第9話 エピローグ
サイラスは想定外の事態に
あの野生のウールヴェを十匹連闘する方がマシだった。
いつもは的確に状況を判断できていた。だが、今回の非常事態における行動マニュアルは、彼の経験の中に存在せず、同僚に弱音を吐いた。
「……ディム、助けてくれ」
『俺には無理だ……』
観測ステーションから即座に拒否の返答がきた。
「いやいや、そう言わずに……どうしたらいいんだ。イーレは?イーレはいないか?」
『
「なんてこった。本当にどうすれば――」
『いや、どうしたらと言っても――シルビアだ。シルビアを呼ぼう』
「それだっ!!」
男二人がおろおろとする事態になっていた。
リルが泣きやまないのだ。
晩餐会の騒動のあと、サイラスが明け方に店に帰宅すると、寝衣姿のリルが一階で待っていた。眠そうに眼をこすっている。
「リル、伝言は受け取らなかった? 今日は遅くなるから先に寝てるように、と伝えてもらったはずだけどなぁ」
「……精霊様から受け取ったよ」
「じゃあ、まだ寝ている時間だろう?」
「……サイラス、その服は何?」
「ああ、城の近衛服だ。変装に使ってね」
サイラスはフードをはずし
「サイラス、髪?! 髪をどうしちゃったの?!」
「あ?うん、切った」
普段、長く後ろで束ねていた黒髪は、肩のあたりで無造作に切られていた。
「なんで?!」
「必要に迫られて――」
そう言いかけたサイラスは固まった。
リルはショックで震えていた。涙をポロポロと流している。
「なぜ?!」
わかっていないサイラスの言葉に、リルは本格的に号泣をはじめた。
城からシルビアが要請に応じてやってきた。騒動の翌日でシルビアも疲れているはずだが、彼女は嫌な顔をしなかった。シルビアは隣の寝室でずっとリルと対話している。
サイラスは落ち着かず閉じたドアの前で、うろうろしていた。シルビアがやがてドアから顔をだし、呆れたように評した。
「なんですか。出産を待つ新米お父さんのようですよ」
「そんなの知らないって。リルはどうしたんだ。病気でどこか痛いんじゃないか?病気か?」
「大丈夫です」
「本当か?」
「信じてください」
「じゃあ、なんであんなに号泣したんだ」
卓前に腰をおろすと、シルビアは告げた。
「えっと……サイラスが髪を切ったせいです」
「はあ?」
『はあ?』
「サイラスが長い髪をばっさり切ったことにショックを受けたんですよ。昔を思い出したみたいです。リルのお父さんは、髪を切って身だしなみを整えて出かけた先で亡くなったそうです」
「――」
「思い出して怖くなったのですよ。急にまた取り残されて一人になるのではないかと。彼女にとって家族が髪を切るという行為は
「な、なにを?」
「彼女が安心することを」
サイラスは昨晩、姫を
「リル」
サイラスはベッドに腰をおろした。毛布に潜り込んでリルはまだ泣いていた。
「サイラスの……長い髪……大好きだったのに……」
今まで単に切るのが面倒くさくて、伸ばしていた、とは言えない雰囲気だった。
「ごめん、悪かった」
サイラスはとりあえず謝った。
「伸ばす。また、伸ばすから」
「もう……切らない……?」
「切らない――って言いたいところだけど、無造作に切っちまったからなぁ。そろえるくらいダメか?」
「ダメ……」
「ダメかあ。時間がなくて、ナイフでザクっと切ったから不揃いなんだけどなあ」
「……じゃあ、1回だけなら…いい」
リルはむくりと半身を起こした。
「……父ちゃんも…髪を無造作に伸ばしていたよ。お貴族様に呼び出されて、身だしなみを整えて出かけて……帰ってこなかった……」
リルが再び泣き出す前に、サイラスは抱きしめた。
「大丈夫だ。大丈夫だから。安心しろ」
「……うん」
「死なないし、リルを残したりしない」
「……うん……精霊様に誓って」
「誓うよ。リルを残して死んだりしない」
「……絶対ね?」
「絶対だ」
