第四章      伍


 


 月娟ユエジュアンの言説に感銘を受けなければ、その人は相当な捻くれ者に違いない。有言実行の実績を持った彼女に文句を言える者は家族とて一人も現れなかった。月娟が言うならば本当にそうなるのだろうと伯父や伯母、曽祖父や曽祖母、従兄弟も皆信じていた。その中には彼女を止めても無駄だという諦念が混じっているのもまた事実ではあったのだが、わざわざ口にする粗忽な者は藍氏を名乗る資格はない。実力は認めざるを得ないのだから。


「あなたが宗主になって、民を外に出さずに職人や道士を育てる方向にしてくれたら早いんだけれどねぇ。あなたがその気にならないとどうにもならないだろう。本当に説得は無理なのかい」


 暮鷹ムーインは彼の母と父にそういったことを耳打ちされていた。暮鷹は両親にさえ無言を貫き、本心を晒さなかった。答える必要性を感じなかったのだ。無骨な手でできるのは字図の書写や術の分解図作りや解析であり、不器用な精神で成せるのは多言による不和を避け、妻に負担をかけないようにすることだった。


 暮鷹は怪しい水を飲んでから一日経って体内の違和感に気づいた。次に渡されたものを飲み込まず口に含むと、部屋で吐き出して分析をした。結果ははっきりとしないものだったが、これがただの水でないことは明らかだった。道士の使う術とも単なる霊力とも言えない奇妙な力が、水の清浄を濁らせて全く別の性質に変化させていた。


 どの分類、系統にも該当しない力がこの世にあるなどあり得ない。万物は一つの輪で繋がり互いに作用して盛衰するもの。その輪から外れているというのは法則に反している。

 しかしそれが現に存在し、体内に含ませてしまっている。となれば、どんな副作用が起こってもおかしくない。


 これはいけないと暮鷹は思い立った。先に妻と子にはこっそりとあれを飲まぬようにと忠告した。やる事が明確になれば彼は達成するまでやめられない質である。

 部屋にユェンがいなかった。また地下に入れられているのだ。暮鷹は手が空くと淵に道術を教える習慣があった。ついでによく言って聞かせようと門を通る。


 香炉の前には黒衣の受宣者が立っていた。体躯がいい割に葬列にふらりと混ざった鬼のように影が薄い。客のくせに部屋にいるかと思えば忽然と消えて、忘れた頃にまた現れる。

 卦体が悪い。


 受宣者は花を供えるまでもなく、ただ腰の後ろで手を組んで佇んでいる。


「あんたは見かけによらず、警戒心が強いようだ。いや、探究心や好奇心と言った方が近しいか。なんにせよ術を分析できる道士がいるなんて驚きだ。いいことを学んだ」

「息子に、飲ませたか」

「安心するといい。生魄は穢さない。あの子どもはあのまま地下で大人しくしててもらおう」


 受宣者は踵から下ろして音もなく歩く。


「宇宙は鶏卵の如く。混沌が殻を割り産声を上げる。殻は柔肌を切り裂き翼となり、嘴は天を突き上げ、足は大地をならした」


 両手を広げて懐かしむように目を細める。


「やがて巨鳥は果て、頭の先から爪先に至る全てが自然に還り、秩序となった」


 左の眼は梟で覆われている。鮮やかな紐を彼は後ろに払う。

 人ならざる者も神話を諳んじるらしい。


「地帝もまた鴟梟しきょうが最期に産み落とした卵の一つ。小さな宇宙。内なる混沌。これほど再誕に相応しいものはない。人々が母なる鴟梟の存在を思い出した時、真に崇めるべきものは何かを知るだろう」


 暮鷹は祓うべきか否か逡巡した。だが、すぐに不可能だと結論づけた。


「そう。やめた方がいい。あんたの勘は正しいよ」


 すれ違いざまに腕に巻き付けられた泥が暮鷹を牽制する。


「僕たちの道を阻めば、先に滅びるのはあんたらだ」


 とんでもない化け物を、招き入れてしまった。

 暮鷹がそう思った頃には、もう手遅れだった。


 いつどこで受宣者が見張っているかもわからない。もしかしたら四六時中動きを監視されている可能性もある。水を調べたことがばれていたのだから、暮鷹は気を抜いた生活ができなくなった。


 怪しい水について書き留めたものは全部なくなっていた。誰かに告げ口しようものならあの化け物は何をしでかすか、考えただけでも恐ろしい。暮鷹は懊悩した。手も足も出ない。その間にも墨のように濁った水は家族の体内に蓄積していく。


 日に日に周りの人間は様子をおかしくしていった。まず暮鷹を支持する声が急に高まった。宗主やその家族を追い出すべきだという主張も出た。民を厳しく罰して大人しくさせろと怒る人も。暮鷹の両親は黒い水を狂ったように飲み、吐き出してはまた求め、呷る度に皮膚が割れて乾燥していった。


