第一幕 悲報(2)
「よかった! まにあったー!」
安堵の声をあげて、七音は自室の椅子へと飛び乗った。広めの座面を活かして両膝を立てて、ペンギン型のクッションごと胸に抱える。風呂あがりの身体は、ホカホカと温かかい。その熱を逃さないようにカーディガンを羽織りながら、七音はウキウキとつぶやいた。
「お風呂の順番がズレちゃったときは、もうダメかと思ったよ。めちゃくちゃ急いでよかったー。開幕から見れるのいいなぁ、嬉しいなぁ」
高校生になっても使用継続中の学習机には、勉強に活かすことを名目に買ってもらった、低スペックのノートパソコンが置いてある。その電源を入れ、七音は湿ったままの甘茶色の髪を耳にかけた。こちらは自分の小遣いを貯めて買った、値段のわりに評判のいいヘッドフォンを装着する。そうして、鼻歌混じりにネットを立ちあげた。迷うことなく、目当ての動画共有プラットフォームへと飛ぶ。ちらりと、彼女は現在時刻へ目を走らせた。
「あと数分、か」
クリーム色のワッフル生地のパジャマの下、七音はほぼない胸を高鳴らせた。ある配信ページを、クリックする。祈るような気持ちで、彼女はそのまま開幕を待った。
「今日は機材トラブルとか、そうでなくってもいきなりの中止とかないよね……お願いします。久しぶりなんだよ。どうか無事に始まって……」
やがて、時間となった。パッと画面が切り替わる。シンプルなモノトーンの空間が表示された。廃墟の中のコンサートホールを意識したという画像を背景に、とある少女のアバターの上半身が映される。長く艶やかな黒髪に、切れ長の青目が美しい。白い肌には、肩出しのシックなドレスがよく似合っていた。だが、有名な配信者達と比較すれば、地味な装いに思える。彼女の全身からは、現実寄りなデザインへのこだわりがうかがえた。その選択の結果は、よく言えば上品で、悪く言えばキャラクター性に欠けている。
少しの沈黙の後、画面の少女はゆっくりと声を押しだした。
『えっと、繋がって、ますか? どうも、お久しぶりです。長く、配信ができなくて、ごめんなさい。ちょっと、疲れちゃってて……覚えてる人、いるかな? 前に、もっと聞いてもらえる歌姫を目指したいって言ったのに、ダメだよね、これじゃ……えっと、今日からは、ちゃんと復活しましたので、これからは、もっと頑張ります』
「きった! 繋がってます! わー、本当にお久しぶりだねえ。助かる! 『神薙』の新曲お披露目生配信、助かるよお」
口元を押さえて、七音は興奮を並べたてていく。大きな目をひとしきりうるませた後、彼女は慌ててキーボードを叩いた。言葉を選びながらも素早くコメントを打ちこんでいく。
ななねこ〈おつかんなぎー! 配信ずっと、本当に、楽しみに待ってました!
ななねこ〈疲れてるところを、ファンのためにありがとう!
七音の喜びの声が、画面上を流れていく。だが、それだけだ。
遅れて、他にもあいさつの言葉が投げかけられた。だが、人気配信者と比較すれば、その数は圧倒的に少ない。そもそも同接者自体が、悲しくなるほどにわずかしかいなかった。
しばらく沈黙したあと、神薙は小さく微笑んだ。
『【ななねこ】さん、【山下キヨシ】さん、【lulu】さん、ありがとう……特に【ななねこ】さんはいつも来てくれるし、真っ先に声をかけてくれますね。他にも配信中の歌い手さんは多いのに……いつも、私を選んでくれて嬉しい、です』
「うああああああっ、推しに認知されてるうううっ! 投げ銭も全然できてないのに! 私のほうこそ嬉しいよおおお。ううっ、神薙は優しいねえ。大好き、大好き」
パタパタと、七音は足を動かした。縞柄のルームソックスで宙を叩く。あまり騒いではならなかった。母に知られれば、くだらないものを見るなと怒鳴りつけられることだろう。
だが、胸の奥から湧きあがる喜びを、七音は押さえきることができなかった。
「もう一年半、か……最初から応援できてよかった」
なにを隠そう、七音こと『ななねこ』は、神薙のファン第一号だ。チャンネル登録についても、堂々の一番手を誇っている。欠かさず情報をチェックし、更新に一喜一憂している人間は、SNSでも他には見かけなかった。そう、神薙は決して有名な歌い手ではない。
こうして生配信まで訪れる視聴者も少なければ、投稿動画の再生数も軒並み奮わなかった。オリジナルどころか、有名曲の『歌ってみた』まで伸び悩んでいる始末だ。
その理由は、七音の目から見ても明らかだった。
神薙は投稿速度が遅い。
