに、グラニアはゆっくりと薔薇園を回った。
「リラは昔から薔薇が好きだったわねぇ」
「ええ。本当に綺麗」
艷やかに膨らむ花弁の一枚一枚が、陽の光に活き活きと照らされ、鮮やかで。
さすがのグラニアも感嘆の溜息をつかずにはいられない、圧倒されるほどの命の輝きを誇っていた。
「リラ、お腹は空いていないかしら? クッキーでも持って来させましょうか?」
「大丈夫よ。それより、おばあちゃんは寒くない?」
「私なら平気よ。今日はとてもいいお天気ですもの。あったかくって、いいわねぇ」
「そうね。とても、とてもいいお天気……」
雲一つない青空、穏やかなそよ風、優しい太陽の光。足を止め、眩げに目を細めるグラニアに、老婆はにこにこと話しかけ続ける。
「素敵ね。リラが産まれた日も、とてもいい日だったわ……。あら、そうそう。この香りの薔薇! これが咲いている所にはね、お前が産まれた年に見つかった新種が咲いていたんですよ。病で枯れ果てて今はなくなってしまったけれど……あれは、とても素敵だったわねぇ」
「ええ、そうね……」
この話を聞いたのは何度目か、最初はボロを出さないよう緊張していたグラニアも、今ではすっかり慣れた相槌を打つことができる。
「ねえ、リラ。この薔薇園がいつまでも、いつまでも続くといいわねぇ……」
「ええ、そうね、おばあちゃん」
グラニアに通う先が出来たと知ったルゥは、なによりもまず不安を覚えた。
グラニアにそのことについて尋ねると、彼女はにこにこと微笑んだ。
「目の見えないおばあちゃんなの。私のことを恐れないのよ。一緒にクッキーを食べたり、庭を散歩したりするの」
「そうなんだ。よかった。仲が良いんだね」
庭を散歩する老女とグラニア。そんなほのぼのとした光景を思い描き、ルゥはほっと胸を撫で下ろした。
「その人、私のことを自分の孫だと勘違いしているのよ」
ルゥの笑みが引きつった。
――それは、友達と言うのか。
思ったが、グラニアが珍しく、本当に嬉しそうに笑うのでルゥは口を噤んだ。代わりに、「何かあったら、すぐ相談してほしい」ということを、しつこいくらいに繰り返し伝えた。
もちろん、と頷くグラニアは気恥ずかしげであった。
グラニアが去り、一人になったあと、ルゥは静寂のなか様々なことを考え、この不安がただの杞憂であることを祈った。
「リラ、リラ」
死の床で孫を呼ぶ老婆の折れそうな手を、グラニアは強く握った。「おばあちゃん」と呼ぶと、悲しいほど弱々しい力で握り返される。彼女の手はかたく、冷たく、そしてゆるやかにその身を蝕む、病と死の気配に覆われている。
おねがい、と死の喘ぎの裏、微かな吐息に切ない声が響く。おねがい、リラ。
「全ての遺産を、お前にあげるわ。リラ、お前に、全てをあげる」
グラニアはぞっとした。死にゆく彼女にではなく、その言葉の重さ――ぬるま湯の如き夢から不意に表れた、現実の冷たさ――に刺され、さっと青ざめた。老婆の手は柔らかな棘のように、グラニアの手に絡みつき、振り払うこともできない。リラ、リラ、と縋るような声が、足元を見失ったグラニアを揺さぶる。
「リラ。あの美しい薔薇園をまもって――」
「おばあちゃん……」
「ねえ、お願い、リラ。頷いてちょうだい。どうか、私の最後の、頼みと思って。お願い……」
どっと冷や汗を掻くグラニアに、今更、真実を告げることなんて出来るはずもなく。結局グラニアは、蚊の無くよりずっと小さな声で、「ええ、おばあちゃん」と頷くしかできなかった。
老婆は安心したように笑い、その翌日、心無い子孫に見守られ亡くなった。
グラニアはまさか、「リラが遺産を継いだ」なんて、誰にも言えるはずがなかった。老婆の子孫たちに事情を話すこともできず、ただ嘘の約束を抱えていることしかできなかった。
それでも老婆との思い出に、全てを知らんぷりすることもできず。結局、遺産の行く末がどうなるのかを、影から覗き見るしかできなかった。
「お義母さんは最期、リラに遺産を残す……とか言っていたけれど」
「死に際の妄言さ。母さんには言わなかったが、リラはとっくに死んでるんだよ。病気でね」
あら、とか、へえ、とか、どうでも良さげな相槌の後、また遺産の行く末について話し合う声だけが響く。
