破壊の矢

 かつては、人々から聖母と呼ばれた存在。――マリア。


 優しくて、母性に満ち溢れていて、美しい女性。

 これらは、である。

 信仰が集団化し、宗教となれば事実と異なることが流布されるため、正しく伝わっていないのだ。


 マリアというのは、確かに人々から愛されていた。

 未だに根強い信仰だってある。

 一方で、数多の人間と使族達に畏怖され、彼女に対しては絶対に嘘を吐かないように、自ら心掛けていた。


 その理由の一つ。


「あらあら……。ブナの悲鳴が聞こえたわ……」


 現在、マリアはピディ村にいる。

 グレル湖からピディ村までの約1000kmの距離が開いている。

 声など聞こえるはずがない。

 何もできるはずがない。


 ――


「大丈夫。わたしが守ってあげるからね。……ブナ」


 元々、大陸の至る所には、謎の蜘蛛の巣が張り巡らされている。

 でも、人間には糸としての認識がない。

 それはなぜかというと、張り巡らされた糸は、鋼鉄で作られた硬いものだったからだ。


 この糸を通じ、振動が死なずに伝わっていく。

 一度声を発せば、ブルブルと震えて、糸が意思を持ったように、同じ振動を他の場所に伝えていく。

 結果、どこにいても、マリアの耳に届くのだ。


 ちなみに、糸はマリアの意思に従っているため、普段は震える事がない。


 現在は別だ。


 マリアはピディ村の沿岸に立ち、側に生えている木を加工していた。

 木は二本。

 木と木の間には、大きな感覚が空いている。

 木は元から丈夫だが、そのまま使うのでは、心もとない。


 木に自分の糸を巻いて補強し、さらに木と木の間には分厚い糸を垂らしていた。


 鋼鉄の糸が何重にも絡まり、極限まで絞り込まれた何か。

 これに他の木を伐採して、一本丸々を同じように自分の糸で補強。

 硬く、硬く、加工された木は、10mにも達する巨大な矢となった。


「待っててねぇ」


 規格外のスリングショット。

 矢は大木。(※加工済み)

 矢で言うところの『矢筈やはず』という部位を垂らした糸にくっつけ、マリアが巨矢を持って、後ろに下がっていく。


 ギリギリと撓る音が鳴り響き、二本の木は大きく反り返った。


 矢筈を摘まんで、ブナの困惑する声に耳を傾けながら、角度を調整。

 限界まで下がったマリアの手首には、骨格の形が変わるほど、太い筋が浮き彫りになっている。


 体中の細かい筋肉まで膨れ上がり、血管が破裂するのではないかと怖くなるほど、肥大化していく。


 空には雲一つない晴天が広がっている。

 穏やかな風景にはカモメが飛び回っていた。


「それっ」


 ――カモメが――消えた。


 矢を放った直後に、遅れて突風が起きる。

 穏やかな細波が荒れ狂い、白波が立つ。

 周辺の木々は、倒れる寸前まで風圧で反り返り、マリアから見て崖を挟んだ向こう側の景色は平坦になった。


 ドドドド……。

 聞いたことのない環境音が大気にこだました。

 雷鳴のようにうるさい音が徐々に静まっていくと、ようやくサラサラとした葉っぱの落ちる音が辺りから聞こえてくる。


 マリアは耳を澄ませて、糸の伝える情報に集中した。

 聞こえてくるのは、ブナの可愛らしい声。

 牙が剥き出しの口元を押さえ、マリアは「ハァ……」と、何とも言えない吐息を漏らした。


「――命中ね。あれが相手では、ブナの身が危ないもの。後の事は、あの方に任せましょう」


 マリアは崖の側に座り、ブナのいる方を眺めた。


 恐ろしい凶弾である。

 最初に物体が届く。

 次に、音が鳴る。

 最後は、周辺に異常をきたす現象が起こる。


 数秒の間に、この三段階が起きていた。


 音速を超えた矢は、人が確認できるわけがない。

 ましてや、同じ使者からも警戒されるマリアである。

 まさしく、こういった狩人の一面を持つことから、警戒され、忌避されている。


 何もない一点を見つめる蜘蛛の頭は、表情こそないが、まるで子を思う母のような穏やかさが表れていた。

 あるいは、愛しい恋人を思う乙女の純情さが前面に出ている。


 紫色の眼球には、遥か上空からヒラヒラと落ちてきた一枚の羽が映っていた。

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