バズった曲がでても、彼女はすぐには歌おうとしなかった。と言うよりも『歌えない』、らしい。神薙は己の中で歌詞や旋律を噛み砕き、理解し、昇華するまでに時間がかかるタイプだった。その間に、聞かれやすい上位は、有名な歌い手による投稿で埋まってしまう。
更に、神薙は他の歌い手や作曲者とのコラボも行おうとはしなかった。PVの作りも地味だ。SNSの運用についても堅苦しく、事務的で、身も蓋もなく言えばヘタクソだった。
だが、七音は、そんな神薙のことが大好きだ。
配信者としては致命的なほどの不器用さは、真摯さや奥深しさ、更には臆病とも呼べる優しさのせいなのだろう。そう、好意的に捉えている。だが、七音は画面上の神薙しか知らなかった。思い描いている『繊細な少女像』は、将来的には全否定される可能性も高い。
同時に、たとえ想像のすべてが誤りであったとしても、七音には神薙を好きでいる自信があった。ファン第一号としての愛情と熱意は伊達ではない。
そんな七音の真剣な視線の先で、神薙はふたたび口を開く。
『それじゃあ、雑談は苦手なので……いつもみたいに、さっそく歌っていきましょうか……えっと、そうだ。新曲は、これもいつもですが、最後になります。皆さん、どうか楽しんでいってください。じゃあ一曲目は……【人間みたいな】」
ななねこ〈待ってました! 大好きな曲です!
すかさず、七音はコメントを打ちこんだ。そして、ハシッとヘッドフォンに手を当てる。目を閉じて、彼女は曲に集中した。まず、淡々としたピアノの音が流れだす。
雨音にも似た高音の連なりに、神薙の声が重ねられ始めた。
『なんでどうして この寂しさはこの悲しみは あるのだろう』
『人間みたいな』は、神薙のオリジナル曲の中で最も再生数が多く、評価も高い一本だ。
全体的なリズムは繊細でありながら、奥底には強い感情を秘めた曲である。
厚みをもたせて歌いあげるのには、かなりの実力を必要とした。だが、神薙は切実に重く、それでいて透明に、社会への苦悩と世界への疑問を紡ぎあげていく。その声には、聴く者の感情を揺さぶり、掻き乱すだけの力があった。夢中になって、七音は歌に没頭する。
そう、七音が神薙を『推す』一番の理由はこれだった。
神薙は独自の感性を持つと共に卓越して歌が上手い。高い技術を持っている。だが、なによりも感情の乗せかた、メッセージや荒削りの想いを生々しく伝えることに秀でていた。
「…………本当に、綺麗だなあ」
ぽつりと、七音はつぶやいた。Arielの堂々とした低音も魅力的ではある。だが、彼女の歌には、豪華かつ惜しみない加工技術によって飾られている部分が存在した。
それが悪いわけではない。ライブではなく、くりかえし再生される音源に対して最高の調整をほどこすことは、行って当然の工夫だろう。だが、その虚飾の王冠めいた華やかさより、神薙の生々しくも痛々しさのある歌声のほうが、七音の胸には刺さっていた。はじめて耳にした時から、心臓を貫かれ続けている。以来、神薙という存在は七音の宝物だ。
(あなたを見つけられたことを奇跡みたいに思えたんだ)
まるで砂の海から、青い宝石を探しだせたかのように。
『だから君には応えて欲しい 透明なこの空の下 灰色の僕らの 見失ったホントの形』
歌は終盤に差しかかる。不意に、背景の音が消えた。
暗闇にも似た静けさの中に、神薙の声だけがひびく。
『人間みたいな ヒトにもなれない 人間みたいな』
そこで、歌は終わった。七音は『ななねこ』として、惜しみなく拍手の顔文字を打ちこむ。いつのまにか、同接者の数は増えていた。他にも、賞賛のコメントが複数流れていく。
ぺこりと、神薙は頭をさげた。そのまま、彼女は次の歌へ入っていく。
視聴者を楽しませる会話術や遊びが、神薙の配信には皆無だ。せっかく直接言葉を届けられる機会だというのに、己のキャラクターを示しそびれている。最近では歌い手にもアイドル性が求められるため、そこも人気の出ない理由のひとつだろう。だが、七音はそんな欠点は気にしなかった。神薙には、この歌声があれば充分だ。
いつか、彼女はArielを超える歌姫になる。
そう、七音は神薙の歌唱力を盲信していた。
恵まれた才能には、祝福があるべきだ。
そう、七音は誰より強く考えてもいた。
神薙はこのままでは決してバズれない。
その事実からは、目を背け続けていた。
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