第3章

第16話 溶けるビルと空売り

 晴れた静かな夜だった。いや、正確には太陽が昇り始めようとしている暁の時刻だ。女神ヶ丘市天円区てんえんくにある見晴らしの良い高台に一組の男女がいた。天円区は行政の機能が集中している区域だ。


 高台は、小高い丘に造られた公園の中に位置している。公園内の駐車場から近く、見晴らしも良い場所なのだ。デートスポットでもあるが、この明け方にカップルがいることはまずない。


「そろそろかしら?」


 胸元や膝丈あたりの露出を強調したスーツ姿の女が言った。紫色の巻き下ろしロングの髪。メイクも念入りにしてある美人だった。スタイルの良さに加えて、艶やかな雰囲気を纏っている。夜の街が似合いそうだ。だが、ハイヒールではなく、歩きやすいローファーを履いている。


「ん? あと一分くらいだ」


 女の横に立っている男が低い声で応えた。がっしりとした筋肉質の体つきで、深緑のカーゴパンツにグレーの長袖とラフな服装。髪は周りを短く刈り上げたツーブロック、髭を少し伸ばしていてワイルドな風貌だ。左耳にはピアスが光る。右手には眠気覚ましの缶コーヒーを持っていた。


 適度な距離をあけている二人は、どうやら恋人同士というわけではないらしい。


 見晴らしの良い高台から、少し遠くに建設中のビルが見えた。すでに外観は出来上がっているので、立派なビルである印象だ。高さは五階程度で、横に幅広の建物だった。周囲が住宅街なので目立つ。ここにいる二人が建設中だと知っていただけだ。


 男が示した時間になる。だが、特に何も起きていないようだった。いつもどおり、空の漆黒が紺色に変わり地平に近づくにつれてオレンジ色になってきた。


 約五分後。


 男は、空になったことを確かめるように缶コーヒーをあおった。


 そして、二人の男女が見ていた建設中のビルが、静かに崩れ出した。現場近くでは、割れる窓ガラス、崩れるコンクリート、折れ曲がる鉄骨が恐ろしい協奏曲を奏でているであろう。だが、高台までそんな音は届かない。


「もったいないわね。内装が終われば完成でしたでしょうに。しかも、税金で建てたビルよ」


「ま、でも、これでアドミラル建設の株価は落ちるだろう。うちが空売りして大儲けでいいじゃないか」


 男はニヤリとして言った。


「そうね。ボスの命令に従って、私たちは仕事をしただけ」


 女は、綺麗に整えていたネイルの一部が欠けているのが気になるようだ。崩れたビルにはもう興味を持っていなかった。


「ここは、未来の日本、そのモデル都市。当然、欲望渦巻き、金が集まる。駆け引き、騙し合い、奪い合い。派手な賭け事をしたくなるってもんだよな」


 男はそう言いながら、空の缶コーヒーを軽く握った後、高台にある木製の柵の上に置いた。


「他の都市と同じように、既得利権を行使して儲けようと大企業や財団が進出している。それらが、私たちの獲物ね」


 女はそう言って、ふふっと笑う。そして、鞄からステンレス製のウイスキーボトルを取り出し、蓋を開け、口をつけた。


「仕事中に呑むのが許されているってのは、良いもんだな」


「酔うという感覚はもうないわ。でもね、呑まないとやってられないの」


 女は言った。それを聞き、男は声をあげて笑った。


「確かにな。じゃ、アメジスト。そろそろ車に戻るか。飲酒運転させるわけにはいかないから、俺が運転しよう。家まで送っていくぜ」


「シミター、お言葉に甘えるけど……近くの駅までいいわ」


 アメジストというコードネームで呼ばれた彼女は、あくまで仕事仲間だと線を引く。


「はは、了解。しかし、ここは恐ろしい街だな。ビルは溶けるし、人がよく死ぬ」


 シミターと呼ばれた男は、まるで自分は無関係だとばかりにとぼけた様に言った。そして、くくっと笑う。それを聞いた彼女も妖しく微笑む。


「私たち、『ノーブル・ギャンブル』に乾杯」


 アメジストはそう言うと、ウイスキーボトルを軽く掲げた。


「おいおい、俺はグラスを持ってないぜ」


 彼が木の柵に置いた空き缶はいつの間にかなくなっていた。置かれていた木の柵のあたりが銀色に染まっている。そこだけメッキ塗装された様だった。


 アメジストは、シミターのぼやきを気にもとめず、高台の階段を降りて、駐車場の方へと歩き出す。


 シミターも昇ってきた太陽を背を向けて、彼女の後を追った。


 *


 崩れる時に鳴らされた轟音はこの地をすでに飛び去り、静まり返った現場には別の音が集まっていた。


「もっと下がってください」

「ビル崩壊の原因はわかったのですか?」

「まだ調査中です。お答えできません」


 警察、消防、マスコミ。警察はビルの崩壊現場を己が領地のように線を引き、マスコミはそれを侵略するように乗り出す。


 明け方に崩れ去ったビルは、天円区の行政地区に建てられている途中だった。足場が解体されて、外観があらわにされたのは最近だ。今は、内装工事の真っ最中だった。そして、二ヶ月後のオープンに向けて準備が進められる予定となっていた。


 図書館、市民センター、屋内運動施設などの公共サービスと、誘致した民間飲食店が入り、新しく人々の憩いの場になる計画だった。


 だが、それは今、無惨にも瓦礫の山と化していた。開業前のビルということもあり、負傷者はいないと見られている。だが、警察と消防は万が一を考慮し、瓦礫の山に被害者がいないかと捜索していたのだった。


 このビルの建設は、を勝ち抜けた株式会社アドミラル建設が請け負っていた。多くの下請け企業を従えている、まさに艦隊を率いる提督アドミラルのような大企業だ。


 ビルが崩壊した理由がどうであろうと、アドミラル建設にとってはマスコミをはじめ様々な組織から糾弾される未来が予想された。


 国内株式市場は、このビル崩壊に素直に反応。アドミラル建設だけでなく、関連企業の株価もストップ安になるほどの急落だった。


 ある投資家たちは、まるでそれが起こることを確信しているかのように、株の空売りを設定していた。多くの金が彼らの懐を潤したのだった。


 *


 女神ヶ丘市月葉区つきのはくの一画にある豪邸。この地区は高級住宅街として知られている。


「勝つとわかっている勝負は良いものだな。シミターとアメジストには、よくやったと伝えてくれ」


 広いリビングで、大きなテレビの前でソファに座っている三十代後半くらいの男が、電話の相手に言った。そして、通話を切り、携帯端末をジャケットの胸ポケットにしまう。テレビ画面では、ワイドショーでビル崩壊の特集をやっている。


「それから、君たちにもお礼を言わないとだね。いつもありがとう」


 部屋の傍らには、長い黒髪に黒いワンピース姿の若い女性が立っていた。そして隣には彼女とそっくりな顔をした銀髪で白いワンピースを着た女性もいる。双子のような二人は手を繋いだまま、揃った声で男に返す。


「どういたしまして。『ノーブル・ギャンブル』に、さらなる栄光を」

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