第5話

「はぁ……」


 まだ一日が始まったばかりだというのに、彩矢は憂鬱そうな溜息を溢す。

 その原因は、目の前に浮かぶ、昨日手に入れた、もとい、目に見えるようになったばかりの、トイ、だった。

 まず、目覚めから驚きの連続過ぎた。

 ふにふに、と何者かが自分の頬をつついている感触で目が覚めた彩矢は、一人暮らしのはずなのに他の誰かがいるという感覚に驚いて目が覚め、飛び起きて、勢いあまってベッドから落ち尻もちをついてしまった。そんなに高さの無いベッドだった事と、クッションがあった事が幸いだろうか。

 痛さにうめき声を漏らす彩矢を心配そうに見つめるトイを見て、再び驚き、一瞬にして飛び退り、そののち、昨日の成人の儀で何があったかを思い出して、重い溜息を一つついた。

 そうだった、この子が、昨日から居たんだった。

 昨日から居た、というのは厳密には違って、正確には居たけれど見えなかった、のだけれど、まぁそこは知らなかったし触れなかったからね、とスルー。

 それはそれとして、トイを認識した彩矢は、遅れて鳴り出した目覚まし時計を止めて、朝の身支度をし始めたのだけれど、ここでもまた色々あった。

 今日着る服を決めるにも、クローゼットにかかった服を見ている時に、トイはコレを着ろと言わんばかりに一番のお気に入りで余所行き用の服を引っ張り出してくる。でも、今日は講義があるだけだから、特におめかししなきゃいけない訳じゃない。いつもの、無難なシャツとデニムをひょいっと持ち上げると、トイがあからさまに憤慨したようなリアクションを見せる。でも、それは大事なお気に入りなの今日は着ません、とトイを無視して手に取った服を着始めると、わかりやすーく、拗ねてしまった。

 部屋の真ん中に置いてあるテーブルの上へ降りると、朝食を用意する彩矢に背を向けて座り込んで、まったくこちらを見ない。何も食べないという話だし、といつもの自分のフレークだけ用意して食べ始めるのだけれど、しょんぼりと丸まった背中をこちらにずっと見せられると、それはそれで彩矢の心情に訴えてくるものがある。

 仕方ないなぁ。彩矢は、はぁ、とつきそうになった溜息を噛み殺して立ち上がる。キッチンの棚にしまってある袋の中から、小さな粒を取り出すと、テーブルの前に戻ってきて、背中を向けて座るトイの前方、彼女に見えるようにもってきたモノ、ドライフルーツの粒を置いてあげた。

 ソレを見つけた彼女は、バッとこちらを振り向いたかと思うと、キラキラキラ…という効果音が聞こえそうなほどに瞳を輝かせている。コクリと頷いて見せると、嬉しそうに置かれたドライフルーツを手にして、もぐもぐと食べ始めたのだった。

 昨日、帰ってきてから、貰ったトイに関する説明書きを読んでおいて正解だったかもしれない。そこには、存在維持のためのご飯はいらないけれど、食べられない訳ではない事。また自分の好物がすなわちトイの好物であることが補足説明として書いてあった。

 つまりは、拗ねていじけている時の、ご機嫌取りに有効、と。

 こんな姿をみると、ほんとに子供みたいだなぁ、と思う。小さな小さな、子供のような自分の分身。

 この子が今日からずっと一緒なのかぁ。ま、なるようになるよね。

 この時は、これで済んだのだが。

 まだ彩矢はトイ達への理解が全く追いついていなかったのである。

 なんやかんやして朝食の時間を終え、まだ出るまでに時間があった彩矢は何の気なしにテレビを点けたのだけれど。その画面の先に、トイがいたのである。正確には、画面に映っているインタビューされている街頭の人々のトイが。

 ジャーナリストやアナウンサー達がいるスタジオの映像は、流石に番組の邪魔になってしまうからか、トイらしきものはいなかったけれど、街ゆく人々が映された画面には、ふよふよと浮かぶトイが所せましと、歩く人々と同じ数だけ(当たり前である)居るのである。

 え、まって、これ、つまり、どこの誰のどんなトイでも、画面越しでも、肉眼でも、記録媒体越しでも見えるようになった、って事、なの……?つまりは、私の、この子も、同じように他の成人済みの人達には見えてる訳で……。

 画面の向こうには、トイ達がお隣の友人のトイと楽しそうにきゃっきゃしている映像が映っている。その背後では、男の子のトイが女の子のトイをつついては、煙たがられている様子まで映りこんでいた。

 何をしでかすかわからない子をつれて、世間の人々の間を縫って歩いていく事の恐ろしさを垣間見てしまった。そんな気持ちになり、とても見続けてはいられず、彩矢はテレビを消したのだった。


 こうなった以上は仕方がない。もはやトイが見えないようにはしてくれないらしいし、連れて歩いて、この子が何をするか分からないけれど、それに過剰反応せずに、スルーできるようになるのが、大人になるって事なんだろう、と割り切った彩矢は、それでも重い溜息を吐き出す事を止められないまま、家を出るに至ったのだった。



 行き交う人々(とそのトイ)の間を縫って歩く間、彩矢のトイはあっちへふらふらこっちへふらふらしていた。その度に、他のトイとニコニコ手を振ったり、スルーしたり、少し距離を取ったりしている。そしてそのトイ達の主人を視界にいれた彩矢は、なるほど、と少し納得していた。

 ニコニコ手を振っていたトイのご主人の女性は、彩矢と似た雰囲気の洋服を着ていて、気が合いそうだったし、スルーした相手は可もなく不可もなく。距離を取っていたトイの主人に関しては、服装髪型からして派手目で彩矢には少し近寄りがたい雰囲気をまとっていた。

