【一章完結】蓬莱三國演義—夙夜廻流列伝—

犬童那々丸

第一幕 永訣の深淵

第一章 暘谷使者 壹



 天帝はお怒りだ。


 だからこれは、己に課せられた試練なのだ。


 暁蕾シャオレイは昏い密林の中でぽつねんと立ち尽くしている。

 気が遠くなるほど長い間走り続けていた。町を二つ抜け、一本の川を渡り、山を越えた先の谷をどこまでも下った。それでも辿り着くことはできない。もっと深いところへ行かなければと、止まることなく駆けて行った先に──入り口があるはずだった。


 ──どうしてどこにもないの……!


 声にならない叫びがヒュッと掠れた音となって消える。喉が渇いてしかたなかった。最後に水を飲んだのは山を越える前日の夜。あれからどのくらい経っただろう。暁蕾は何も覚えていない。肩で息をするのもやっとで、一歩でも動いてしまえば全身が砕けてしまいそうだった。鼓動が脳まで響いてまともに思考もできない。視界に映るものすら判別がつかなくなっている。


 もはや夢を見ているのではないかというくらい、何もかもが、曖昧だ。


 背後に気配があった。暁蕾は朦朧としながらも本能的に危険を察知して、逃げようとする。


 あれは〝鬼〟だ。まだ残党がうろついていたらしい。

 本当は止まるべきではなかったのだ。けれど足が限界に達していた。これ以上歩いたら冗談抜きでもげてしまう。それでも身を隠さなければと暁蕾は切り開かれた岩陰にむりやり体を傾けた。


 すると、急に強い引力が下から吹き出し、彼女を真っ暗な穴へと吸い込んだ。



  ◐ ◐ ◐




「わぁ‼︎」


 びくりと震え、暁蕾は飛び起きた。

 酷く汗をかいている。あれだけ走って身体中の水分を放出したというのにまだ出るものがあったとは。けれど相変わらず喉は乾燥していて空っぽの胃が気持ち悪い。


「大丈夫か」


 驚いて声のする方を見ると、中腰で手拭いを持った青年がこちらの様子を伺っていた。突然の起床に不意を突かれたのか、中途半端に絞ったそれを持て余している。湿気た薄暗い部屋には不相応な小綺麗な身なりだった。澄んだ川を思わせる青碧に染まった衣、雑な結い方の割によく梳かれた浅い麦色の長髪。血管が見えるほど薄い肌がぼんやりとした光に青白く浮かび上がっている。

 

 暁蕾は首を回らせ、そして天を仰いだ。むき出しの岩壁に囲まれたやや楕円形の空間。四方に立つ藍の柱がつる植物に覆われ、遥か上で蓋をするように絡み合っている。かなり高い天井のようだが陽の光は通っていない。なのに明るく感じるのはなぜだろう。

 黒い床板の上には机と茣蓙、小さな飾り棚と暁蕾が寝ていた布団だけだ。部屋にしては簡素すぎるし、寝室にしては空気が澱んでいて閉鎖的だ。

 意識が途切れる直前、確かに穴に落ちたはずだった。けれどここは洞穴とは思えないほど視界が開けている。背中が打ち付けられたような痛みがあるが、疲労で怠くなっているせいでどこもかしこも同じような感覚だ。


「ここ、どこなの」


 手拭いを絞り切って渡そうとしていた青年はぎこちなく答える。


「俺の部屋だ。一体どうやって降りてきたんだ? 外から人が来るなんて滅多にないのに」

「外? ここは穴の……」


 吐き気を催し暁蕾は口を覆った。空っぽの体内からは当然吐けるものはなく、口内に酸っぱい胃液が広がる。青年は急いでお椀に水を汲んで暁蕾に促した。

 飢えに駆られて一気に飲み干すと、今度は気管に入ってむせる。


「ゆっくり飲め。いくらでもあるから」


 手拭いを受け取り、暁蕾は改めて尋ねた。


「穴の中って、あなたは地下に住んでるの? もしかして地人?」

「ああ。地中で暮らすのは俺たちの一族しかいないからな」

「じゃあ、ここが地宵郷ちしょうごう……!」


 天地開闢から現在に至るまで、人々は天と地、そして地中に花弁のように広がる三つの郷に分かれて暮らしていた。天空に浮かぶ天晨郷てんしんごう、五つの郡が集う羅瓣郷らべんごう、深淵に根を広げる地宵郷ちしょうごう。総じて三國郷さんごくきょうと呼ばれるこの國は、聯合国れんごうこくとして古代から廻り続ける陰陽五行の気流を守っていた。


