囚われのコンコルディア

のーが

プロローグ

 水滴がぽたり、ぽたり、と冷たい石の天井から漏れている。規則的な音は、決して大きくはない。それなのにやけに耳に響くのは、ここがあまりにも静かすぎるから。薄暗闇に包まれた空間は、右を向けば石の壁、左を向いても石の壁、後ろにも石が敷き詰められていれば、上下も石の床と天井に挟まれている。


 取り囲む六面のうち、正面だけに奥行きがある。格子状の鉄棒に遮られた隙間の奥では、左側にだけ通路が伸びている。鉄格子の先では天井付近に陽光を取り入れるための四角い穴が空いているが、今は夜なのか、一切の光が差していない。脱獄には良さそうな穴だが、当然ながら格子が嵌められているし、そもそも牢獄の格子を破れないから抜け道があっても無意味だ。


 太陽の日差しはないが、代わりに通路の先で橙色の炎が揺らめいている。

 格子に近づいて覗くと、鉛色の甲冑を着た兵士が一人がけの小さな机に座り、黙々と何かを書いていた。足音が聞こえているだろうに、背中を丸めた兵士はこちらを見向きもしない。


「相変わらずマメな性格だね。今日も怠らず記録を取っているのかい?」

「義務なんですよ。俺だって好きでやってんじゃありません。むしろ、いくら書いたって字がうまくならない事実に腹が立ちます」

「本日も異常なし、と書くだけじゃ駄目なの?」

「それじゃあ納得してもらえねぇんですよ。“今日は陽の出と共に起きて、与えた食事も残さず食べて身体も動かしていた。変わらず健康体の様子で、夜には日誌を書いている時に話しかけられた。これも普段と同じで、精神面にも変化は見られない。脱獄の意思も未だ感じられない。”と、こんなのを毎日違う表現で書いてんですよ」


 喋りながら手を動かしていた兵士が筆を置き、広げていた紙を丁寧に丸めて机の端に退けた。


「たまには脱獄を真剣に考えて、君に成功する確率を尋ねるくらいしたほうが刺激になるかな?」

「それを聞かれるのは5回目です。ちなみに前回は1ヶ月前に聞きました。忘れているようなら付け加えますが、レナード殿の行動で脱獄できる可能性はゼロです。ただし、外部からの助けがあれば成功する可能性は一割程度はあるんじゃないかとも言いましたし、仮に成功したら、見張りの俺はその外部からの協力者によって殺されるって話もしました」

「カーヴァ、君はやっぱりおもしろい人だね。君が僕の見張りで嬉しいよ」

「俺は嬉しくないですけどね。抵抗する意思のない相手を見張るだけの退屈な仕事なのに、万が一の際には確実に命を落とす役目なんですから。戦いにも出れないから出世もできないし、字はたくさん書いても一向にうまくならない」


 レナードは牢獄のなかにあるガタガタと安定しない使い古された椅子を引っ張り、格子を挟みカーヴァと向き合うように座った。カーヴァも振り返り、椅子の向きを変えた。外から吹く風に揺れる燭台の炎が2人を照らす。


「君は正義について考えたことはあるかな?」

「その話もたくさん聞きました。正義は言ったもん勝ちで、言う人によってコロコロと正解の変わる不確かなものです。俺たちにとってはレナード殿の国を滅ぼす行為が正義で、レナード殿にとっては俺たちの国を滅ぼすのが正義だった。互いの正義をぶつけ合った結果、俺たちが勝った。綺麗事を排除すれば、勝たなきゃ正義にはなりません……貴方が同感だと答えたのが衝撃で、よく覚えています」

「そうだったね。君はよく頭の回る人だ。見張りにしておくなんて、エストレーモ王も贅沢な人選をするものだね」

「貴方のような身分の方に褒められるのは光栄ですが、毎日のように同じ言葉をかけられていては段々と価値が低くなってしまいますよ」

「いやいや、それは誤解だよ。僕は心から思っていることを素直に、率直に伝えている。聞き飽きたというなら、君も贅沢な感性の持ち主だけど……そうだなぁ」


 腕を組み思案する素振りを見せるレナードに、カーヴァは胡散臭さを感じた。わざとらしく、演技にしか見えない。もう半年もの間、彼の監視役としての任に就いているが、未だにレナードの本心はわからない。意図的に底を見せていないのか、それとも元から大した器じゃないのか。半年接したカーヴァの評価としては、彼は少し偉そうで老成している能天気な青年だ。