 ああ、なんて分かりやすい。そして、それは相手にしても同じ事が言える訳で。

 みんなこうやって人間関係を吟味していくのか、と観察していくうちに落ち着いてきた頭で妙に納得してしまった。

 実は、この世界では、成人同士の人間関係トラブルというのは、とても少ない。それはまぁ、トイ達がいるからに他ならないのだけれど、子供達はそんな事は知る由もない。子供のうちは、誰と誰が喧嘩しただの、ダレダレちゃんが怖いとか、まぁそんなトラブルは普通にあったのに、なぜ大人たちはそんなにトラブルにならないんだろう、と彩矢はずっと不思議に思うところがあった。その謎が解けて、腑に落ちた、そんな心持ちでトイを見つめるのだった。


「彩矢ー!おはよ!何してんのこんなとこで」

「ああ、ゆりちゃん、おはよー」


 少し早めにキャンパスに着いた彩矢は、道中の反芻をキャンパスに併設されているカフェで一息つきながら、2時限目の講義の時間を待っていた。

 ゆりちゃんと呼ばれた女子学生は、柔らかい笑顔を纏って彩矢の元へやってきた。


「うーん……あ、そいえばゆりちゃんってもう成人してるんだっけ?」

「私?うん、4月生まれだから成人してるよ……あわかった、この子、の事?」


 ゆりちゃんこと山本友里恵(やまもとゆりえ)は、大学に入ってすぐの新入生説明会で彩矢と意気投合した一番仲の良い友達だ。

 彼女は確か、誕生日が早めだと言っていた気がしたので、それとなく聞くと、彩矢の言いたいことをすぐにわかってくれたらしい。目線と指先だけで、テーブルの上でカップをいじっている彩矢のトイを示していた。そういえばと彩矢も友里恵のトイを探すと、うちの子はココ、と鞄の中で眠るトイを見せてくれた。緩いウェーブがよく似合っている可愛らしいトイが、暖かそうなハンカチに包まれてすやすやと眠っている。

「ねぇ……コレ、どう扱ったら良いの…?」

「どう、と言われても、ねぇ?あたしだって、まだコレとの付き合い1ヶ月半だよ、まだまだわかんないことばっかり。」

「それでも私より先輩じゃん!何かこう、有益なアドバイスが欲しい…」

 確かに、ほんのひと月ほどしか違わない誕生日だし、トイがいる生活もそれくらいしか違わないけれど、でも初日の彩矢とは雲泥の差だろうと、彩矢は藁にも縋る思いでなにか聞けないかと友里恵をじっと見つめてみた。

「んもー、そんなこと言ったって……そうだなぁ、程々にほっとくのが一番、かなぁ。何かあるたびに引っ張られたりこっち見てーってアクションされるんだけど、そうそう見てらんないじゃない?未成人の子達にバレちゃダメだしさ」

「あああ、それ……それもあった……」

 彩矢と友里恵は6月と4月生まれなので、同級生達の中でも成人が早い方だ。まだまだこれから成人の儀をする人達が周囲には沢山いる。けれど、自分たちには彼らのトイも見えている。

 そう、見えてるのよね……。

 てっきり成人した人のトイだけが見えると思っていた彩矢は、キャンパスまでの道中で親子連れとすれ違った時に、お母さんのトイが子供のトイと手をつないでいるのを見て、とてもびっくりしたのだった。

「でもさー、よく考えられてるなーって思わない?」

「なにが?」

 友里恵が彩矢のアイスラテを一口飲みながら言い出す。

「キャンパスがさ、1年生と、2~4年生で別校舎じゃない。カリキュラムの観点からなのかなって思ってたけど、コレって明らかにコレ対策だよね。」

 いつの間にかテーブルの上に座って、2体並んで遊んでいるトイ達をじっと見つめながら、友里恵が前から考えてたんだよねと口にした。

「……言われてみれば。」

「先輩達に聞かずに、自力で勉強しろって事もあるのかなって思ったりしたんだけど、成人すれば、まぁ……わかっちゃうよね。こんなのいきなり見えるようになって、それを知られないようにしろって、難しいわ。」

 友里恵の言葉に彩矢は「ホントだよ」と頷いて返した。

「程々に放っておく、ね……うん、わかった。……はぁ。」

「やだー、重い溜息だなぁ。何かあったの?」

「ん……朝から服にケチつけられて、オススメされたのを着なかったら拗ねられた」

「あっはは!わかる!あるよねそういうの!うちはアクセでこれー!って言ってきかなかったなぁ。でもすっごいお気に入りで、大事な日にしか着けないやつだから、ダメって言ったらめちゃくちゃ悲しそうな顔されたわ。」

 どうやらどこのトイも似たようなものらしい。それはやはり、主人の好みがそのまま彼らの好みになっているから、つまりはその服やアクセサリーが好きだから、着ようよ、という主張なのだろう。

「代わりにこっちは?って少しだけランクが下のやつとか、今日の予定はこうだからって言い聞かせると少しは反応がマシになるわよ。」

「なるほどぉ」

「小さい子に言い聞かせるみたいに、ね。」

 そういえば、友里恵は3人兄弟の長女だと以前聞いた気がする。

 末っ子の自分には小さい子を相手にした記憶がないけれど、なんとかなるんだろうか。やるしかないんだけどさ。

 彩矢は目の前で友里恵のトイと何やら楽しそうにお喋りをしている自分のトイの頭を、ふわり、と撫でながら、もう一度大きな溜息をついたのだった。

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