顔のない父
仁矢田美弥
第1話
あなたのお顔を削り落とした「家族写真」が掲げられた家で育ちました。
お父さま、そう、あなたのお顔です。
私たちが皆でそろって田中寫眞館で撮影していただいたあのお写真には、あなたと母と、泰兄さま、藤子姉さま、そして私みな江と、まだ赤ん坊だった光太郎が写っておりました。
泰兄さまは数えで十七、藤子姉さまは十四、私は七歳でした。写真の中では兄さまはあなたのもとに、姉さまは母のもとに。光太郎は母に抱かれ、私だけがまるで所在なげに、真ん中に伏し目がちに写っていました。
今、このなかで生き残っているのはこのみな江だけ。
私たち家族の運命は、このお写真を最後に狂いはじめましたね。
あなたがお亡くなりになってから。
* * *
もちろん、我が家では、格にふさわしい形で、あなたのご葬儀を盛大に執り行いました。母は気丈にも、一切を執事任せになどせずに、また両親──私からすれば両方の祖父母──にすがることもせずに、すべてをてきぱきと、滞りなく。
それはもう、見事な手腕でした。
あまりにも見事すぎて、あれは何かあなたの死を予期してでもいたのではないかとまで陰口を叩くものさえありました。
そうです。幼かった私の耳に届くほどまでに。
でも、私は母に関しては、喪服からのぞく白い首筋の青みを覚えているきりなのです。
そしてどこか、母の姿に憧憬さえ抱いていたのでした。
幼かった私は、生まれつきの迂闊な性質も相俟って、葬儀の間、泣くことさえありませんでした。
あなたの死を実感することができなかったからなのです。
ようやく騒がしく慌ただしい一連の儀式が一段落した後に、私はようやく、あなたにもう会えないのだと云う事を痛いほど悟りました。初めて涙をこぼしたのはそのときでした。
そうして数日後、家族で過ごす居間に掲げられた、大きな額縁に入った「家族写真」の、その父の顔だけが削られて分からなくなっていることに気づいたのです。
このような心無いいたずらをしたのは、進路を巡って父と口論の絶えなかった泰兄さまの所業だろうと私は最初思いました。
ところが思いがけず、数日後、寮にいったん戻った後に再び帰宅した兄さまがこの写真を見咎め、母を詰問しはじめたのです。
そこで初めて、私はこれが母の所業であることに思いいたったのでした。
泰兄さまの言い分はこうでした。
こんな奇妙な写真を外の人に見られたらどうするのか。そもそもお手伝いに来てくれている佳(よし)さんを通じてすでにご近所の噂になっているのではないか。外聞が悪い。母よ、少しは控えると云う事を知るべきではないか。
つづめて云えば兄の言い分はこういうものでした。まだ幼かったとはいえ、私は兄の言葉に父への敬愛や慎みの思いが欠片もないことには気が付いていました。そのときは、兄は進路を巡って父と口論が絶えなかったために、父への怒りがまだおさまらないのだと解釈しておりました。
泰兄さまは殊の外芸術を愛でて、東京美術学校への進学を望んでおりました。けれども実業家の父は、泰兄さまに自分の跡目を継がせるべく、東京帝国大学への進学を求め、頑として譲らなかったのです。兄さまは幾度か友人を頼って出奔さえしましたが、それでも数日で折れて父に言われるまま家に戻るということを繰り返していたそうです。もちろんこれは、後から聞いた話で、当時幼かった私には知る由もありませんでした。
母に詰め寄る兄さまの背後に、あなたの顔が削られた家族写真がぼんやりと鼠色に浮かび上がり、気が付くとそこだけ明り採りの窓からの残り陽が当たっていて、何か不穏な気味の悪さを覚えたことだけは、私は今でもはっきりと思い出せます。
けっきょく、兄さまは写真をおさめた額縁を取ってしまいましたが、兄が寮に戻った後は、また母がそれを持ち出してきて、同じ場所に飾りました。
あのとき兄さまが言っていた「おんな」という言葉が、単なる性別を指して云っているわけではないことに関しても、子どもの私は気づいていました。でも、その意味するものまではまだその時点では明瞭ではなかったのです。
母はおっとりとした風の色白の美人でした。私は父よりもこの母に似たらよかったとその頃は思っていました。髪もつややかで、三面鏡に正座して髪を梳く後ろ姿などはうっとりとするほどなのです。
その母がなぜ、父の顔を削り落とした写真を掲げるのか、本当に奇妙でした。ある日、午後のお茶をいただいているとき、学校の様子など他愛もないことをお話しているときに、何気ないふうに母に訊ねてみました。
