第7話

 トイが街中に溢れている様子を見て疲れ、キャンパス内でも自由にあちらこちらへ行く様子を見てはまた疲れた月曜の夜。彩矢は部屋でぐったりと倒れ伏して、風呂上がりの濡れた髪を乾かしていた。彩矢を散々やきもきさせたトイはというと、棚に置かれた彩矢のお気に入りである小さなクマのぬいぐるみにちょっかいを出してきゃっきゃしている。

 楽しそうだねぇ……いやまあ、ご機嫌でいてくれるなら楽なんだけどさ。

 友里恵はある程度放っておく事、なんて言っていたけれど、どうしても何をしているかが気になってしまって、目を離せない。小さな子供を連れたお母さんはまさにこんな気分なんだろうか。

 とりとめもなく思考が進むに任せながら、視線を彷徨わせていると、ふとテーブルの上に置かれたカレンダーに目が行った。

 そうだ、明日は火曜だから、バイトの日じゃん。

 彩矢は火水木土曜日に、喫茶ひといきでバイトしている。火曜と木曜は昼から夕方まで。水曜は講義の関係で夕方から夜まで。土曜は昼から夜までだ。

 明日は火曜だから、一限目に出てから、バイト、っと。頭の中のメモに書き込んで、それから気付く。

 昼、つまり昼食時。

 彼が来る。

 ランチの常連の彼は、彩矢がバイトの日はほぼ必ず来てくれている。ってことは、明日、会えるかな。

 ああ、でも……。

 彩矢は、先週までの、つれない態度をとるようになってしまった彼を思い出した。

 また、そっけなくされちゃうのかな。もう、あの優しい笑顔を見られないのかな……。

 テーブルに肘をついてカレンダーを覗き込んでいた彩矢は、再び伏せた腕の中に突っ伏すことになったのだった。

 ぐったりと伏せて、顔も上げなくなってしまった彩矢の様子に気が付いたらしい。好きに遊んでいたトイが、彩矢の元へふわりと飛んでやってきて、まだ少し湿っている髪をおぼつかない手つきでぽんぽん、と撫でてくれる。

 その手と、覗き込んでくる視線からは、大丈夫?とでも言いたげな心配している表情が窺えて、彩矢はきゅうっと切なくも嬉しくなった。これじゃ本当に小さい子供を見るお母さんだ。でもだって、こうやってほんの少しだけでも自分を慮ってくれる事が、こんなに嬉しいなんて。

「あなた、実はイイ子なのね?」

 つん、とお腹をつついてから、頭を優しく撫でると、もちろん!とでも言いたげな顔をしてトイが笑う。

「うん……ありがと。明日も頑張ろっか。」

 トイのもちもちした頬を優しく撫でると、指先から癒されるような感じもしてくる。トイの方も撫でられるのはイヤではなく、むしろ心地よさそうにうっとりとした顔を見せている。

 ふぅん、撫でられるの好き、なのかな。ああ、そういえば、貰った冊子には主人との触れ合いはどんなトイも好むってあったっけ。それと、適度に触れ合いをした方が双方の心のためにも良いともあった気がする。わかる、かも……ぬいぐるみとは違う、やわらかな温もりは悲しみにくれてしまいそうな心を少し持ち直させてくれた。

 常連の彼とのことは、まぁなるようにしかならないだろうし、しょうがないよね。と彩矢は無理矢理気持ちを切り替えて、寝る支度をしたのだった。






 火曜日のランチは、そこそこに繁盛する。いや、バイト先に対してそこそことは少々失礼な物言いだろうか。まぁでも事実なので。

 11時の開店と同時に数席が埋まってゆき、12時ともなればあまり多くないテーブルはほぼ埋まり、空けばすぐに次のお客が来るといううまい具合の回転率だ。

 これくらい忙しい方が、色々考えなくてすむからいいな、と彩矢は思う。なんせ、こちとらトイが見えるようになってまだ三日目なのだ。そこらじゅうにふよふよと浮いている、お客のトイ達が見えるようになってしまって、どうリアクションしたらいいのか、いや未成人に気付かれないようにしなければならないからリアクションをしてはいけないのだけれど、適切な距離感を掴めていないのだから。

 だ、って、こんな、みんな、ちょっと、ねぇ!

