第二章 八卦見外道 壹
昼に差し掛かり、不在を怪しまれないよう
「本気なのか。わざわざ表に出るって」
「あたしは毎日お香を立てて天帝に挨拶してたよ。『天仙書』には徳性は天帝から与えられたものであり、何物も揺るがすことはないって書いてある。つまり生まれ持った徳は失われない。積み重ねれば重ねるほど強くなれる!」
「だからって、部屋でやるのは駄目なのかよ! さすがにまずいって」
「あなたまで信仰心を手放したの? 畏敬の念を持ち直すところから始めないとね。敬虔な心は行動に現れる。だから、早く、動いて!」
まさか事始めに相引きをする羽目になろうとは暁蕾は予想していなかった。二人は唸り声を上げながら一世一代の大勝負を繰り広げていた。お参りをしたことがない淵のために作法を教えてやろうと暁蕾が手招いたものの、まだ抵抗感があるのか拒否されてしまい、如何に祖霊の加護が霊力増幅に関与するかを説いた後、どうにか戸口まで引きずったが、彼も頑なでなかなか出ようとしない。通交どころの話ではなかった。
「おまっ、力強いな」
「舐めないでよね。青銅の壺を抱えながら足場を飛び回ったあたしに勝てると思う⁉︎」
「なぁそれ修行法として正しいのか? とんでもないことさせられてるぞ。書にそんなことが明記されてたら怖い!」
彼は彼で全力で引っ張られているのに、さっきから微動だにしない。上背はうっかり竹と混生した笹のようだが、その印象を上回る馬力である。術だけでなく身体能力をあげる訓練もしているのかもしれない。
負けん気の血が騒いで拮抗した状態から抜け出せずにいると、背後から声がする。
「おーおー嬢ちゃん、逢い引きにしちゃちと過激すぎないかい」
「どぅわ⁉︎」
暁蕾は驚いて手を離してしまう。支えを失った淵は奥へ吹っ飛んだ。
降りてくる音も気配も感じなかった。若干の恐怖を覚えつつ目を凝らすと、ぼろを着た男が仁王立ちで傍に立っていた。
「違うんですたけのこを取り合っていただけで彼は外に出てません」
「がはは! こりゃ随分と可愛らしい。お前さんどこから来たんだい。うちの邑にはこんな明るい太陽の肌をした娘はないぞー?」
「あ、師匠。今日は鍛練の日じゃないだろ」
師匠。淵が術を教わっているという、あの師匠か。
「見えるんですか? 蝋燭もないのに」
「見えるも何も、わしらは灯りがなくとも葦を編むし石を砕いて塗料を作る。お前さんやっぱり地上のもんだろ」
淵が頭を潜らせ、ぶっきらぼうに言う。
「何しに来たんだよ」
「ちょいと相談に乗ってもらいたい。わしらだけでどうにかしようと思ってたんだが素人では敵わん。助言だけでももらいたくて来ちまった」
「漁獲量がまた減ったとか?」
「いや。奇妙な易者がわしらの邑をうろついててな」
「月読みの占い師のことか? うちに易者はいないだろ」
「それが易者なんだ。銭を沈めて浮かんできた裏表で陰陽を見て、木彫りの人形を連れて、わけのわからん民謡を唄う」
淵は訝しむ。
「誰かが占いを始めたってことか?」
「うちにはあんなやつはいなかった。なのにいつの間にかそこにいたんだ。昔から住んでたみたいに馴染んでいたから気づけなくてな、だが最近になってふと思ったんだ。あいつは誰なんだ、ってな。変なことを言ってるのはわかってる。でも、そういうことなんだ」
暁蕾と淵はそれぞれ首を捻り、視線を交わして互いの認識を確かめる。
一度で理解するにはどちらにとっても難しかった。
◐ ◐ ◐
地帝を祀る宗廟はほとんどが石材で作られ、塗装によって立体的な装飾が施された特殊な様式である。藍氏の邸宅が立派なのは言うまでもないが、石工による門の重厚な佇まいや藍色の濃淡で表現された屋根の波、柱の鱗模様などの壮麗な装飾は、天晨郷では真似できない芸術的な感性が宿っている。
門から奥は魚の群れが描かれた岩壁がそびえ、半円形に穴が開いた洞穴になっている。暁蕾は建物の外の景色がほとんど見えていなかったが、暗闇に目が慣れてからはぼんやりと輪郭を認識できるまでになった。
