幕間

第58話 くるみとミルク

 ユニオンセル生物学研究所から風社邸へと桐明育久を護送する仕事が完了した翌日だった。天気は良く、晴れている。もう少しで正午になろうとしていた。


 女神ヶ丘駅の駅前ロータリーに隣接するビルの三階、つまり特殊人材派遣会社「ウィル」の事務所。


 レインは、パソコンの三つあるディスプレイを見ながら、ブラインドタッチでキーボードを叩く。風社有澄への報告書を作成しているところだった。



 有澄は特に報告書を要求していなかった様なのだが、優秀なメイドがきちんとしていた。


「報告書の納品をもって、検収させていただき、報酬をお支払いいたします」


 風社邸を去る時に、紙透衣折からレインとシャインは言われたのだった。



「今回のレポートは、レインさんが書くべきですよ。風社家とも関係ありますし、警察に報告したことと、しなかったことも整理して書く必要ありますよね?」


 いつになく論理的なこと言っていたシャインを思い出し、レインは苦笑する。晴れ女の顔には、報告書を書きたくない必死さが滲み出ていたのだ。


 当の本人は、今はランチの買い出しに出ている。晴れていることもあり、異能の充電のためでもあった。買い出し先は、老舗パン屋くるみベーカリー。レインは、オンライン注文をしてもよかったが、今回はシャインに任せていた。


 雨男は、そろそろ買い出しから戻ってくるだろうと見込み、コーヒーメーカーをセットする。



 ガチャリ。事務所のドアが開いた。晴れ女の元気な声が事務所に響いた。


「ただいま、戻りました!」


「おかえり。コーヒーは淹れてある」とレイン。


 シャインはそれにうなずき、返す。


「今日はカフェラテで。砂糖はいらないです」


 そして、応接テーブルに買ってきたパンを広げた。レインはコーヒーを用意する。ミルクは電子レンジで温めた。雨男はミルクたっぷりのカフェラテにしっかり砂糖も入れる。晴れ女の分は、言われたとおりに用意した。


 時刻は、正午を少し過ぎている。


「くるみさんの新作パン、レインさんの分も買ってきました。麻婆チーズトーストです」


 レインは、辛党のシャインが買ってきたそのパンを警戒した。引きつった表情を見て、彼女が言う。


「大丈夫ですよ。中は甘口の麻婆豆腐なんです。前に、くるみさんに試食と味付けの相談をされて、お子様にも合うようにしてあります」


 そう言われたレインの顔が、さらにひきつった。シャインは、そんなことは気にせず、浅草の有名なお店で買ったという七味唐辛子を応接テーブルに置いた。目が輝いている。


「なるほど。辛口にしたい場合は、七味唐辛子をお好みでってことか」


 レインは納得したように言った。シャインは大きくうなずく。


「あと、他のパンですけど、レインさんは好物のチョコクロワッサン・ダマンド。それと、アップルパイにしました。私は、いつもの激辛カレーパンとメキシカン・フォッカチャです」


 レインは、三つ全て辛いパンかよと心の中でツッコミをいれた。


「いただきまーす」


 二人とも、くるみベーカリーの新作パン・麻婆チーズトーストを食べた。ただし、同じパンとは思えないほど、シャインのには七味唐辛子がふりかかっていたが。


「……うまい」

「……美味しい!」


 トーストとチーズの間にはとろみを強めにつけた麻婆豆腐が挟まっている。麻婆豆腐のなめらかさに、サクッとしたトーストの食感。それにやわらかく伸びるチーズ。見事なバランスだった。


 パンを食べながら、会話が弾む。


「ところで、シャインは、女性の知り合いをちゃん付けにするけれどさ。なんで、くるみさんだけ、ちゃん付けじゃないんだ?」


 レインは、ふと思ったことをシャイン聞いた。


 そう言われて、シャインは目を丸くする。そして、カフェラテを一口飲むと答えた。


「……くるみベーカリーを知ったのは、えっと、あの事件の後で、ひどく落ち込んでいた時だったんです」


 シャインは、しんみりとした顔になる。レインは、何かに気づき、優しい声で応える。


「そうか……。ちょっと余計なことだったか。すまん」


「いいえ。……その時は、ろくに食べてなくて、パンの焼ける匂いにつられちゃって、お店に入ったんですよ。わたし、とてもひどく元気ない顔だったみたいで、初めて会ったくるみさんに心配されちゃって」


 シャインはそう言うと、カフェラテが入ったマグカップを両手で包むように持った。言葉を続ける。


「お店のイートインに案内されて、名前を聞かれて。『陽向咲輝』って答えました。……そしたら、くるみさん、揚げたてのカレーパンとホットミルクを持ってきてくれて」


 晴れ女は、懐かしむような顔になる。


「『咲輝ちゃん、お腹空いてない? まずは美味しいもの食べて元気になろう! うちのカレーパンは美味しいよ』って言ってくれたんです。……カレーパン、ほんとに美味しかったです。ホットミルクも優しい甘さでした」


「……くるみさんらしいな」


「ですよね」とシャインは微笑む。


「それで、それ以来、ずっと『さん付け』なんですよ。先に『咲輝ちゃん』と言われてしまったのもあるのかも」


 レインは、シャインが選んできたアップルパイをほうばる。


「……うん。これもいけるな。くるみベーカリーのパンは、ほんとハズレがないよな」


「そうですよね!」とシャインは同意して、好物の激辛カレーパンを手に取った。


「くるみさんを、自然に『ちゃん付け』で呼べる方法がひとつあるぞ」


 レインの言葉に、シャインは顔を上げた。


「……『くるみお姉ちゃん』って、呼ぶのはどうだ?」


 雨男の提案で、晴れ女の顔が明るくなる。


「そうですね。それ、良いですね。……今度会ったら、そう呼んでみます!」


 そう告げると、シャインは大好物の激辛カレーパンを口にした。美味しさと嬉しさで、彼女の顔はほころんだ。

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