ほの明るい空の下で
蒼桐大紀
前編
最果ての職場と呼ばれるだけのことはある。
火星から直航便で七十二日。移動時間がそれだけ長いと、赴任前研修ができてしまう。仮想空間での実技と座学を一日八時間。これで十分とは言えないだろうが、少なくとも現地に降り立って途方に暮れない程度には仕上がるらしい。
木星圏開拓団ガニメデ海洋開発基地は、なにもかもがこじんまりとまとめられていた。下から順に発着ロビー兼オフィス、管制室、宿舎と購買部が積み上げたホットケーキのように重なっていて、円筒形の建物に詰め込まれている。
発着ロビーで入管手続きを済ませた僕は、そのままオフィスにある司令官室への出頭を命じられた。トランクは
木星第三衛星ガニメデ。二二〇四年現在、人類が進出した最も遠い天体だ。
宇宙開発の最前線、木星圏開拓計画の要、などと言えば聞こえはいいが、ガニメデの人口はこの十年あまりの間、大きく変化していない。
第一次火星移民計画が軌道に乗って、宇宙開発の主体は明確に火星になりつつある。最大の懸念材料だったヘリウム
エウロパ基地での水採掘計画は凍結。カリスト開拓計画は軌道施設を残して規模が縮小された。ガニメデも例外ではなく、大幅に計画が縮小されていた。それでも、開拓拠点となる地表基地群は完成していたため、
ガニメデ海洋開発基地は、そのうちのひとつだった。所在はガニメデの南極、霜でできた
ガニメデ海洋開発基地というのは名ばかりで、いまの主任務は極冠から広がる霜でできた氷海の観測だった。なにか差し迫った事態に遭遇しない限りは、こちらからの手出しはしない。
「まあ、言ってみるなら見守り役だね」
基地司令を務めるオーソン・カニンガム司令は、現場の仕事を大雑把にまとめた。五十代に足を掛けたくらいの男性職員で、ガニメデ勤務は五年目になるベテランだ。表面重力が地球の月より少し小さい環境での生活が長いにもかかわらず、まるっとした体型をしている。
司令官室で僕を出迎えてくれたのは、カニンガム司令と
「オフィスに常駐しているのは基本僕とさっきざっと紹介した三人だけで、ほとんどの職員は管制室に詰めてるね。
カニンガム主任は柔和な顔立ちを裏切らず、やわらかな声でそう説明した。
「武田君も最初の異動がこんな
「はい、よろしくお願いいたします」
型通りと言うには、だいぶ砕けた挨拶で司令官室を後にした。
境川さんの案内で管制室へ移動し、与えられた席についた。べつに今日やらなくても良いのだが、端末の初期設定は済ましておきたかった。その時出来ることはなるべくその時にやる。僕のモットーみたいなものだった。
とはいえ、いまできることは少ない。一通り環境を整えると、僕は隣の空席に目をやった。少し考える。
ここで僕に与えられた役職は、氷海巡視艇の副操縦士兼観測員だ。椅子を温めるのが仕事ではない以上、ここは待っていないで自分から動いてみるべきだろう。僕は管制室の中央にある境川さんの席へ向かった。
「境川さん」
「はい」
三十前後の毅然とした顔立ちが僕の方を向く。化粧っ気は薄いが艶やかな色を唇に差していた。事前に教えてもらっていなければ、既婚者で一児の母とは思えない。
「ラムリー艇長は、今日出勤されているのですか?」
境川さんは少し考えるような顔をしたが、すぐに「ああ」とうなずいた。
「アルフなら格納庫にいるはずよ。これから行くの?」
「ええ、せっかくなので顔合わせをしておこうと思いまして」
携帯通信端末には、すでに基地内のマップがダウンロードしてあった。
「うん、いいなあ。フットワーク軽くていいなあ二十六歳」
境川さんは腕を組んで「うんうん」とうなずく。こういうときの返しが苦手で愛想笑いで誤魔化してしまうのが常なのだが、周りに人がいないということが作用したのらしい。僕はめずらしく反論めいた言葉を口にしていた。
「歳は関係ないですよ。ただ、いまできることはいまやろうと心がけているだけなので」
「そっかそっか。じゃあ、ひとつアドバイス」
境川さんはそう言うと、手招きをして僕に耳打ちした。
格納庫は基地施設と別棟になっていて、連絡通路で繋がっていた。今後の基地拡張を見据えているためか、開発基地の組織規模に比べると大きく、広く感じる。
外界と繋がるシャッターの前には車両用のエアロックがあり、格納庫は気密されている。天井は高く、半円状の端は暗闇に飲まれて見えない。照明は格納庫の中央付近を照らしている。
水陸両用氷海巡視艇は、その一番明るいところに鎮座していた。
研修資料で見知っていたものの、実物を見ると思わず見入ってしまった。
「これに、僕は乗るのか……」
僕の役どころは観測員兼副操縦士。簡単に言えば見張り役だ。一応操縦の訓練も受けているし、免許も持ってはいるが腕のほうにはあまり自信がない。
「君が新人かい?」
巡視艇の右側に回り込もうとしたとき、背後から声を掛けられた。軽やかな男性の声に僕は振り向く。
しかし、そこには誰の姿もない。
「こっち、こっち。目線を下に、だ」
言われたとおりに下を向いてみる。
まず目に入ったのは、黒い艶やかな体毛に包まれた小さな頭だった。赤橙色のクチバシがすっと突き出ていて、つぶらな二つの瞳が僕を見ている。ずんぐりとした体のうち、お腹のほうは白く背中のほうは黒い。三本指の鳥足で格納庫の床に立ち、両の翼をまるで腕を組むように背中に回している。
唯一の人工物として、銀色のプロテクターのようなものを胸の周りにつけており、そこに所属を表すアルファベットの略号が刻まれていた。
身長は一メートル三十センチくらいだろうか。
ペンギンがそこにいた。
「やあ」
「……あなたは?」
探るような僕の問いをペンギンは気にした様子もなく、巡視艇のほうへと首をしゃくった。
「そいつの責任者」
「では、あなたがアルフ・ラムリー艇長ですか?」
「ああ」
僕の言葉にラムリー艇長は、
そんな僕の沈黙に戸惑いを見て取ったのかもしれない。ラムリー艇長は肩というか翼の付け根をすくめると、目を細くする。
「ペンギンのパイロットははじめてかい?」
楽しげとも取れる口調でそう言った。
「あ、え、はい」
「そうか。ま、慣れてくれ」
「武田です。武田
名乗ったところで、境川さんのアドバイスを思い出す。
「今日からよろしくお願いします。アルフ」
僕の挨拶を聞いたアルフは、くちばしをわずかに開いた。人間で言うなら微笑したのだろうと思う。
「苗字と名前、どっちで呼ばれるのが好みだい?」
「え、あ、苗字です。そっちの方が緊張感が出るので」
「緊張感?」
「仕事ですから」
かろうじて微笑を返すと、アルフは二、三度うなずいて肩を震わせた。笑っているのかもしれない。
「そうだな。じゃ、武田。よろしく頼む」
右の翼が差し出される。よく見るとその先端は三つに分かれていて、指のようになっていた。
僕はその手を握り返した。
アルフの手はさわさわとした体毛の感触と暖かな体温を伝えてくる。それはやはり手というよりは翼の先で、あらためて直属の上司が人間ではないことを認識させれられる。
最果ての職場で待っていたのは、ペンギンの上司だった。
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