 言いながらも暁蕾は信じられなかった。落ちていった先が己の探し求めていた場所だったとは、まるで神話のような巡り合わせである。これまでの苦労は何だったのかというくらいあっけなかったが、天帝が答えてくれたのだとしたら全て吉兆だったのだろう。

 見放されたと思っていたのに。


「地の都へようこそ、仙女さん」

「え?」

「仙女さんは雲から足を滑らせて落っこちたのか? だったら運が悪かったな。ここは地宵郷の中でもかなり深いところなんだ。地上に上がるのも一苦労だぞ」

「あたし、仙女じゃないんだけど」


 控えめに訴えると、青年は心底意外そうな顔で、


「だって急に天から降って来て、あんな高さから落ちても平気だなんて天女以外ありえないだろ」


 なんてことを言う。


「平気なわけないでしょ。全身打撲だらけで痛くてしょうがないんだから。もう何日も食べてないせいで気持ち悪くて、ここの空気も吸ってたら変になりそう」


 彼女の反応に青年は肩を落とす。


「……そうか。でもなかなか起きなかったから、もしかしたら話もできないんじゃないかと思ってたんだ。目が覚めてよかったよ」

「あたし、どのくらい寝てた?」

「確か月が出る前の時に落ちて来て、今はもう見えなくなっているからほぼ一晩中寝ていたことになるな」


 暁蕾は思案した。


「いやもちろん、何もしてないからな、誓って!」

 問われてもいないのに青年は慌てて三本指を立てた。問題はそこではない。


「助けてくれてありがとう」

 立ち上がろうと動いたが、少し体を浮かせただけで目眩に襲われた。思ったように力が入らなくなっている。


「無理するな。もう少しゆっくりしていけよ。その、事故じゃないなら、わざわざこんな深いところまで来たのには何か理由があるんだろ。良かったら聞かせてくれよ。力になれるかもしれない」


 記憶が正しければ事故だったような気もするが、今の暁蕾には否定する気力も残っていない。


「俺のことはユェンて呼んでくれ。お前の名前は?」

叶暁蕾イェシャオレイ天晨郷てんしんごうから、来たの」


 その言葉が予想外だったのか、淵は吃った。


「天晨郷⁉︎ 天人が地上に降りてくるなんて三國聯盟以来じゃないか! それに、いや、まさか、あの叶氏か? 叶氏のご息女が一人で来たのか? 何があって」


 淵が戸惑うのも当然である。叶氏といえば天晨郷を治め、最も多くの天仙を輩出する一族そのひとだ。天空に住まう彼らは天人と呼ばれ、特別体が軽く跳躍に富んだしなやかな足を持っている。その力は万里の道をも越えられるとされているるが、暁蕾に言わせれば故郷に万里ほどの道のりすらないからやるせない。長子として生まれた彼女の名は三大世家から広く知れ渡っているから、彼もすぐに合点がいったのだろう。


「それは、言えない。一刻を争う事態なの。ラン氏の宗主に早く会わないと」


 淵が口を開きかけたところで、石階段の上にある背の低い戸が鳴った。二人の間に緊張が走る。


「まずい。隠れてくれ」


 隠れるところなどどこにあるのか。と思った矢先、暁蕾はぐるりと布団にくるまわれた。反射的に手足を折り畳んで巻物のように隅に転がされる。それぞればれてはならない理由を抱えた結果の、無言の結託だった。


「朝餉でございます」

「まだ書き終えていないからいつもより遅めに来てくれ」


 短いやり取りで戸は閉じられ、淵はすぐに降りて来る。手には大きな器を持っている。


「もう出ていいぞ。お粥しかあげられないけど、空きっ腹にはちょうどいい」

「あたしにくれるの? あなたの分なんでしょ」

「いつもおかわりしてるからいくら食べてもばれないぞ。お腹空いてるんだろ?」


 目の前に差し出され、暁蕾は唾を飲んだ。飢餓状態になると口にできそうなものなら雑草ですら美味しそうに見えてしまう。お粥という手料理ともなればもはやご馳走である。宮廷の豪華な晩餐に並んでいても差し支えないだろう。


 暁蕾は料理に釘付けになっていた。匙を受け取ると震えながらそっとすくい、一口食べる。うるち米に近しい米類の少し硬めで不思議な歯触り。温かなとろみが喉を潤し、不安で凝り固まった心が和らいだ。淵がその様子を見て微笑む。


