第三十三話『ときには路傍の石の様に-don’t mind-』

「うーん、何だったかしら? 大切な事だったような、全然重要じゃなかった様な……」

 壁面にツタが這って幻想的な雰囲気のする、昔の映画かアニメで見る様な、おまじないの品々を取り扱う小さな小間物屋があった。

 店の中には、飾り気の無いシンプルな黒のイブニングドレス風の姿をしたすみを垂らした様な黒髪が印象的な店主と、どこか刃物の様な印象を覚える詰襟姿つめえりすがたの従業員の青年とが居た。

 閑古鳥かんこどりが鳴く店内で、店主の女性はレジカウンターに突っ伏しながらブツブツとまとまらない考えを口に出していた。

「らしくないですね。でも、アイネさんは大切な事は絶対に忘れないと、俺はそう思います。だから、そのお客さんはどうでもいい事だったんだと思いますよ」

 そんなだらしのない姿勢でいる店主に、従業員の青年ははげます様な口調で告げた。

「ええ、分かるわ。でも思い出せそうな事をどうしても思い出せない……それってすごく気持ち悪い事じゃない?」

 店主の女性は突っ伏した姿勢のまま、軽く眉間みけんしわを寄せ、従業員の方へ顔を向けてそう返した。

「それは分かりますけれども……」

「まあいっか! 思い出せないって事はどうでもいい事に違いないわ!」

 店主の女性は先程までとはまるで正反対の口調で、両手を挙げて伸びをした。

その声には欺瞞ぎまん妥協だきょうの色は無く、これ以降彼女がこの事に関心を寄せる事は無かった。


 * * *


「誰からも存在に気づかれなくなるバッジですか?」

「ええ、このバッジを身に着けてスイッチを付けると、例え目の前に居ても相手がそこに居ると認識出来なくなるわ」

 今は昨日、くだんの小間物屋に客が訪れていた。

 客の年齢は十代初頭程の少年で、店主の女性は客が関心を抱いた商品―透明のビニールに包まれた、人差し指程の大きさの青いバッジ―の説明をしているところだ。

「ただし、存在に気が付かなくなるだけ。例えば今この場に泥棒が現れて、このバッジを盗んで身に着けたとしたら、泥棒がバッジを盗んだ事は分かるし泥棒がまだ店内にひそんでいるかもと警戒けいかいを続けるでしょう」

 店主の女性の説明を聞き、客の少年は黙り込んだ。

 別にその説明が嘘か真かと考えているのではない、その話の内容がうまく理解出来ていないのだ。

「言い方を変えると、そうね……誰からも見えないし気づかれない透明人間になるのではなく、名探偵や凄腕すごうでのおまわりさんが居たとしたら、姿形は見えないが犯人はここに居る筈だ! ってかんで存在に気づかれる事はあるかも知れないってところかしら」

「なるほど!」

 客の少年は店主の女性の例えがに落ちた様に、くもっていた顔に光が差した。

「でもそれ本当なんですか? そんな魔法みたいなバッジ、信じられないです。ただのオモチャにしか見えない」

 客の少年の言葉を聞き、店主の女性はクスクスと小さく笑う。

「それなら、こうしましょう。私はこれをただの魔法のオモチャとして売り、あなたはこれが子供こどもだましだと思ったら返品に来てください。けれど、もしもすごい商品だと納得したら別の商品も買いに、不満も満足も無かったら何も無し。それでどうかしら?」


 結局、少年はバッジを購入こうにゅうして小間物屋を後にした。小学生の小遣こづかいでも安価と呼べるほどに安かった。

 軽い足取りの中、少年の思考は今しがた買ったバッジを中心に回っていた。

 あの店主の説明が本当ならば、一見このバッジは何をしても許される完全犯罪の免罪符めんざいふの様にも感じられた。

 しかし店主が釘を刺すかの様に口にした、泥棒がどうの名探偵がどうのと言う話は、彼にも一種の忠告だと理解が出来た。

(このバッジがあったら、例えば鉄道のタダ乗りも出来るだろうか? いや、機械がブザーを鳴らし、警察けいさつがやって来てさわぎになる。あの女の人は、そう言う事を注意していたに違いない)

(このバッジが本当だとして、職員室に勝手に出入りして悪戯いたずらは出来るだろうか? 騒ぎにならない様なちょっとした悪さなら、成功しそうだ!)

(そうだ! 今から学校へ行って、このバッジを着けてコピー機をいじってやろう。あの女の人の説明が本当なら、先生方は誰かが悪戯したと気づくけど、僕と言う犯人には気づかない筈だ、これが良い!)

 少年はそう考えつくや否や、包みからバッジを取り出し、勲章でも着ける様に服に取り付けてボタンを押した。

 少年は自分で自分の左胸を見て、中々かっこいいデザインのバッジだと再確認した。

(さあ、話が本当なら、これで僕は透明人間だ。誰か僕の実験台になりたい奴は居ないか!)

 しかし間が悪い事に、少年の視界には人っ子一人居ない。夕方時、この通りは人通りが少ないのだ。

 それなら仕方が無いと、少年は公園の方へと向かう。

 あの公園はスポーツや運動に興じる利用者が多く、夜でもランニングをしている人が居るし、この時刻なら球技をしている同年代が必ずいる筈だ。

(さて、透明人間になったかもしれないけど、一体どうしたものか? 何かボールで遊んでいる知り合いでも居てくれたら、ヒョイっとボールを取りあげて見せるのが良いんだけどな)

 少年の脳裏のうりには、同級生がボールを取りあげられるが、何が起こったか分からず怪訝けげんな表情を浮かべる様子が見えた。

 もしこちらが見えているなら、ふざけずにボールを返せと言われるだろうから、透明人間の実験台には適切だ。

 その様な理路整然りろせいぜんした論理的思考をしていた少年だが、思考実験に夢中で周囲の様子が見えていなかった。

 具体的に言うと、前方から飛んで来た硬球こうきゅうの存在に気が付かなかった。

 結果、少年は頭部に硬球を受けて、その場で気を失って倒れた。しかしその事に気づく者は誰も居なかった。

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