秋雨が降るとき〔1〕

下を向き、体を丸め、この世の全ての疲労を背負ったような人達が、そこからとぼとぼと歩いて出てくる。その様子を見ながら、あんなに辛い顔して何が楽しいんだろうと本気で思っていた、高校二年生、10月の秋。

そのときはまさか、自分がその一員になる日が来るなんて、夢にも思っていなかった。




体育祭が終わって、何とも言えない気分で釈然としないまま一人で過ごした週末。

それを超えて学校に行った月曜日、教室の雰囲気はがらりと変わっていた。


もともと真面目だった人達は更に参考書をめくる速度が速くなり、つい三日前まで応援団の仲間として一緒に馬鹿騒ぎしていた奴らも、初めからだったような自然さで、授業時間以外もテキストを開いていた。

あの日のSNSで、あれだけはしゃいでいた葉月も長田も、全くその余韻を感じさせない。長田はともかく、あまり頭がよくない葉月まで勉強しているもんだから、俺はかなりびっくりしてしまった。

皆、決めていたんだ。ここまでは、騒ぐ、遊ぶ、楽しむ。でも、そのあとはちゃんと、受験に向けてけじめをつけるって。これまでコツコツと見えないところでやってきた努力を、ついに隠してもいられない時期にまで差し掛かったわけだ。


もちろん、俺は何の心構えもしていなかった。正直、絶望的に頭が悪いということはなくて、これまでの模試の結果からすると、地元の中堅国公立には余裕で受かるという算段だったから。しかも、応援団が結成される前までずっとつるんでいた野球部の仲間達は、指定校を選ぶ奴が多く、体育祭への取り組みが始まる前に、あらかた、四月からの見通しが立っている奴が多かった。身構える必要なんて、全くないと思っていた。

日々のほとんどを騒ぎながら一緒に過ごしていた仲間は真剣な顔で参考書に向き合い、野球部の奴らは、俺達一般組に気を遣ってか妙に静まり返っている、そんな不自然を板に貼り付けたような違和感だけが、そこにあった。




そんなことをぽつぽつと考えつつ過ごした一週間が終わり、週末の金曜日、

家に帰ると、不気味なことに二人そろった両親が静かに座っていた。

貴和たかかず、そこ、座って。」

母親の冷たい声がリビングに響く。俺は、この人のこういうところが苦手だった。

『自分以上に正しいものはない』というように、有無を言わせない口調。いつもそうだというわけではないけれど、こういうときは大抵、俺にとってマイナスなことを伝えられることが多かった。

それに、父親も苦手だった。意見をはっきり言ったり切り捨てたりする母親を怖がっているのか、何を言われても肯定の意を示す。最近はそれに疲れたのか、家に帰るなり自室に籠もることが多かった。今日は母親に駆り出されたのか、居心地の悪そうな表情で、絶妙な角度で俺から目を逸らして座っている。

俺は不機嫌を隠さないまま重い通学リュックをどすんと置き、「何」と言いながらどっかりと椅子に座った。


「あんた、受験はどうするつもりなの」

「どうするつもりって…」

つい冷たい声で応えてしまう。だって、『どうするつもり』だとか言われたって、大した選択肢も与えられていないから。


俺は幼少期から、その言葉がどういう意味なのか分からない内から、ずっと『お前は国公立大学に行け』と言われて育ってきた。

中学校までは、それに疑問を持つことはあまりなかったけれど、

高校に行ってからは、進路希望調査の〈私立大学〉の欄に何も書かないことに対して、担任に呼び出されたり問い詰められたりするようになって、居心地が悪くなっていた。

三年生になって、指定校推薦の詳しい仕組みを知って、その選択を取る仲間も沢山いた。そいつらに『貴和も指定校にしない?』と聞かれたときに、断る理由が、『親が駄目って言うから』としか出てこなかったとき、はたと考えた。