「しばらくは人は来ないから、ゆっくり食べてくれ」


 ちびちびと食べ進めている間に淵は机で墨を擦っていた。硯の横には長方形の紙片が数枚並べられている。


「それって、お札?」

「毎日五枚は作るようにしてるんだ」

「あなた道士だったの? 清貧な暮らしをしているのはそういうこと?」

「いや、道士というか、まぁ修行中の身というのは間違いないな。霊力が安定しないせいで効果のほとんどない紙切れしか作れないんだ。十枚作って一枚うまくいけば上々ってところだな」


 歯切れの悪い回答だ。暁蕾はつるりとした器の縁をなぞる。


「正式に任命された暘谷使者なら、飯を食いながらでも書けるんじゃないか?」


 にやりとした淵に向かって、暁蕾は匙を棒のように構えて振る。

 

「お札の書写は調息による精神統一と霊力に合った行気の法で時間をかけて注ぎ込むのが基本。食べ物なんかにかまけてたら霊力が途切れちゃうよ」

「その行気っていうのがよくわからないんだよなぁ。師匠からもらった仙書がひと昔前のものでさ、文体が古くて読み解くのが大変なんだ」

「どんな本なの?」


 それは、と淵は流し目に柱の一つを見る。そこには大量の書物や巻物が乱雑に積み上がっている。雪崩を起こしたあとのような光景だ。気まずそうな表情に暁蕾はさっと青くなる。


「あたし、まさかあの上に落ちたの? 術や経典なんて古書ばかりだし折れたり破れたりしたら仙境的損失だよ! 早く点検しないと」


 別段不満がないのか、慌てて腰を上げようとする暁蕾に淵はまあまあと落ち着かせる。


「いいんだ。師匠のものを書写したやつだから墨汁で汚したって誰も怒らない。本よりかお前の方が丈夫みたいだしな。修行を経た仙人が不老不死になるのは嘘じゃないみたいだ」


 自分とそう変わらない歳だろうに、隠棲した老人のような懐の深さである。暁蕾はますます彼が何者なのか気になった。身なりだけ見れば地方の豪族なのだが、生活は寂れた祠廟で励む修士で不自然なほどちぐはぐだ。


「使者になったって仙人になれるのはまだ先だよ。仙術も完璧に習得できたわけじゃないから……」


 暘谷使者は郷の代表として与えられた、仙人を目指すものにとって大変名誉のある称号だ。笄礼けいれいの儀式は二年前の出来事だが、暁蕾はなんだか遠い昔のことのように思えた。故郷にいた頃より、地上に落ちてからの時間があまりにも過酷だったからか記憶が朧げになっている。


「でも霊符の作り方くらいなら教えられる。用事を全部終わらせた後なら片付けも手伝えるから、少しだけ待っててくれない?」


 淵は顎を撫でた。言いにくそうにゆっくりと言葉を紡ぐ。


「その、宗主に会うっていうのは、たぶん難しいと思うんだ」

「どうして?」


 硯に流れていく黒い液体が、清浄な水を濁らせる。墨がどんどん擦り減っていく。


「四年前に病で倒れてしまったらしくて、それから恢復かいふくしたという話も悪化したという話も聞いていないから、必ず会える状況とは言えない、と思う」

「病気? 月娟ユエジュアン様が? 四年も前なんて、そんな報せ聞いたことない」


 聯盟を組んだ三國郷は治政に関わることから祭礼などの行事まで事細かに情報を共有するよう義務づけられている。一郷を治める宗主が臥せたとなれば直ちに代理を立てその旨が書かれた文書が届けられるはずだ。なのに一報すらなかったということは、よほど深刻な出来事に見舞われたのではないだろうか。

 たとえば、そう。


「最近、自然災害とか不作とか、凶兆を感じる何かが起こったりしなかった?」

「特にないな。魚が年々少なくなってると師匠が愚痴を言ってたけど、食えなくなるほどではないし」


 否定されても、暁蕾は嫌な予感がしていた。どちらにせよ、急いでこちらの持つ報せを伝えなければならない。気を抜いて粥を啜っている自分がなんだかもどかしくなった。

 残りをかき込み、今度こそ足に力を入れて立ち上がる。


「やっぱり行かなきゃ。お粥美味しかった、ありがとう」

「待て、表から出たら俺の部屋から来たってばれる。ちゃんと教えるから人がいないか確認を──」


 一歩、二歩、歩を進めるごとに、違和感が募る。

 こんなに足運びが拙いことがあるだろうか。

 常人にはありえない距離を何日もかけて走って来た。実際足を痛めてしまった自覚はある。筋肉も悲鳴を上げている。だがこの感覚は──……この引力は肉体的な疲労から来る重みとは全く違うものだ。