 暮鷹はそれを見ていることしかできなかった。


「忌み子を民衆に晒すなど藍家の恥ぞ!」

流蝶リウディエを使者に立てろ。あの子ならば民も私たちも安心して任せられる」

「待って。よく考えて。流蝶は十六よ。時期は過ぎてる。それにあの子は時期宗主という大事な役目がある。その為の勉強に集中させるべきよ」


 一族の一変した主張に月娟は抵抗した。


「お願いだからよく聞いて。そして思い出して。地帝が選んだのはあくまでユェンよ。それは揺るがぬ事実で誰にも覆せるものではないわ。地帝が選んだのだからそれが真実であり、正しいことなの。もう少し淵を信じてあげて。これからの成長を見守ってあげましょう」


「今度の祭りは流蝶を御輿に担ごう。民の反応を見ればどうするべきかあなたにもわかるはずだ」


 話が通じなくなっている。皆人が変わったように月娟を無視して物事を進めるようになった。

 無駄なのだ。暮鷹は早々に黒い水の恐ろしさを知った。泥を一定以上溜めると思考が乗っ取られてしまう。受宣者のいいように操られるのだ。


 暮鷹は一度飲んで以来泥水を口にしなかった。受宣者は特に何も言わず静観していた。彼が飲まなくとも不都合はないのか、それとも何か理由があってのことなのか。子どもたちにも必要以上に飲ませようとはしていない。目的には道士がいるのかもしれない。受宣者たちは新しい遊びを覚える子どものように様々な量を家族に飲ませた。


 いつか出るだろうと暮鷹は覚悟していた。

 最初の犠牲者は、暮鷹の母だった。

 母は部屋の隅で枯れ木となって静かに横たわっていた。なんともあっけない死だった。森で人知れず土に還る植物よろしく、全身の水分は失われ、肌は土に分解され、倒れた衝撃か頭蓋骨が露になっていた。


 気に留める者はおらず、己を見失った人々は浴びるように泥を飲む。


「ねぇやめて、可哀想よ! 泣いているじゃない。閉じ込めないであげて。お願いだから!」


 暮鷹の父が淵を地下に放り込む。

 流蝶は必死に止めようと泣き喚くが、背後から伸びた手が彼女の口を塞ぐ。

 端からどろりとした液体が垂れる。

 流蝶は途端に脱力し、大人しくなった。


「あまり飲ませ過ぎるなよ。使い道はあるんだから」

「ああ、はいはい。でもさぁ、みんなを泥づけにした方が早いと思うんだけど」

「伝説によると、人間の希求に応えて地帝が浮上するらしいから、衰えた土地と、困窮する人々は時間をかけて用意しなければならない。面倒だが、再誕を迎えるには極端な手を使うのは賢明ではない」


 黒衣の受宣者は正殿に上がり、幼い子どもの煩わしい鳴き声から遠ざかる。

 門からゆらりと近づく影があった。

 

「私の……私の子はどこ。どこに行ったの」


 月娟は手先を痙攣させながら宙を探り、裸足のまま歩いていた。彼女の弱った精神は泥によって食い潰された。粘り強く生きる利発な彼女の面影はどこにもなく、自分の夫や子どもの区別もつかなくなっている。彼女は黒い髪を振り乱して錯乱する。