俺、選択肢、全然ないな。


一度、指定校推薦の打診をしてみて分かったことは、

親、特に母親は、国公立志向がかなり強く、それは単純に、『私大の学費が払えない』という理由ではないらしかった。

ブランディングとか、学閥とか。途中から話の内容を聞いていなかったけれど、粗方そんなことを言っていた気がする。記憶が薄い理由は、俺にとっては心底どうでもよかったから。

奨学金を借りたいと言ってみても駄目。親のハンコがないとこればっかりはどうしようもない。俺の指定校ロードは絶たれたわけだった。


俺としては、大学には行きたいという思いはある。この時代、そのチャンスがあるなら、行っておくことに超したことはない。だから、渋々ではあるけれども、親の言うことに従い、国公立のそれっぽいところに進学するつもりだった。

渋々であるから、そんなに努力はしたくない。ここは都会に近い田舎だから、中堅国公立なんてごまんと転がっている。俺は成績も悪くないし、野球の実績もあるから、うまくいけば国公立大学の学校型推薦だってもらえそうだ。

このことは七月の三者面談のときに、担任も交えた場で確認したし、それ以上もそれ以下もない。だから今更『どうするつもり』だと聞かれたところで、『自分の言ったこと思い出せよ』くらいしか言うことはないんだが。




「あんた、私に何も言わなかったでしょ」

「…は?」

何も言わなかった?全く見当がつかない。

母親は縁なし眼鏡を取って、眉間を揉みながらはぁと息をついた。


「聞いてないなんて言わせない。



推薦の話。あんた、選考、落ちたんだってね。」



「はぁ?」

「先生から電話かかってきたんだけど。

『他の生徒は皆、事後面談に来たのに、東くんだけ来ていません』って。

体育祭だか部活だか知らないけれど、いい加減にもほどがあるんじゃない?」


そういえば一つ、思い当たる節がないわけでもない。腕を組んだ母親の前で俺は通学リュックをかき回し、くちゃくちゃになった茶封筒を引き揚げた。学校で配られるものにしては珍しく、しっかりと封がされている。

何の要件かも書いていないその封筒は、体育祭が終わった次の週、朝一で配られたものだった。気にも留めていなかったけれど、もしかしたら…。

指先で中の紙の感触を確かめながら、封筒の上側を横に引き裂いた。出てきた白いコピー用紙の上の方、でかでかと〈学校型推薦選抜・選考会の結果について〉と書いてある。下の方に合否が書いてあるんだろうけれど、もう結果は分かっているので、わざわざ見なかった。



どうにも引けなくて、横柄な態度で乱暴に紙を放った。それはダイニングテーブルの上にぱさりと着地し、何とも言えない沈黙が降りる。

ややあって、先に声を出したのは母親だった。


「…で?どうするの?」

「どうするつったって、大した変更もないだろ。

俺は母さん達が言うように、国公立に行くしかない。」

これまでぴくりとも動かなかった父親の瞼が、痙攣するように素早くまばたきをする。何か言いたげだったが、母親が遮った。


「成績もこの前の模試からすごく落ちているように見受けられるんだけど。

このままで共通テストを受けるつもり?」

俺は全身でため息をついた。母親の眦もつり上がってきて、だんだん良くない雰囲気になってくるのを肌で感じていたけれど、止められなかった。

ITだかICTだか、『君達の生活のためになりますから』とかいう仮面を被ってやってくる情報の波は、ふざけたことに、俺達生徒に黙って親に成績開示をするシステムを構築していた。そのせいで、こういう風に、こっちが意図しないタイミングで親の怒りを買う事案が増えている。本当にうまくいかない。


「だから、何回も言ってるけど、

俺は言われたようにやるしかないんだろって。

受かったら国公立、受かんなかったら公務員試験、それしかないんだろ。」

早く切り上げてしまいたかった。この話をするたびに、意味の分からない涙がこみ上げてくるから。何も悲しい思いなんてしていないのに、ふとした瞬間に叫び声を上げる小さな子供のように、俺は妙な衝動を感じている。