「……」
「……リル?」
抱きしめていたリルから寝息が聞こえた。
「……寝た」
サイラスとディムは安堵の吐息を同時に洩らした。
サイラスはよろよろと寝室からでてきた。
「……寝たよ」
「徹夜して、大泣きしたら、あの年齢では当然の結果です」
椅子に腰を下ろして、サイラスは天井を仰ぎみた。わずかな時間だが、疲労感は半端ない。
「……子育てって、魔獣討伐より大変だ」
『……同感だ』
「結婚前に悟れてよかったですね。二人とも将来、いいお父さんになれますよ」
自分で入れたお茶を飲んでいるシルビアが真顔で言った。
******
「おはようございます」
セオディア・メレ・エトゥールは執務室に足を踏み入れて、ミナリオからの挨拶に困惑した。
カイルが既に大量の書をさばいていたからだ。カイルとミナリオがすでに仕事をはじめているので、そのままメレ・エトゥールの執務を開始する。
――どういうことだろうか。昨晩の様子からいくと、しばらくの間は絶対に手伝いは拒否するだろうと予想していたのだが。
会話のない執務室には、ペンを走らせる音だけが存在し、静寂が守られた。
「……」
「……」
「ファーレンシアは二曲目の貴方の謝罪を受け入れるそうだ」
「――」
カイルの唐突な報告で沈黙は破られ、メレ・エトゥールの反応はやや遅れたものになった。
「そうか」
「ただし、婚約式と結婚式に同様のことをしたら侍女共々一生許さないそうだ」
「………………」
ちょっと待て、と思う。
メレ・アイフェスにその内容を伝言させる妹も妹だが、その伝言役を承るメレ・アイフェスもどうかと思う。
――鈍い。その一言につきる。
「ファーレンシアがそう言ったのか?」
「ああ」
「一言一句間違いなく?」
「間違いなく」
「それに関してのカイル殿の感想は?」
「ファーレンシアの心情として理解できる」
――惜しい。理解の方向が間違っている。
婚約式も結婚式も自分には無関係と考えている時点で落第である。ファーレンシアはこの先、彼のこの鈍さに苦労するに違いない。兄として、やはり外堀を埋めて援護するべきだろうか?
「そうか、心得ておこう。
「え⁉︎」
「通常は11〜12歳の初社交、16歳までに婚約、結婚が成立することはよくあることだ」
「……知らなかった……」
やや呆然とカイルは呟いた。
どうやらファーレンシアに対して全く無関心というわけではないらしい。その午前中のカイルの働きは、珍しく凡ミスが多かった。
セオディア・メレ・エトゥールは、妹の恋を応援すべきか、国務の効率を優先すべきか、本気で迷いが生じた。
中庭から
セオディアが窓から見下ろすと、敷布がひかれ、
どこから見ても恋人の時間で、噂は城を駆け巡り、街に流れるだろう。こちらの好都合というものだ。
恐らく
――ファーレンシアも、あえてその事実を告げなかったに違いない
脈がないわけではない。いや、はっきりとあるのは確かだ。
ファーレンシアへの婚姻申し込みの書を数枚、彼のところに混ぜておくと、動揺した彼は羽根ペンを折っている。その姿は非常に面白い。
――明日はさらに混ぜておこう
メレ・アイフェスに己の恋心を自覚させるには、一苦労だ、とセオディアは思った。彼等はそういうことに、疎い人種なのだろうか?
「……悪い顔をされていますよ」
見かねたミナリオが警告する。彼はメレ・アイフェスの自由時間のために、代理の労働提供を申し出たのだ。
「二人が婚約してくれれば、書の半分は減るんだが?」
「それは理解できますが……」
「これはどうやって外堀を埋めるべきかな?ミナリオ」
「私にきかないでください、メレ・エトゥール」
エトゥール王の元専属は新しい主人への裏切りの加担をきっぱりと拒絶した。
まだ、エトゥールは平和だった。
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