「わしも考え込んでついご挨拶もなしに通り過ぎちまったからなぁ。礼くらいきちんとしないとなぁ」
「そうそう。偉大なる地帝に失礼をするわけにはいかないよね」
「ね〜」
洞穴前の御影石が敷かれた場所で、
入り口付近にある大きな香炉の後ろから、恨めしそうな双眼が覗いた。
「覚えておくからな師匠」
やれるもんならな、と快活な笑いが開けた空間に響く。少し意地が悪かっただろうかと暁蕾は心配した。正殿に行くため、話を聞く代わりに淵に礼儀を教えてくれないかと交渉したのは暁蕾なのだ。大事な弟子のためならばと快く彼を地上に引き上げてくれたのはよかったが、さすが師匠というところか、片手で一本釣りを決めたのは見事だった。ただ単純な力比べに負けたのを悔やんでか淵は明らかに口数が減ってしまった。
「いやあ、淵様の才を認めてくれる人がいるなんて嬉しいねぇ。わしは仙術の知識があっても他はさっぱりだから、通交云々がこれほど大事とは知らなかった。ちょうど淵様の力を伸ばすにはどうしたらいいかずっと悩んでたんだ。嬢ちゃんがいて助かったなぁ」
蛍火の入った網袋が歩くのに不便ない程度に辺りを照らし、暁蕾は白の顔をようやく視認できた。溌剌とした声からは想像できない優しげな目をしている。中年と言ってもしわが少なく肌に張りがあり、実年齢より若く見えた。
「花を持って来るべきだったが仕方ない。代わりに水を汲んで枯れた花を抜いておこう」
「どうしてお花?」
「地宵郷じゃ火はあまり使わないんだ。周りがほれ、水ばっかだろ。湿気が多いもんだから線香の保管が難しくてな、そこで茎の長い花を代わりに挿すってわけだ」
香炉に干からびて茶色く濁っているものが垂れ下がっているが、あれはお花だったのだ。屋敷では普通に使われていたから、特別な管理がないところで置いておくのは難しいのだろう。
「謎の易者が邑に住みついてたってことだけど、心当たりがないっていうのは本当なの? 誰もその人を知らないのにいつの間にか溶け込んでるなんてことがあるの?」
「不気味だろ? 鬼界が近いと言っても霊的な現象はこの四十六年間一度も見たことがない。あいつも鬼の類ではなさそうなんだがな、わしの考えでは何かしらの邪な術を使ってわしらの目を誤魔化しているんじゃなかろうかと」
「他の人たちは気づいていないんだよね。どうして白さんだけ違和感に気づいたの?」
「先月の満月の頃に、甕に入れていた水を全部入れ替えてお清めの儀式をしたんだ。自然の水は絶え間なく流れるもんだが、それを甕に収めて留めちまうと淀んで、濁っちまう。だからひと月ごとに新しく水を汲んで地帝の加護を祈るんだ。新鮮な水を一杯飲んだら、これまた美味くて、頭が冴え渡るようだった。半月の頃にやつがひょっこり現れた。それまでどこにいたのか、あの時初めて疑問に思ったんだ」
「水か」
呟いた淵は香炉を抱えて運んでいるところだった。たぷたぷと液体の跳ね返る音が聞こえる。まさか直接汲んだのだろうか。動かすのも苦労がいる大きさだというのに本人は石ころを移動させるかのような澄まし顔である。暁蕾でもあの馬鹿力は出ない。一体どうやって鍛えたのか、水の汲み方はそれでいいのか気になることはいっぱい浮かんだが、話が続いたせいで萎んで消えた。
「でも師匠、そういうのは姉上か父上に報告した方が早いんじゃないか。外部の人間が侵入しているとなれば調査くらいしてくれるはずだ。文を書くのが面倒だったのか?」
穏やかだった白の目つきが真面目な色に変わる。
「淵様。わしは手間を省くためにあなたを利用したりなどせん。必要だからこうして話してる」
淵は思い至ったように足を止め、香炉を慎重に戻してから白の傍に来た。
「水を見てほしいのか」
満足そうに白が頷く。
「淀んだ水と清めた水では何か違いがあるのかもしれん。これはまだ新鮮なやつなんだが比べてもらうにはまずこっちからだ」
と、腰に下げていた小さな水筒を掲げた。淵は片手をお椀型に丸めて差し出す。