もう何回目になるのか、呆れというよりかは自分を落ち着かせるように深く息を吸った母親は、眼鏡をかけ直し、俺を睨み付けるような視線を寄越した。




「このままじゃとんでもないことになりそうだから、

貴和、あんた、塾に入りなさい。」




「はぁ?」

ふざけんな、という言葉が喉元までこみ上げてくる。塾に対するイメージなんて、『死んだように何の表情もない学生が一つも言葉を交わさずに黙々と勉強をするためだけに閉じ込められるハコ』って具合の最悪なものだ。たっかい授業料を払って、どうしてあんなにつまらない顔をしなければならないのか。

「今のあんたには、受験料を払う価値もないわ。

ちゃんとお金を払って、実績のためでも何でもいいから、あんたの受験に必死になってくれる人がいないとね。」

「そんな、別にそこまでしなくても…」

「この成績で?」


鋭い母親の言葉に、反論できない。

確かに、最近の成績は決して良いとは言えない程度には下降傾向にあった。部活の引退試合が終わってすぐに体育祭の練習に入ったから、その間に、部活を引退した奴らに怒濤の追い上げを食らっていた。

それでも最低レベルの国公立のボーダーラインには乗っけていたし、そんなレベルの大学に行ったって俺は別に構わないから、まさか親がここまで強行手段に乗り出すとは思っていなかった。


「とりあえず明日、体験の予約しておいたから、その時間までに準備しておいて。」


一方的にそう告げると、母親はすぐに椅子から立ち上がり、部屋に戻っていく。俺は何も言えないままその背中をあほみたいに黙って見送った。何の用もなかった父親は、最後まで居心地の悪さを全面的に押し出しながら、自分の身が大事らしく、同じく何も言わないままそろりそろりと自室へ去って行った。こういうところだけは、親の遺伝を感じないわけでもない。

「最悪だ。」

ひとりぼっちのダイニングに、俺の言葉が放り出される。衣擦れの音でさえも響くこの場所は、最悪な言葉なんてもっと響いて、俺の気持ちをさらに最悪にした。






ここまでされてしまったら、もう逃げ道はない。それは経験的に、ほぼ揺るがないことだった。

母親に引きずられるような気分で体験に行き、そこで大した学びなんてなかったけれど、それを伝えるまでもなく、流れ作業で入塾することになった。

確かに、塾の講師は学校の担任より沢山の知識を持っていて、授業自体は、そこまで嫌いではなかった。

その反面、一週間に一度ある個人面談は最悪で、それを受けるたびに、”自分”という意思の範囲が狭くなるような思いだった。

「ねぇ、東くんはどんな学部に行きたいの。

それが決まらないとどうしようもないんだけど。」

そんなもの俺にはないってずっと前から言ってるのに、肌もがさがさで髪もぼさぼさ、おまけに唇まで切れている不健康を絵に描いたような若い担当講師は、ずっと更年期のようにヒステリックな声を投げてくる。

勝手にしてくれ、俺は望んでこんなとこ来てないよ。

そう言いたかった。さすがに口には出さなかったけれど。




長袖のカッターシャツを身に纏うようになった10月には、学校も、受験に対してより熱が入るようになった。

学校の授業も大抵が履修内容を終え、今は演習に入っている。どいつもこいつも真剣な顔で1時間やそれ以上の時間、平気で問題と向き合っている。いよいよふざける奴もいなくなってきた。まだ受験モードに入りきれていないのは俺だけな気がしてくる。それでも、どうしてもギアが入んないまま、ただマークシート相手に色塗りをしていた。

かつての仲間も今は参考書がお友達で、言葉を交わすことも少なくなった。葉月がどうしているか、それさえよく分からない。でも、毎日開門時間から学校に来て、熱心に自習しているらしい。あの、バスケ一筋の葉月が…と他の奴らはびっくりしていたけれど、俺にとっては大して驚くことではなかった。だから分かってるんだって。あいつ、やるって決めたらやりきる、格好いい奴なんだ。ちょっと嫌いになるくらい、いい奴なんだ。