つまり、グラニアが聞いた、あの優しい老婆の遺言は――死に際の祈りは、全くなんの意味も持たなかったのだ。
老婆の思い出の家財――彼女の子孫曰く、『時代遅れの田舎の豪邸とその調度品』――は片っ端から売られ、薔薇園は明日にでも潰される。
グラニアには、なんとかする手段も思い付かない。それでも、なんとかしないと、なんとかしないとと思って、咄嗟に彼女が思ったのが、自分の力で、子孫達を無理やり追い払うことだった。
グラニアにはそれができる。暴力で奴らを叩きのめし、この容赦ない現実に勝利することができる。この力は、グラニアの想いに――あの老婆の願いに、応えてくれる。
屋敷を爛々とした目で見据えるグラニアの肩を、強く掴んだ恐れ知らずがいた。
「グラニア。いけない」
「ルゥ」
「君は何をしようとしているんだ」
いつもと違う、叱りつけるようなルゥの口調と目付きに、グラニアはしどろもどろになって言い訳をした。かくかくしかじか、事情を説明するが、ルゥの目は未だグラニアを咎めるようだ。グラニアは声を荒げた。
「だ、だってしょうがないじゃない! わたし、私にできることなんて、これくらいしか」
「違う」
「違わない! 他に手段なんてなかった!」
「違う。君はただ勇気がなくて、すべきことが出来なかっただけだ。そして、自分にとって楽な手段に逃げただけだ。……それが、暴力だよ」
「ちがう、私の望みじゃないわ! あの人のお願いよ! 私はそれを叶えたの! 叶えてあげたの!」
「今、僕は、そんな話しはしていない」
「貴方は正しいことしか言わない!! あなたは正しくて、それが報われるから! 正しいことばかりが言えるだけだ!!」
ルゥの瞳が、ほんの一瞬悲しげに揺れた。刹那といえどグラニアがそれに気付かぬはずがなく、彼女は気まずげに俯いて彼から目を逸した。
「グラニア」
「……」
「グラニア。望みを達成するために、暴力を振るってはいけない。理由があれば、暴力を振るっていいわけではない。決して、暴力を身近においてはいけない。……いつか、君はそれを、目的にしてしまうかもしれない」
「……る、ルゥには分からないわ! 恵まれてて好かれてて、自分で何でもできるルゥには分からない! わたしが、私がどれだけ、」
「そのことと、君に勇気がなかったことは、全く別の話だろう?」
ルゥは最初から最後までひどく冷静だった。つらつらと言葉を連ね、理論でグラニアを説き伏せる。やがて彼女は泣きそうな顔で俯いてしまった。
そこまでしてやっと彼女から暴力の気配が消えたことに、ルゥは罪悪感を覚えつつも、心底ほっとしたのだった。
「じ、じゃあ私は、どうすればよかったの……」
「背負い込めないことには、手を出さないべきだった。どうしようもなくなれば、僕や、他の誰かに相談してもよかったんだ。……いや、相談できる相手と思ってもらえるくらい、僕がしっかりしていればよかったんだけど。そうなれなかったのは、僕の未熟さ、僕の落ち度だ。すまない」
「……」
「――その人の、墓に行こう」
ルゥに促されてグラニアは小さく頷いた。
先を行くルゥの服の裾を、遠慮がちにグラニアが引いた。
「ねえ、ねえルゥ、あの家は、庭は、本当にどうにもならないの? 本当に、もう、どうしようもないの?」
「ならないよ、グラニア。……現実になんでも叶えられるほど、人間は強くないんだよ」
「……」
「一つ提案だけどさ。いつか、あの土地を買おう。一緒にお金を貯めて、買えばいい。そうしたら何の問題もなく、あの場所は君のものだ。どこをどう手入れしようとも、君の自由だよ」
二人はしばらく黙ったまま歩いた。青空の下で死を悼み黙する、たった二人だけの葬列だった。
墓に着いたとき、ルゥはあ、と声を上げた。それからこんなことも確認してなかったなんて、と恥じるように呟いた。
「ね、その人の名前は?」
「知らないわ」
グラニアが答えると、ルゥは押し黙ってしまった。
二人は結局、墓石と供えられた花の真新しさでその人の墓を判断するしかなかった。
「ねえ、ねえルゥ。私はあの人の名前も知らないけれど、私達は本当に友達だったのよ。本当よ。本当に友達だったのよ」
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