「少し飲ませてくれ」
注がれた少量の水を吸って、味を確かめるように口を動かす。
暁蕾の目にはよくある水にしか映らなかったが、どんな手法で見るのか尋ねたい気持ちを飲み込んで見守る。
「普通の山水だけど、お清めが効いてるんだろうな。硬い味の中に冷たい氷みたいな、鋭くて繊細なものが若干混じってる」
淵は懐から紙片を取り出して白に渡した。霊符かと思いきや、文字も図も描かれていない白紙だった。次は両手に水が注がれ、紙片が浸される。
すると、中央からじわりと斑点が浮かんだ。斑点が連なり、円となって黒点ができる。曲線を描きながら放射状に文字が広がり、緩やかな菱形がそれらを囲った。
揺らしていないのに、何もないところから波紋が生じる。いくつも重なっては止み、また連続して波が生まれる。淵は水面に神経を注いで観察していた。
手のひらの中で忙しなく視線が動く。読み取ろうとしているのかと暁蕾は勘づいた。だが淵の表情はだんだんと強張って、困惑と動揺が入り混じったものに変わる。
水が急に跳ね上がった。
「うわ‼︎」
手を離してしまい、石畳の上に黒いシミができる。札は白紙に戻り、僅かな光がてらりと縁をなぞった。
「どうした。大丈夫か」
「何が見えたの」
淵はしばらく両手を捉えたまま呆然と立ち尽くしていた。指の間から不規則に滴り落ちる雫が、彼が声を発するまでの合間の時間を麻痺させる。
「ただの、水だ。そうだよな」
「ああ。甕から入れて来た普通の水だ」
「邪気も呪いもない無害なものだ。そこまでは読めた。地帝の加護はないはずなのに、何で、こ、声が混ざって、勝手に読んでいないものが頭に」
暁蕾は落ち着かせるように手首を握り、顔を覗き込む。
「ねえ、今やったのは
障りないよう語りかけても、淵の顔は晴れなかった。何者かに殴られたかのような傷心ぶりだった。かける言葉もなく暁蕾は閉口する。あるいは先に答えが浮かんでしまうのを避けたかったのかもしれない。静寂が重い垂れ幕となって三人を囲った。
あまりの気まずさに、耐えかねた白がついに言った。
「何を、見た?」
一拍遅れて、淵は喉を震わせながら息を吸う。
「崩壊していた。廟も、家も、民もみんな、崩れた岩に下敷きになって」
「洞窟のどこかが陥没するのか」
「揺れていた。視界いっぱいに何もかもが。全部落ちて、それで」
「婉曲的な表現か?」
「たぶん、そのままの意味だよ」
白は飛び出るほど目を丸くして暁蕾の方を向く。
「氾濫した水月橋には月が映っていなかった。声は、終わりの時が近いって」
「新月か」
「それっていつ?」
「十二日後だ」
天災の宣託が、降ったのだ。
──早く。
「早く知らせないと」
「ありえない。何かの間違いだ。通交もしたことがないのにいきなり接触できるはずがない。声も景色も断続的で鮮明とは言えなかった。そのまま受け取るべきじゃない。解釈だ。そう、夢占いと一緒で抽象化された現実の物事が極端な現象にすり替えられただけで、実際は全く違うものだったりするんじゃないか」
「でも淵は、これは地帝からの言葉だと直感したんだよね」
「けど、それは」
「あたしも宣託を受け取ったことがあるからわかる。いつもの形式から外れた状態で突発的に干渉が起きて、言葉や風景が頭に流れ込んで来る。媒介を通じて直接接触して来るから曖昧さが取り払われて情報が明確になるの。ましてや地帝文字でもないなら、それは預言になる」
「どうして言い切れるんだ」
「月が太陽を喰らう時、厄災来たれり──と天帝に言われてあたしはここに来た。次に事が起こるのは地宵郷だと知ったのも、預言があったから」
白が叫びそうになりながら大きく開いた口を塞ぐ。もごもごと苦しそうに後退り、二人を交互に見る。
「今なら間に合う。地宵郷を救うよ。淵」
◐ ◐ ◐
その日暁蕾が客室に戻ると、枕元に置いていた本が忽然と消えていた。
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