妖し怪し語り

ササキアンヨ

第1話 かえがみ



 田舎の民宿で夜を過ごした。


 わたしの地元で降る雪というのは灰のように濁っていてまとわりつくように重い。でも、ここの雪は瑞々しい白さとふんわりとした軽さがある。


 とは言え、ずいぶん降っている。明日のバスが運行しているかどうか分からない。なんとなく不安だ。


 屋根がミシミシと鳴っている。この民宿は古い家だ。雪に潰されやしないだろうか。わたしが心配性なのは自覚しているが、さっきから締め付けられるような音が鳴っているのだ。


 みしっ。みしっ。ぎゅう。ぎゅう。


 ざっざっざっざっ……。


 たたたたた……。


 おまけに鼠でもいるのかもしれない。



「大丈夫ですよ」



 民宿を経営している男がいつの間にか部屋の前に立っていた。扉を開けつつも、中に入っていない。客への礼儀だろうか。



「ですよね……。これくらいの雪、きっとこの辺では当たり前なのでしょう。申し訳ない」



 男はニコリと笑った。けれど、生っ白い平坦な顔はなんだか人形のようで。その愛嬌は作り物のように感じられた。



「お眠りくださいまし。冬の夜は毒でございます。雪ならばともかく、“かえがみ”が舞い始めれば、あなたさまにも害になる」



 男は笑みを浮かべた無表情のまま、そんなことを言う。“かえがみ”とは何だろう。来る前にこの辺りの歴史はある程度押さえたつもりだったが、知らない名前だ。



「心配していただきありがとうございます。もうすぐ、寝るつもりです」


「それがよろしい。“かえがみ”を見てはなりませぬ。あなたさまも舞いの一座に加えられますよ。……それがお望みなら止めませんが」



 男は奇妙なことを口にして、こちらに背を向けずに扉を閉めた。……鍵を閉めておこう。何だか怖い。


 部屋には窓がある。一面に積もった雪は白い原野の如き輝き。見るなというくせに、窓にはカーテンが無い。そう言えば、音がしない。無音の世界に迷い込んだみたいだ。


 早く寝よう。久しぶりの休暇で気分転換に来たつもりだったが、こんな焦燥感に襲われるとは。

 ビル、アスファルト、電車、テレビ、ひっきりなしに連絡が来る端末。わたしの周りは人工物だらけだ。辟易として、こういう何も無い田舎に行ってみたかったのだ。バスの心配さえしなくて良いのならば、雪の方がよっぽどマシではあるけど。


 たたたたた…………。


 何かが走る音。無音の世界が壊れ、わたしはホッとした。でも、何か違和感がある。さっきの家鳴りとは違う。この音は民宿の外から聞こえた気がする。男からの忠告を忘れ、窓から外を注視した。


 この雪の中であんなにも軽快に走れるものだろうか。既に膝を越すくらい積もっている。



「あ」



 舞っている。雪ではない。鮮烈な赤さ。顔を布で隠した人がふわりふわりと華麗に舞っている。その赤い装束は見慣れぬものだ。


 彼あるいは彼女の周りにも誰かがいる。たたたたた……と走り回っている。けれど、そちらは全く綺麗ではない。醜い。美しい絵画の中に素人のタッチが混ざっているかのようだ。



 許せない。



 わたしは注意しなければならない。この舞を貶める何者かを排除しなければならない。窓を開け、わたしは雪の中に着地する。不思議と寒さも冷たさも不快感も覚えなかった。ただただ怒りが渦巻いている。


 ずぼ。ずぼ。ずぼ。ずぼ。


 認めたくはないが、あの邪魔者はこの雪の中でわたしよりも軽快であるようだ。許せない。



「あぁ……美しい」



 赤い装束の人は近くで見るとさらに神々しい。雪が降る中、大自然に自分も取り込まれていく。けれど、それは快感に等しい。この演舞にわたしも参加できるのだ。その嬉しさが勝つ。コンクリートジャングルの檻の中で息が詰まるようなサラリーマン生活から、解放される。そんな予感が止まらなかった。



「やはり、いらっしゃいましたか」



 それは民宿の男だった。彼は白過ぎる顔をしてピッタリとした笑みを貼り付けている。不快だ。わたしの仕事を邪魔する営業マンに似ている。なるほど、こんなにも醜い男なのだから、この美しい舞を汚すのは当然だろう。




「……良かった」




 赤い装束の人が舞を止め、そんなことを言う。信じられない。その声はいま聞いたものと全く同じ……。布が風に舞う。人形のような顔。生き物とは思えぬ顔。目の前の男と同じ。



「どうして」


「田舎の暮らしにはもう飽きたのです。都会の方がいらっしゃるのは実に84年ぶり。今の東京はどんな風になっているのか見てみたい。本当にありがとう。それにしても珍しい御仁だ。檻のようなこの地にわざわざ封じられにやって来るとは。……僕はサラリーマンに向いていると思うのですよ。何より笑顔が得意ですから」



 赤い装束を纏っている男はニコリと笑う。歪み果て濁り果て、灰のように黒ずんだ顔であった。死者の顔だ。



「あ、あ、“かえがみ”さまは……」


「あなたさまが今日から“かえがみ”でございます。この孤独な檻の中でひとりで永遠に舞いなされ。それが、あなたさまのお望みでしょう」



 ひとり? ひとり? こんなにも何も無いところで、わたしはひとりで舞い続けなければならないのか? 


 嫌だ。嫌だ。嫌だ! 返してくれ。返してくれ。人工物に囲まれたあの賑やかな街にわたしは戻りたいんだ。こんなところで永遠を過ごしたくはない!



「舞いなされ。孤独に耐え切れぬようであれば、もうひとりの自分を生み出し、一緒に舞えばいい。何の誤魔化しにもならないのですが」



 赤い装束がわたしにまとわりつく。どこが綺麗なんだ。これは全部、血じゃないか。生者を憑き殺した証ではないか。ずっしりと重い装束はわたしの意思など無視して舞い始める。


 男は雪の中を歩く。


 ずぼっ。ずぼっ。ずぼっ。ずぼっ。


 生者にしか許されない重みが男にはあった。



 嫌だ。嫌だ。嫌だあああああ!!!



♦︎♦︎♦︎


 どうでしょうか、ぼっちゃま。


 ばあや、このお話の教訓は何なの?


 すべての話に教訓があるとは限らないのですよ。でも、そうですね。田舎をいとう者、都会を厭う者。

 けれど、どちらにも魅力はあるのです。足るを知らぬ者はどこへ行こうと同じこと。きっと、この後の男は都会で上手く暮らすことは出来ないのでしょう。人を不快にさせる笑顔では立ち行きませんから。


 眠くなってきたかも。今日は雪だよね。大丈夫かな。“かえがみ”は居ないよね?


 おりません。“換え紙”はどことも知らぬ田舎の地でひっそりと舞い続けているでしょう。


 うん。……おやすみ、ばあや。


 ええ。おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。

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