 喫茶「ひといき」には常連のおじちゃんおばちゃんが少なからず居る。つまり、顔見知りというか、彩矢とある程度話すようになった人達が沢山で、それだけ彩矢も打ち解けておしゃべりしていた相手が沢山いるという事なのだけれど。

 自分のトイが、あっちのお客と喋り、こっちのお客と喋り、さらには囲まれているだなんて、思いもしないではないか。

「彩矢ちゃん、こっち注文いい?」

「ハーイ!今行きます!」

 今呼ばれたのは、彩矢がバイトを始める前からの常連で、毎日きてはご近所の仲間とお喋りしているおば様だ。

「お待たせしました……っ、す、すみません……。」

 手を振りにこやかに笑う彼女のテーブルへ行くと、彩矢のトイが優し気に笑うおば様のトイにイイ子イイ子と撫でられていて、その様子を見た彩矢はそのあまりの打ち解け具合に驚き、脱力してしまう。

 あなた、どれだけ他の人のトイと仲良しになってるの……。さっきはさっきで、やはりいつもきてくれているおじいちゃんのトイと手をつないでくるくる回っていたし、その前は、他のお客のトイと手を振り合っていた。

 さらに言うなら、店へやってきた直後、おはようございますと声をかけてドアをくぐったら、ひゅんっと何かが彩矢の横を通り過ぎて……何か、ではなく、トイだったのだけれど……飛んで行った先では、店長と美弥子のトイに左右からぎゅーっと抱きつかれている状況と、苦笑する店長たちに見守られている様を目の当たりにして頭を抱えたのだった。

 思い出されたつい数時間前の記憶は置いておくとして、今はおば様の注文だ。ついでにトイの回収もしたいけど……とても優しい微笑みでトイ達の様子を見守ってくれているおば様に、連れていきますとは言い出しにくい。

「ふふ、いいわよぉ。ああ、って事は、彩矢ちゃんやっと式を終えたの?」

「あ、ハイ、日曜にやっと……。まさかこんな風になるだなんて思ってもみなくて……。えっと、なんていうか……世界を見る目が変わりました。」

 彩矢は、撫で繰り回されている自分のトイを見下ろして、ふう、と息をつく。おば様にもその感覚は覚えがあるのか、苦笑されてしまった。しばらくは周囲の人にこんな反応をさせてしまう事になりそうだ。

「そりゃそうよねぇ。こんな風になってるだなんて普通思いもしないもの、ガラっと変わっちゃうわ。」

「本当に……みなさん凄いですね、私まったく気付かなくて。」

「それが、術師さんとの契約だから。意外とぽろっと零しちゃうタイミングもあるのよ。でもね、うまいこと未成人の子達には聞こえなくされてるみたい。彩矢ちゃんもすぐに慣れるわ。さて、この子のことは気にしなくていいから、注文お願いできる。」

「あ!はいそうでした!何になさいますか?」

「それじゃあ、ブレンド一つと、卵サンドのサラダセットを。余りは持って帰りたいわ。お願いね。」

「かしこまりました。少々お待ちください。」

 自分のトイがお客様のテーブルの上でお客様のトイに撫でられているという図はなんというかとても擽ったいのだけど、そのままで良いと言われてしまった上に、トイ達も楽しそうにしているから無理に連れて行くのも忍びなく……仕方なくそのままお願いする事にした。

 カウンターの向こうへ注文を持って行くと、楽しそうな表情を浮かべた店長が彩矢の戻りを待っていた。

「6番テーブルのご注文でーす……ブレンドワン、卵サンドサラダセットワン、お持ち帰りのパックもお願いします。」

「ハイハイ、聞こえてましたよ。」

 彩矢の言葉を聞く前に既にパンと卵の用意をしていた店長は、確かに聞こえてたんだろう。

「彩矢ちゃんはパンお願い。良かったね、みなさん可愛がってくれてて」

 店長の言う、「可愛がってくれて」というのは、言わずもがな、トイの事だろう。

「……そう、ですね。思ったより彼ら自由に過ごしてるんだなって、ちょっと、こう……驚きはかなりありますけど。」

「ははっ、まぁ、最初は誰でもびっくりするさ。でもこれでわかったろう?成人してからじゃないと、接客の仕事をしちゃいけない理由。」

「よぉくわかりました……」

 彩矢と話をしつつも、店長は慣れた様子で卵の味付けを終えて、彩矢がセットしたパンに乗せホットサンドメーカーをセットする。そしてすぐにブレンドの豆を煎り始めた。

「そりゃ、この子達を知らないままじゃ、お客さんとの会話も上手くできないですよね。」

 大人達はみな、トイが見えていて、トイ達がお互いのトイと接触し距離感を測っている事を前提として店員や他の客と距離をとっている。何も知らない未成人がそこに入ると、相手をしてほしくなさそうなお客さんや、自分とは合わない人にも突撃するかもしれない。適切な距離感を測り切れずトラブルになることもあるだろう。