実を言うと、少し覚悟していたのです。母はご機嫌を損ねるかもしれない、と。兄さまと母とのやりとりはかなり険悪でしたから、幼い私でも不穏さは十分に感じていたのです。
でも、母はそれはそれは優しく微笑まれ、こう言いました。
「死者の顔を現世に残すのは忍びないからよ」と。
いくら何でも私にも釈然とする答えではありませんでした。それならそもそもこの写真を掲げる意味はないのではないか。兄さまがそうしたように外してしまえばいいだけではないか。でも母は、私の顔にそう書いてあることを確かに見てとったうえで、少し口をすぼめてまた微笑んだのです。
私はそれ以上聞くのがためらわれて、いえ正確にいうと恐ろしくて、もう黙り込んでしまいました。幼いながらも自分の失言に、顔から火の出そうな思いを抱きながら。
そしてふと、自分は父に似ているということにも思い当たったのでした。
そう言えば、幼い頃から母は「みな江さんはお父さまに似ている、よかったわね」と言っていました。
私が父ではなく母に──そう、《生母》に──似ていたら、やっぱり私は不幸だったのでしょうか。それはもう分かりません。人は生まれる境遇を選べないといいます。まさにその通りで、私も選んでこのような境遇に生まれてきたのではありません。
また、私は父に容姿が似ることで、あまり美しくはないものの、この家で違和感を抱かれることがさほどないままに生きることができました。
今はもう、「家族」の誰も生きていない。
人の死は何であれ痛ましく、たとえ悲しさの感情が希薄だったとしても、何らかの感慨を生むものです。ましてやそれが同じ家で生活していた「家族」のものであったなら、なおさら。はっきりとはしないけれど、底知れぬ暗さと重さがいついつまでも残ります。
今は私は女性実業家として戦後の混乱期をのりこえ成功し、年の離れた相棒の女性をつい昨年、あの世に送り出しました。
私のお迎えもそろそろくるのかもしれません。
人の生、そして死そのものは、選ぶことは困難なのです。そう、自殺などしない限り。
泰兄さまの話をしましょうか。
自殺で思い出したのです。
泰兄さまは自殺しました。戦中でなくてよかった。戦中の出征先で自殺されたら、残された家族は肩身が狭い思いをしますからね。
芸術肌の泰兄さまはけっきょくはあなたの言いつけを守って、東京帝国大学を目指し、一高に進みました。それでもあきらめの悪い兄さまは、あなたの目を盗んでは友人とともに油絵などものしていたようですが、兄の死後この友人が送ってくださった作品を見ると、あなたの判断は間違ってはいなかったのだと云って差し上げたいです。
素人の私の目にも、何ら目新しい、珍しい才気は感じられないものでした。
実の兄に対して、私は辛らつすぎるでしょうか。
ご不快であったらご容赦ください。
兄さまの自殺はごくあっさりと執り行われたようです。
ほら、自殺が流行になっていた頃がありましたでしょう。
兄も日光の華厳の滝にでも飛び込みたかったのかもしれません。そして永遠に中禅寺湖の水底に張り付いて消えていくのを待ちたかったのかもしれません。
でも、兄さまの自殺は惨めでした。
兄さまは晴れて東京帝国大学の学生になり、表向きは生真面目に講義に臨み、成績もそこそこではあったようなのです。そこまではまあ、良しとしましょう。
ところが、晴れて進級した辺りで、急に目に見えて兄さまの成績は落ち始めました。このままでは落第も必至だったかもしれません。
兄は自殺することによって落第せずに済みました。
後から聞いた話ですが、兄はこともあろうに友人の母親と良くない仲、あら、こういう場合は好い仲とでもいうんでしょうか、ふふ。そういう仲になり、それが友人にも、そしてその帝国軍人である父親にも露見しそうになったことに心が震えて、混乱のあまり自ら命を絶ってしまったらしいのです。もちろん、ここまで具体的な話は後に聞いた話。
でも、世間から身を隠すようにひっそりと遺族だけで行われた葬儀でも、「だから言わんこっちゃない」というようなしたり顔の叔父の言葉はこの耳にしっかりと焼き付けておきました。
そして、うちはこういう家系なのだろうか。光太郎だけは免れて欲しいものだが、と思ったのです。
言い忘れましたが、兄さまの遺骸はすでに荼毘に付されていて、死顔すら私は見てはいません。
よりによって不忍池に入水して本当に死んでしまうなんて、もしかしたら兄は本当に運のない人だったのかもしれません。
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