雨音ワルツ

中翠雪乃

第1話 はじまり

 八月の、強い西日さえも当たらぬニューヨークの小さなアパートの一室で、古びたドアが強くノックされたのは今から四時間前の、十六時を半ば過ぎた頃のことだ。

 この部屋を訪ねて来るのは年老いた画廊のオーナーしかいない。

 この時もそう思い、誰なのか確かめもせずドアを開けたビルキス・クライシスは、そこで実に十数年ぶりの父との再会を果たした。

「元気にしていたか、ビルキス」父はそう言って、濃い菫色の瞳を目一杯見開き、言葉も無く立ち尽くす息子の肩を軽く叩くと、「引っ越してなくて良かった」と優しく微笑んだ。

 ビルキスは信じられなかった。

 数年前に出した転居はがきを手に、イギリスから父自ら自分を訪ねて来た事に。

 名を呼び、身体に触れ、笑みを見せてくれるその何もかもがビルキスには信じられず、これは夢なのではないかとさえ思った。あまりに強く望んできたが故に、とうとう夢にまで見てしまったのだと――。

 だがそれは覚める事なく、父はビルキスを幸福で戸惑わせ続けた。

 父は無機質な室内灯のもと、イーゼルにセットされた描きかけの絵や、その向かいに置かれた簡素な作りの木製の花台、セラドングリーンの丸い花器に、そこだけ眩しく群生のように生けられた鮮烈なマリーゴールドと向日葵の夏花、その花台の足もとに整然と立てかけられた真白いキャンバスに、天板に油絵具が端然と並べられた古びた小さなチェストなど――、四方に三歩ほど歩けばすべて事足りる狭さの、だが几帳面なビルキスの性格が窺い知れる整然と整理されたその室内にひと通り目を通すと、緊張した面持ちで小さなキッチンに向かったビルキスに「もてなしなら結構」と断りを告げ、「それよりもどうだろう、これからわたしと食事でも」と続けた。時計の針は十七時少し前だった。

 ビルキスはひどく驚いたが、もちろん異論は無く、冷えた手で後ろに束ねていた髪を急ぎ解くと、肩下まである銀糸の髪を、その女性のような顔立ちを隠すために下ろした。そして滅多に着ないスーツを取り出し、暗く沈んだ色のグレーのスーツに、紺のネクタイ、黒縁にうっすらとグレーがかったレンズの、少し野暮ったいビジネスマン風の伊達眼鏡も忘れずにかけた。身につけた色はどれも絶妙なまでにビルキスの白い肌に影を落とし、顔色は悪く、地味な印象を与えたが、ビルキスはそれで良かった。父もきっとこれを望んでいるだろうと、ビルキスにはわかっていたからだ。

 アパートを出るとかつての工業地帯の寂れた街並みには不釣り合いな黒光りのハイヤーが一台、二人が出てくるのを待っていた。「ホテルのディナーを予約してあるんだ」父はそう言って、はじめてビルキスを自分の隣に座らせた。

 車はゆるやかに走り出した。

 角を幾つも曲がっては、車は廃れた町並みから次第にマンハッタンの超高層ビル群の中へと入って行く。夕刻とはいえまだ強くまぶしい陽が照り、高層ビルの窓ガラスにきつく跳ね返る黄色い光に、ビルキスは幾度も目を細めた。

 道中、父はイギリスでの近況を自信気に話して聞かせた。それはビルキスと年の離れた弟の話題から、イギリスで手広く事業を営んでいるクライシス一族の最近のビジネスの話題まで。「ロンドン市内にある瀟洒なホテルを買収したんだ」父はそう言って、今度はホテル業にも参入しようと考えているとも話した。「順調でなによりです」そう応えたビルキスに、父は満足気に静かに頷いた。

 それは、久し振りに顔を合わせた親子なら当たり前にある時間に思えた。だが父がビルキスに家族や一族の話をしてくれたのはこれが初めての事で、食事を共にしたことも、それどころか目さえも合わせてもらえなかった幼少期の淋しさは夢だったのではないか――、そう思わせるほど、暖かな時間が流れていた。

 車が静かに停車したのは、マンハッタン一格式高いとして有名な、高級ホテルだった。

 ビルキスが車を下りてふり返ると、父はまだ車中で、「ああそうだ」と胸の内ポケットから携帯電話を取りだすと、外で待つビルキスに「ひとつ大事な電話を入れるのを忘れていた。ほんの数分で済むだろうから、先に行っててくれ」と告げた。そう待たせはしないからと。

 ビルキスは父の言葉に頷くと、ホテルマンに案内され、最上階にあるメインダイニングへと向かった。モネやルノワールをはじめとする印象派の絵画が飾られたエレガントなロビーを抜けて、途中、バーの前でホテルマンからその利用を問われたが、アルコールを好まないビルキスには食前酒となるカクテルも必要なく、そのまま父が予約したメインダイニングへとエレベーターで向かった。

 地上四十六階にあるメインダイニング『ザ・タイム』は近頃改装されたばかりなのか、白と黒、そして光沢あるシルバーを基調とした内装はクラシカルでありながらも現代的で、ニューヨークらしい、都会的なエレガンスに満ちていた。

「本日はこちらのお席を用意いたしております」

 そう案内された席は外と面する壁が巨大な一枚ガラスの嵌め込み窓になったすぐそばで、座れば美しいゴールドイエローから濃いシナモンレッドへと移りゆく、何とも幻想的な心打たれる夏の夕焼けが視界いっぱいに広がり、少し目を落とせば空との境界が分からぬほど一面が赤々と染まったアッパー湾が見渡せた。その中に佇むリバティ島の自由の女神像も遮るものなく望むことができ、この席は、広いメインダイニングの中でも特別な一席のようだった。

 店内には自分以外に客の姿はまだなく、はやく来すぎただろうか、やはり下のバーで父を待つべきだったろうかと、ビルキスは落ち着かないながらも窓の外の刻一刻と変わりゆく空の景色に心を奪われながら、静かに父の訪れを待った。このディナーの席において、父との会話はどのようなものになるだろうかと、あれこれと思いを巡らせながら――。

 だが父は、それからいくら待っても、来なかった。

 ディナーの予定など無かったのだと気付いたのは、空が濡羽色に暮れ、はるか下界に色とりどりの灯りが無数に輝き始めた頃、客の誰一人いない広い店内に、その男が幾人もの護衛を従えて、自分の向かいに座った時だった。

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