その2の1「追走と黒星」
猫の傷は浅くは無い。
しっかりと突き刺さった氷弾が、猫の脚に鮮血を流させていた。
血で地面を濡らしながら、猫はまだ走ろうとしていた。
猫が撃たれたことに気付いたエミリオは、傷ついた猫の脚を見た。
そして流れる血を見ると、猫にこう声をかけた。
「今までありがとう。カゲトラ」
エミリオの手が、猫の手綱から離れた。
彼は猫の背に脚をかけ、そのまま地面に飛び降りた。
道路に足がついた瞬間、自力での疾走を始めた。
飼い主に別れを告げられた猫は、速度を緩めた。
「うおっ!?」
猫のすぐ後方には、走るジムの姿が有った。
とつぜん減速してきた猫に、ジムはぶつかりそうになってしまう。
ジムは慌てて猫を回避し、衝突は避けることが出来た。
だが回避行動を取ったジムは、地面を転がることになった。
追走劇のさなかでは、致命的なタイムロスだと言える。
ジムとエミリオの距離が開いていく。
「逃がすか……!」
自分がやらなくては。
そう思ったカイムは、気合をこめて地面を蹴った。
エミリオの脚は速い。
『特級冒険者』並の脚力だと言って良い。
だが、カイム=フィルビーはトップエージェントだ。
特級冒険者よりもさらに次元が上の存在だ。
いくらエミリオが鍛えられていても、カイムにかなうはずは無かった。
エミリオの目的地であろう運河が近付いてきた。
その運河にかかる橋の手前。
カイムの手がエミリオに届いた。
エミリオの腕を掴んだカイムは、そのまま彼を地面に押し倒した。
「ぐうっ……」
乱暴に倒されて、エミリオが呻いた。
カイムの目に、エミリオの横顔が見えた。
男の歳は、30代くらいだろうか。
茶色いパーマヘアのその男は、温厚そうな容貌をしていた。
体格もすらりとしていて、荒事に向いているようには見えない。
彼がスパイだと知らされれば、隣人たちは大いに驚くに違いない。
対するカイムは、その外見からは予想できないほどに場慣れしている。
今さら相手の容姿などに惑わされることはなかった。
カイムは油断の無い様子で、エミリオにこう告げた。
「エミリオ=バドリオ。
スパイ容疑でおまえを拘束する」
ほんの少しの攻防で、カイムの技量を理解したのか。
エミリオは強く暴れようとはしなかった。
彼は観念したかのように目を閉じた。
そしてこう呟いた。
「アガスティアさま……」
「っ……」
どうしてだろうか。
エミリオの声がカイムに届いた瞬間、拘束が弛んだ。
「…………?」
どうしてカイムから力が抜けたのか、エミリオにはわからなかった。
とはいえ、これは好機だ。
エミリオは驚きつつも、カイムを力強く押しのけた。
「あっ……」
純粋な力では、カイムの方がはるかに勝っているだろう。
だが気が抜けていたカイムは、簡単に押しのけられてしまった。
自由になったエミリオは、立ち上がり逃走を再開した。
「くっ……!」
カイムはとっさに魔弾銃を取り出した。
そして即座に雷の魔弾を発射した。
カイムの銃の腕前は、ジムよりも優れている。
この距離なら外さないはずだった。
だが、二発放たれた魔弾は、どちらもエミリオを捕らえることは無かった。
掠める銃弾に身を竦ませつつ、エミリオは橋までたどり着いた。
橋の側面から身を乗り出した彼は、運河へと飛び降りていった。
後を追ったカイムは、橋から運河を見下ろした。
するとエミリオが、小型ボートを発進させるのが見えた。
カイムは魔弾銃をボートに向けた。
まだ射程距離内だ。しとめる。
カイムがそう考え、魔弾を発射しようとした瞬間。
エミリオは操縦席の赤いボタンを押した。
ボートは凄まじい水しぶきをあげ、突然に急加速した。
カイムがはなった魔弾は、ボートの後ろの水面に着弾した。
(違法改造か……!?)
ボートは通常ではありえない速度で走り去り、カイムの視界から消えていった。
走ってあれに追いつくのは不可能だろう。
カイムは任務の失敗を悟った。
「逃げられた……」
「逃げられた……じゃねえよ」
追いついてきていたジムが、カイムの背に声をかけた。
「ストロングさん……」
カイムは暗い顔でジムへと振り返った。
「あの状況からターゲットを逃がすか? 普通。
『三つ星エージェント』が、
あんな距離で2発も外すなんてよ」
「……すいません」
三つ星というのは、最高峰のエージェントに与えられる称号だ。
カイムは三つ星を持っている。
ハースト共和国において五人も居ない、最高の評価を与えられた人材だということだ。
華々しい戦果を誇ってきた最強のエージェント、エピックセブン。
そのキャリアに、苦い苦い黒星がつけられることになった。
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