そう言えば、この前長田と一緒に帰っているところを見た。おそろいのキーホルダーが通学リュックにぶら下がっているところを見ると、まぁ、そういうことなんだろ。別に勝手にすればいいと思う。

その反面、鈴野さんは、学校を休みがちになった。学校に来ても、優れない顔色のまま必死に参考書へと向かっていて、話しかけられない。かなり追い詰められているのか体調が悪いようで、授業中も保健室に行くことがあった。本当は話しかけたい、でも、こんな、勉強も何も適当な俺が、鈴野さんの前に顔を出していいのか。

そう思うと足が止まって、動けなくなった。




塾は学校より更に冷酷で個人主義の場所だった。

個人面談と同じく毎週ある、共通テストの点数と時間を圧縮したような模擬試験の結果は、1位から最下位まで全て、正面玄関に名前と点数が張り出される。それにより、塾が設定しているいくつものクラスに振り分けられるという仕組みだ。一週間に一度も、採点して振り分けて事後指導して、塾の講師は本当に勤勉なもんだ。

結果が張り出される月曜日の正面玄関は、じりじりと焼け付くような嫉妬と悔恨で満ちあふれていて、とても息苦しかった。先週、総合点で1位だった奴が2位に転落して、歯型がつくほど唇を噛みしめながら、口の中で唸るように泣いているのを見たことがある。どこの大学を目指しているのか知らないけど、俺の目の前で泣かなくたっていいだろ。こんな、最下位の俺の前で。

口笛だって吹けるくらいの陽気さと余裕を持っているつもりだった。だって、別に勉強に執着してないから。でも、本当は知っている。

ああやって悔しくて泣き叫んで、その反動でめちゃくちゃ頑張って、そうして掴んだ結果って、めちゃくちゃ輝いてるんだ。気持ちよくて、挫折したときと同じ涙が流れるけれど、過去のものとは真逆で、忘れるのが惜しいくらい、めちゃくちゃ嬉しくて仕方ないんだ。


わかっているなら、やればいいだろ。


心の奥、自分がそう言う。でも、もう無理なんだ。

あの日から、鈴野さんと話して、そして別れたあの日から、俺の中の何かが零れて、とめどなく落ちていっている。そのうち抜け殻になって、何にも真剣になれないまま、ただだらだらと日々を消費していくのか。ちょっと怖いなんて思うけど、結局、”どうでもいい”が勝って、俺は何も受け止められないまま、他の人と同じように”この世の全ての疲労を背負った”ふりをして、今日も塾の扉を開いている。






その日も、貧しい語彙では”つまらない”としか形容できない授業を3コマ、椅子に深く腰掛けてやり過ごし、雑踏に紛れて、蒸し暑い建物から出た。

来たときはそんなことなかったのに、外は雨が降っていた。その割に空気はしっかりと季節の変わり目を示していて、少し肌寒い。

中も湿度が高かったのに、外もこれかよ。

そんなことを思っているのは俺だけらしく、無駄に優秀で月謝も高いこの塾の生徒達は、さっさと迎えの車に乗り込んでいて、さらにうんざりとしてしまった。

俺も早く帰ろう。そう思って、いつもバッグに入っている折りたたみ傘を開こうとしたとき、見知った横顔が目の前を過ぎ去った気がして、反射的に辺りを見渡した。


どうしてこんなところに。いや、ここにいてもおかしくはない。だって…。

ここ最近で一番本気になっている自分に呆れつつも、人混みを目を凝らして見つめ続けた。




そして見つける、不健康に思えるほど小柄で細く、透けるほど白い、その人の後ろ姿。あの日、バトンを繋いだあの時より小さくなったように見える背中に、ほどけたさらさらの髪が舞った。

俺は遠慮も気まずさも忘れて、人波を縫ってその人に近づき、大きな声で壊れないように、そっと声をかけた。











「鈴野さん、」

「えっ、東くん…」

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