第93話 化物《吸血姫》の願い

 万純に手傷を負わされたジャネットは久々に感じる痛みに――――高揚を覚えていた。別にこれは、彼女が被虐趣味というわけではない。

 自らに手傷を負わせることが出来る剛の者を、眼前に跪かせることが出来ると考えた、被虐ではなく嗜虐的な意味で高揚を覚えていた。


「く、ふふ。素晴らしい、さすが稀人まれびとと言ったところですわね」


 飄々と軽口を叩くジャネット。その言葉は強がりなどではない。現に、万純に斬られた肘が――。


「うそ……。くっついた、ううん。再生、した?」


 斬り落とされた腕が霧化すると肘部分に集まり、そのまま霧化を解除。元通りの腕となっていた。肘部分にある僅かな切れ目。そして、失われた袖部分から見える白魚のような腕なければ夢と勘違いする。それほどの状態だった。

 再生した腕の拳をぐっ、ぱっ、と握り広げるジャネットは、動きに問題ないことを確認する。


「うん、良い感じ。さすがに驚きましたが、これで問題ないですわね。それでは、続きと参りましょうか」


 ごう、と魔力を放出する。彼女もまた万純が自身へ相対するに足る敵と認め、慢心を捨てたのだ。

 血のように赤黒いオーラが辺りに撒き散らされる。それこそが彼女の魔力、力の一端。それが辺り一面へ侵食する。

 ちりちり、とした独特な威圧を万純は肌で感じた。どっ、と冷や汗が出た。生物のしての本能が逃げろ、と警鐘を鳴らす。でも――。


「逃げない、ううん――」


 ――逃げられない。

 ここで自分が無様に逃げ出したら、あの化物は都市を襲うだろう。そんなこと、許すわけにはいかなかった。


 ――もっとも、ジャネットは仮に万純が逃げ出したとしても追うつもりも、都市を襲撃するつもりもなかった。

 彼女がダンジョンマスター、秀吉から指示されたのはリーゼロッテの部隊の撤退支援、ならびに足止めの殿しんがり。弱者を蹂躙することではない。

 彼女にとって弱者とは愛でるものであり、その中でも自身へ叛逆する者はとくにだろう。その結果、弱者の生命の灯火が消えれば、その程度だった。と、興味を失くすだけだ。

 そういった意味で、目の前の勇者。荒木万純は極上の獲物。自分好みに調教、あるいは眷属にした後、側へはべらすのも良いかもしれない。そう考える程度には気に入っていた。

 事実、今まさに力の差を見せつけられているのに、まだ万純の目は死んでいない。なんとしてでも生き残る。そういう輝きに満ちている。

 これがもし、ジャネット自身が第三者の立場で見ていたら間違いなく、素晴らしいと拍手喝采していたことだろう。

 そして、それは今この場。敵として相対していても変わらない。否、もっとひどくなるだろう。なぜなら――。


「ふっ、くく。くぁははははははははは――――!」


 狂ったような哄笑が響く。その顔は喜色満面だった。

 かつての宿敵。アンネローゼもまた、彼女のように人間の底力、生き汚なさを体現した人物だった。それは言い換えれば人の可能性。掴み取りたい未来、夢とも言えた。

 その輝きに魅入られた。もっと、見てみたいと思った。

 彼女は信じている。只人の、定命の者。人間の強さ、美しさを。そして願っている、もっと、もっともっと輝きを見せてくれ、と。

 だから期待する。この程度では倒れないだろう。壁のひとつやふたつ、簡単に乗り越えてくれるだろう。そして、それを糧としてもっと強く、美しくなる。そうして互いが進歩、進化することに恋い焦がれている。

 怪物、という括りで見ると歪だろう。それはジャネットも自覚している。なぜなら怪物とは本来、蹂躙する者。対等などあってはならない。


 それがどうした。そんなもの、知ったことか。

 ダンジョンマスターだった時に美しいものを見た。もっと間近で見たい。この手に取って愛でたい、そう思った。それだけで十分だ。

 それほどまでにジャネットにとって、人の可能性というのは劇薬だった。自身が本来持っていた価値観。それがすべて打ち砕かれる程度には。

 だが、それで良い。それが良い。今までの価値観では決してたどり着けない境地へ足を踏み入れた。


 それはジャネットにとって麻薬のようなもの。他者より先へ、他者より上へ。その欲望によって力を、最強だと自負するに至るものを手に入れた。


 だからこそ夢を見る。いくら化物あたくしが強大になろうとも。人間おまえたちはそれを軽々と越えてくれる。いや、越えるべきだ、と。

 それは身勝手な押し付けに過ぎない。しかし、ジャネットは信じているのだ。人間おまえたちならそれが出来る。我々が想像する、そのさらに一歩先へと至ってくれる、と。

 そして、それが化物あたくしをさらなる高みへ押し上げる。より美しく、完璧になる。それはいずれ遥かな天神の座へと至るだろう。それだけを夢見て。

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