 けれどそれが何なのかわからない。幽鬼を始めあらゆる霊的な存在を祓ってきた暁蕾でも感じたことのない感触。歩けば歩くほど床下に蠢く黒々とした何かが足裏を引っ張って歩行を妨げる。真っ直ぐ歩けているのかわからなくなる。薄寒さに汗が冷える。


「おい、叶暁蕾?」


 そうだ。

 暁蕾は無意識に懐に手を入れていた。


「うわ‼︎」


 突如、床の隙間という隙間から泥の流体が飛び出し、部屋中を旋回し始めた。淵が飛び退いて尻餅をつく。泥は壁にぶつかり、弾けながら大きな塊となっていく。

 暁蕾は霊符を放ち、二本の指を素早く向けてびたりと宙に止めた。


「『有為万象』!」

 

 瞬間、淵に迫っていた泥が分散した。そこには車輪に似た光の輪が何物も寄せ付けない勢いで回転している。霊符が呪文に呼応し、変化したのだ。

 淵の前に滑り込み、さらに輪を大きくさせて盾とする。

 しかし、分散した粒が紐状になって隙間をかい潜る。


「こっち!」


 彼の繊細な衣を思い切り引いて壁づたいに逃げる。逃げて、ついに戸の前まで来ると淵が性急に叩く。


「誰か! 誰か開けてくれ!」


 泥の動きは衰えることなく執拗にこちらを狙って攻撃を繰り返し、休む暇もなく暁蕾は弾き続けた。長年の修行による冷静な動きとは裏腹に内心は混乱していた。見たことのない邪な物体。しかも明らかな敵意を持って淵を襲おうとしている。なぜ今。なぜこの時に。


「どうしたの淵」


 戸が引かれた。奥には若い女が立っている。二人が倒れるようにして飛び出すと小さな悲鳴を上げる。


「姉上も逃げろ!」

「何が、」

「いいから!」


 巻き込まれる形で女も急勾配の階段を駆け登る。本来の洞窟に相応しい暗闇に踏み違えそうになりながら、異常に長い坂の上を必死に目指す。けれどどうしても平面時より速さに劣る。

 追いつかれるのは目に見えていた。助けられるのは仙術を扱える道士、暘谷使者の暁蕾だけだ。決してその尊き地位と名誉を損なわせるようなことがあってはならない。彼女は常に称号を掲げる価値がある人間か試されている。

 故に油断すれば命取りだ。


 暁蕾はほとんど呼吸を忘れていた。

 平地に出るとそこは香炉の置かれた拝殿だった。息を切らしながら淵は門まで一気に走り抜ける。


「あれは何?」

「とりあえず父上に知らせてくれ」


 女に先に行かせようとしたところで、淵は気づく。

 暁蕾が来ていない。


 振り向いた途端、疾風が香炉の向こう、彼が棲家としていた廟の地下から吹きすさび、桃色の花が飛び出した。土や泥で汚れた桃色の絹衣、小動物の耳のように括られた髪、小柄な体躯に小さい足、そして川よりも鮮烈で熱い温度を持った、まだ彼の知らない天色の瞳。暁蕾である。

 彼女は宙を舞っていた。見上げるほど高い門を花弁の如く軽やかに越え、おどろおどろしい流体が追随している。


 どういうわけか、防御に回っている間に泥は暁蕾に狙いを変えた。他の人が狙われるより大分ましだ。半年も身一つで己を守ってきたのだから。戦うには体は軽い方がいい。


 廟の先は一本道になっていて、桟橋のような足場が灯の列に挟まれて浮かび上がっている。僅かな反射から水に囲まれているとわかった。さらに行くと右に回り込む形で道が折れている。大きな屋敷の壁が見えた。そろそろ始末が必要だ。


「何者だ!」


 水気の多い奇妙な音につられたのか、槍を持った女人が現れた。飛び回る暁蕾と黒い塊を見るや否や絶叫し、人を呼んだ。人が人を呼び、狭い道が塞がれ、騒ぎは大きくなる。暁蕾は止まらざるを得なくなる。


「離れて、危ない!」


 声は泥の中に消える。全身が闇に包まれて手足の自由が奪われ、暗幕が目の前に垂れ下がり、最後の一筋の光も、ぷっつりと消えてしまった。


「叶暁蕾! くそ」


 追いついた淵が霊符を投げる。唯一成功した一枚に賭けて呪文を唱えた。だが効果を発動させる前に泥に溶かされてしまう。粗悪品では意味がない。氣も読めない半端者では。


「朝っぱらから喧しいぞ。何事だ」


 突然の怒声にその場にいた全員が萎縮する。

 人集りを割って現れたのは、地宵郷が宗主代理、藍暮鷹ランムーインだった。





























  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る