 彩矢がはぁ、と大き目の溜息をついた時、ふわりと珈琲の良い香りが鼻先をかすめた。

「まぁまぁ、彩矢ちゃんも無事成人したんだし、これからはこの子達とうまく付き合って、この店のバイトとしても、上手く立ち回り出来るようになるよ。よろしくね?」

 いつの間にか出来上がったブレンドと卵サンドのセットがトレーの上に用意されていた。店長は彩矢にすっとトレーを差し出しながら言う。その顔は先ほどとは違って、教え導く年長者の表情だった。父のいない彩矢にとっては、その顔をされると弱いポイントだ。

「はーい……がんばります。あ、お客さん。いらっしゃいませ!」

 トレーを手にカウンターを出た所で、カランカランとドアベルの音がした。彩矢は既に染みついた反射で声をかけ、そちらへ笑顔を向けた、のだが。

 手にしていたトレーを落とさなかった事を褒めてほしいと彩矢は心のそこから思った。笑顔だってちゃんとキープしてた、私偉すぎるでしょ。

 新しくやってきたお客は、あの常連の彼だったのだ。今日はいつもより少し遅いな、なんて思いつつ、彼の定位置の席をみるが生憎埋まっている。別の空いてる席へ座ってもらわなければ。

「え、えーと、あちら、奥の空いてるお席へどうぞ!手前失礼しますね!」

 少しどもりながらも、ちゃんと席を案内して、マニュアル通りの声かけも出来てる。よし、大丈夫、私出来てる!

 実際には、意識しています!というのが丸わかりの態度だったので、常連の彼はくすっと笑みを浮かべたけれど、何も言わずに案内されたテーブルへ進んで席についたのだった。

「お待たせしました!ブレンドと卵サンドサラダセットです!ええっと……お持ち帰りにはこちらのパックをお使いください。」

「はぁい、ありがとう彩矢ちゃん。」

 おば様はにこやかに返事をしてくれて、美味しそうねぇと口にしている。よしよし、あとはカウンターに戻るだけ。

 そう思った時だ。そのおば様のトイと遊んでいたはずの自分のトイが消えている事に気が付いた。

「あれっ……?あの、すみません、ウチの子は……」

「え?ああ……うふふ。彩矢ちゃん、あっち」

 見当たらないトイを探して問いかけたおば様が彩矢に指し示してくれたのは、ついさっき来た彼のテーブル。

 そのお歳の割にはすらりとして綺麗な人差し指を追いかけて見た彩矢の視界にはーーーーー


 彼のトイと手と手を取り額を付き合わせて嬉しそうにじゃれる自分のトイがいたのだった。


…………え?


 一番奥まった角にある3番テーブル。そこに座る眼鏡の彼は少し俯き加減で、テーブルの上を見ている。その表情は以前見せてくれたのと同じ笑みを浮かべていた。そして、彼の前にあるテーブルの上には、彼そっくりの眼鏡をかけたトイがいる。

 それはそうだ。誰にでもいると知ったばかりで、そりゃ彼にもトイはいるだろう。

 じゃあ、なぜ。

 自分のトイが、彼のトイとあんなにも親し気に……いや、もう言い換えよう。イチャイチャしているのか。


「あの…………え?」

「うふふ、可愛いわよねぇ。あの子、彼がくるといつもあんなだったわよ?」


 いつも?おば様、今いつもって言いました?


「いつ、も……?」

「ええ。彼の子がよっぽど好きなのねぇ。彩矢ちゃんが裏にいるときでも、彼がきてたらひゅんって飛んできて、ずーっと一緒にいるわよ。」


 待って、待ってほしい。なにそれ、ちょっと待って?

 何か、今、すごく恥ずかしい事を聞いた気がする。


 トイ達が楽しそうにいちゃついているのを見ていた彼が、何かに気が付いたように顔をあげ、彩矢と目があった。

 あー、とも、うん、ともいうような、苦笑を溢した彼は、優しく笑って、それから彩矢に向かって手招きをしてくれた、けれど。


 途端、彩矢は自分の頬が真っ赤になったのを自覚した。

 そして

「っ、て、んちょうスイマセン!裏にいきますっ!!!!」

 有体にいえば、彩矢はその場から逃げ出したのだった。

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