「いないのよ。どうして。誰が連れて行ったの。暮鷹はどうして探してくれないの。どうしてみんな私を無視するの!」


 そろそろいいか。と黒衣の受宣者が懐に手を入れる。

 泥を滴らせて長い紐が躍り出た。月娟の胴体に巻きつき彼らの元に引き寄せる。


「私はただ! 幸せになりたかっただけなのよ!」


 月娟は怒り狂って暴れるが、もがけばもがくほど縛めとなって泥は彼女の体を覆い尽くそうとする。金切り声が泥に埋没する。


 泡のように、軽く弾けて黒衣が欠けた。

「──ん?」


 欠けた箇所から黒煙が立ち上る。受宣者は修復しようとしたが、立て続けに体に穴が空き下半身が崩れる。


 布を被った受宣者が門の柱に隠れている人物を見つける。

「ほら、やっぱさぁ、飲ませた方がよかったんだよ」


 暮鷹が地面に符を放った。


「わわわっ」

 静かにあぶくが地面からそそり立ち、受宣者は避けたがぼろ布の先が縮れた。


「面白い術を使うな。おまけに元の形が形成しにくい。これは、僕らを拒絶するということか?」


 暮鷹は門を跨いだ。彼が抵抗の意志を示したのは初めてだった。


「害を成すのならば、許さん」


 蓬髪を揺らして受宣者は笑った。


「あんたの害の境目はどこにあるんだ」

「妻をどうする気か、答えろ」

「ああ、これ、ね」


 月娟は体を仰け反らせ、口から大量の泥を流し込まれていた。気絶しているのか、白目を向いて時おり吐き出しては身体中を真っ黒に染めている。


「少し癖があるが彼女の陰の氣は地帝を誘導するのにちょうどいい。少し飲み過ぎてしまったようだから僕が調整してやるんだ」


 ならぬ。


 暮鷹は灯の下に立ち、自身の影に宝石の粉を落とした。


 呪禁を唱えると暮鷹の影が離れた。暗がりに消えると受宣者が行方を突き止める前に泥が暴れ出す。


「何だ、これは」

「うわぁすごい! こんな反応初めてじゃない?」


 月娟から泥が飛び散っていく。蓬髪の受宣者は縄を巻き直しどうにか彼女の中に入ろうとする。

 だがただの影のはずのものが彼女と泥の間に入り込むと、どんなに速く泥を流しても反発を起こしてしまう。空気をまとったかのように泥を弾いていく。縄が暴れて辺りを汚す。確かに初めての反応だ、と受宣者は寧ろ興味深そうに笑う。


 暮鷹は符に粉を乗せて息を吹きかける。粉は泡となり奴らの眼前で弾ける。荒く削られた石の細かな粒が突き刺さって服を、体を溶かす。


 加えて暮鷹は腕に札を貼ると、普段の様子とはかけ離れた俊敏な動きで殴りかかった。風圧が泥を吹き飛ばす。蓬髪頭の急所を徹底的に狙い、連撃を繰り出し、顔面がわからなくなるまで潰した。


「おお、おお!」


 ぼろ布の受宣者にも同じものを食らわせる。辺り一面が、泥の海と化した。

 どこから泥でどこから影なのか、区別がつかない。


「お父様?」


 地下の階段から流蝶が顔を出す。小刻みに震えている。


「どうしたの」


 暮鷹は肩で息をしながら月娟をうつ伏せに抱える。背中を叩いて泥を吐かす。上手く吐かない。立ち上がって腹部を突き上げてどうにか吐かせる。額、両腕、両脚裏、そして腹部に霊符を貼る。


「待って」


 急いで家へ駆け込む。月娟の呼吸が浅い。氣が見たことのない歪み方で体内を掻き回している。鎮静させなければ。魂魄に悪影響が出かねない。そうすれば彼女の命も危うくなる。


 扉を破って正房に入る。寝台に寝かせて彼の机から持ち得る限りの札を全身に貼り付ける。やけになっているのではない。氣を整えるもの、魂魄を保護するもの、呼吸をしやすくするもの、痛みを和らげるもの、あやゆる効能の札を適切な位置に貼り、時間を稼ぐ。


 流蝶の悲鳴に暮鷹は振り向いた。

 視界が泥で塗り潰される。


「なるほど。あんたの陰の氣もなかなか優れている。これは予想外だったな。僕らは道術とはなんたるかを知らないから、いい経験だった」


 暮鷹は、泥が口の中に入り、食堂を通り、ものすごい速さで胃を貫いていくのを感じた。

 氣が大いに乱れて逆流する。

 全身が痙攣して意識がばらばらに切り刻まれる。

 内臓が大きく波打つ。


「お父様! お父様ぁ!」


 蓬髪の受宣者は暮鷹の中に収まった。

 泥だらけの札を、震える指で暮鷹が拾い上げる。

 その中にあったある一枚を体に貼った。

 どっと暮鷹の背中が跳ね上がる。

 みぞおちを囲うように数枚貼り付ける。札が溶けて消え、腹部が跳ね上がる。

 彼が貼ったのは、鬼をはじめとした邪な存在を封じる霊符である。

 彼が編み出した独自の霊符の中の最高傑作だ。


 これで、表に出られまい。


『その代わりあんたは自らの自由を生贄にしたわけだな』


 暮鷹は無言で月娟を運ぶ。


『いいぞ。あんたは僕の傀儡くぐつとなり、一生をかけて血を分けた一族を虐げるんだ』


 暮鷹は諦めなかった。月娟を生かすために、意識を失わないよう舌を噛んで理性を保ち、氣を修復させる。

 やり遂げるのだ。必ず。


『あんたの手で地宵郷を滅ぼすんだ』


 暮鷹の術への執着はきっとこのためにあったのだ。

 彼は物置きに月娟を寝かせ、箱の中からいくつか霊符を取り出し、全て彼女に貼った。入り口の布、上下左右に別の霊符を貼り、呪禁を唱える。


「流蝶。消してここに触れてはならない。角の一つも剥がしてはならない。母親はもういないことにしろ」

「いやよ。そんな。お父様まで、おかしくなってしまったの?」

「姉上、父上はもう駄目だ。行こう」


 子墨ズーモウに連れられた流蝶の啜り泣く声が、静かになった屋敷に取り残される。

 暮鷹はようやく役目を終え、意識を手放した。



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