「じゃあ、平和とはどういった状態を指すと思う? これは初めての質問のはずだ」


 急に眉間を射るような眼光を向けられ、思わず息を呑む。動揺はバレているだろうが、カーヴァは退屈そうにため息をついてみせた。


「――おもしろい質問じゃない」


 カーヴァの返答ではなかった。もっと斜に構えた反応をするつもりが、この場にいない人物の声に割り込まれた。

 女性だ。女性だが、ただの女性ではない。曲がっていた背筋が瞬時に伸びる。上階に続く階段の闇から声の主が現れるより早く、カーヴァは立ち上がった。国に仕える兵士としての本能が、思考を置き去りにして身体を動かした。

 だから、兵士として正しい行動を取りながらも、カーヴァの頭は疑問符で埋め尽くされていた。


「ソ、ソレイア様……?! な、なぜこんな所に?」


 階段の闇から現れたのは、地味な色合いのドレスを着た女性だった。

 レナードには、ちらっと見ただけではカーヴァが椅子から転げ落ちそうなほど驚いたことに合点がいなかった。


 しかし、遅れてレナードも理解する。

 自分の囚われている城で『ソレイア』と呼ばれる人物といえば、一人しかいない。記憶に眠っていた名前を思い出した時、レナードも同じように立ち上がっていた。急な動きの反動でボロい椅子は音を立てて倒れたが、レナードの耳には聞こえていなかった。


 ――ソレイア王女か。


 およそ王族に相応しくない服装でも、暗闇から姿を表してしまえば気品は隠しようがない。他人を従える意志の強さを秘めた凛々しい瞳に、艶のある長髪。ただ歩いているだけで目を奪う不思議な魅力が、彼女がただの少女とは明確に異なる事実を証明していた。

 レナードに対してとは違い、カーヴァはあたふたしながら、階段を降りてきた王女を出迎える。


「ソレイア様、ここは牢獄です。どのような御用でしょうか」

「答える必要があるの? 黙っているか、外に出ていなさい」

「まさか、なかにいる相手に用があるのですか?」

「そうよ。実は盗み聞きしてて、あんまりにも楽しそうな会話だから、つい降りてきちゃった。ちなみに、盗み聞いてたのは今日が初めてじゃないわ。もう1ヶ月は前から、毎晩の二人の会話を聞いていたわ」


 唖然とするカーヴァを気にも留めず、ソレイアは奥の牢獄に向かって進む。

 我に返り、カーヴァは慌てて再び彼女の前に回り込む。手を触れる行為は許されないから、進路を塞ぐしかない。


「なにするの?」

「危険ですから下がってください。貴方様は私のような取るに足らない兵士とは違います。こんな護衛のない場所で相対していい相手ではありません」

「そのために貴方がいるんじゃない」

「それはそうなのですが……アルジェント王はご存知なのですか? 貴方様がここにいることを」

「お父様は関係ないでしょ? 報告したければ、今からでも行くといいわ。でも、それだと貴方の恐れている護衛なしで対峙する事態になるわね。迷う時間はないわよ?」


 ソレイアの伸ばした手が甲冑越しの肩に触れ、カーヴァは壁に退けられた。もちろん、兵士としての鍛錬を積んだ彼に押し返せない力ではない。ただただ大きすぎる身分の違いが、彼に抵抗を許さなかった。

 こうなれば、自分が王女の御身を守るしかない。

 腹を括ってみせた反面、牢獄にいる男と半年を過ごしたカーヴァには、彼がソレイアに危害を加えるとは思えなかった。


 たとえ彼女が、彼の治める国を滅ぼした仇敵だとしても。

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