第1話・いらない思い出

 

 消毒液の匂いが充満する白い部屋の中、深水のように澄み切った空気が窓からさらりと流れ込む。薄く黄ばんだカーテンが揺れる。

 学生の笑い声。信号機の音。車のクラクション。まだ少し冷たい春の風は、街の喧騒をほのかに運ぶ。

 

 ――まるで、ひとりぼっちの宇宙船から、地球を見ているみたい。


 この部屋はいつだって、静寂に満ちている。

 遠くで聞こえる賑やかな生の音を聞くたび、摘木つみき星羅せいらは、自分がまるごと世界と切り離されてしまったような気がして嫌だった。

 ガラス越しのどこか遠い景色をぼんやりと眺めていると、がらり、と扉が開く。

「おはよう、星羅ちゃん」

 名前を呼ばれ、星羅はゆっくりと振り返る。そこには、部屋と同じくらい真っ白な、清潔感のある白衣を着た担当医師、夏目なつめあおいが立っている。星羅はかすかに眉を寄せて、視線を窓の外へ戻した。

 挨拶も返さずにいると、葵の苦笑と軽やかな足音が近付いてくる。

「昨日生検したばかりだけど、痛みはどうかな?」

 葵の控えめな、それでいて柔らかな陽だまりのような声が、星羅の胸にすっと刺さる。

 星羅は心に突き刺さったささくれを無理やり引っこ抜くように、声に不満を滲ませた。

「……先生には関係ないでしょ」

 星羅が言うと、葵は困ったように笑う。沈黙が落ち、風が壁に掛けられたカレンダーを撫でた。

 ふと、葵の視線がベッド脇のダストボックスに向く。そこには、花柄の可愛らしい便箋がしわくちゃになって捨てられていた。封は切られていない。

 葵はなにも言わずに便箋を取り出すと、優しい手つきで寄れた皺を伸ばした。

「……それ、ゴミだから捨てといて」

 星羅はいらいらした。

 なにも言わない葵に対しても、それから、こんなことしかできない幼い自分に対しても。

 星羅がそう言った瞬間、葵はほんの少し悲しげな顔をした。けれど、すぐに優しい笑みをその顔に貼り付けると、言った。

「……もうすぐ朝ご飯だから、しっかり食べてね。また顔見に来るよ。今日は何個か検査もあるから」

 葵が出ていくと、星羅はようやく息を吐く。けれど、心の中のささくれが取れることはなかった。

 なにをやったって、意味なんかない。胃になにかを入れたって、血管になにかを注入したって、皮膚を切り裂いて、なにかを取ったとしたって。だって、自分はもう。

「どうせ、死ぬんだから」

 星羅は頭から布団を被った。

 十五歳の星羅は、生まれてからほとんどの時間をこのベッドの上で過ごしている。自分の心臓が動いていることを知らせるモニター音が響く個室で、生の喧騒のなどまるでない無音の世界で、ずっと、死と隣り合わせの場所で。星羅は辛うじて機械に生かされているに過ぎないのだ。


 翌日。

 星羅は診察室で葵と向き合っていた。自分自身の脳を透かしているシャーカステンをちらりとみやり、小さく息を吐く。

 気を抜けば、視界からすべてが弾け飛んで、なにもかもの境界線を失ってしまうような感覚に陥る。

 病室に負けず劣らず、この場所も死の匂いが重く立ち込めている。

「昨日のX線検査の結果なんだけどね……」

 葵が柔らかな口調で話し出す。

 星羅の担当医師である葵は、今年三十一歳になる。いつも穏やかで、いつもにこにこしていて、それでいて、小児外科医としての腕も確か。看護師からも患者からも大評判だという。

 かく言う星羅も、その優しげな瞳と甘い声に最初はときめいたものだ。けれど、左手の薬指に鈍く輝く鎖を見て、一瞬にして夢から覚めてしまった。


 騙されてはいけない。この人は、自分とは違うのだ。いくら走っても疲れない身体で、なにを食べても消化してくれる胃を持っていて、おまけに頭も良くて、顔だっていい。順風満帆を絵に描いた人。

 神様は残酷だ。今上げたうちのひとつくらい、星羅に与えてくれても良かったのに。

 星羅は、葵と目の前のX線写真を交互に見つめた。そこには、星羅にはよく分からない自身の脳の輪切り画像がぼんやりと照らされている。

「はっきり言えば? 私、もうすぐ死ぬんでしょ」

 星羅はもう、なにも分からない子供ではない。どれが腫瘍で、どれが臓器なのか分からなくても、葵の表情と声音から、今の自分の身体が良くないということくらいは分かる。

「そんなことないよ。星羅ちゃん、あのね……」

 写真を見て説明を始めたその横顔に、星羅は何度目か分からないため息を零した。

「くどい。もういいってば。私、覚悟できてるから」

 なにもかもを諦めたような星羅の言葉に、葵はほんの一瞬表情を強ばらせたものの、すぐに笑顔で動揺を取り繕った。

「こら。冗談でもそんなこと言わないの」

 神様は葵に二物も三物も与えたけれど、嘘の付き方までは与えなかったらしい。

 視線が泳ぎ、声がわずかに震えている。

「……先生って、浮気とか絶対バレるタイプだよね」

「え、う、浮気?」

 葵は心底困ったような顔をして首を傾げる。

「……ま、そもそも先生にそんな度胸ないか」

 葵はいつだって優しくて、穏やかだ。治療をすっぽかしたり、出された薬を飲んだと嘘をついて捨てたり、病室を脱走したりしても、葵は一度も星羅に声を荒らげたことはない。ただ、困ったように笑って星羅の前にしゃがみ込むのだ。まるで、星羅は悪くないとでも言うように。

「……あのね、星羅ちゃん。手術が怖いっていう君の気持ちは分かるよ。でもこの手術は、君を助けるためにどうしても必要なもので……」

 こうやって、駄々をこねる子供を諭すような声も。

「手術なんかしない。どうせ助からないんだから」

「星羅ちゃん……」

 星羅は、骨にお情け程度の肉と皮がついた手をぎゅっと握り込む。

「なにが分かるの」

 星羅の声に葵は口を閉ざし、睫毛を震わせる。

「先生はいいよね。私と違って健康で、学校行って、医者になって、結婚までしてさ。なにが分かるの? 先生、抗癌剤やったことあるの? 髪抜けたことあるの?」

「星羅ちゃん」

「……私、頑張ってるよ。ちゃんと治療受けてるのに。治らないのは、先生のせいでしょ!」

 こんなことを葵に言ったところで、星羅の寿命が延びるわけではない。星羅の身体を蝕む病気が治るわけでもない。けれど、言わずにはいられなかった。

 案の定、優しい葵は肩を落とし、やるせなさげに目を伏せた。べつに、葵のことを責めたいわけではない。葵はいつだって一生懸命、星羅に向き合ってくれている。それが逆に星羅を苦しめた。葵のような優秀な医師でも、自分の身体は治せないのだと。

 やりきれない怒りと不安はどんどん溜まって、ぎゅうぎゅうと星羅の首を締め付ける。

「……星羅ちゃん。ななちゃんと卒業式出るって約束してたんでしょ? 今のままじゃ厳しいけど、手術を受けてちゃんとリハビリすれば、きっと卒業式に間に合うよ。だから星羅ちゃん、頑張ろうよ」

『頑張れ』

 葵の口から、なんでもないため息のように出た言葉。星羅は葵を強く睨んだ。

「ななは、頑張って頑張って、結局死んだよ。私も同じ。手術しても、結局死ぬの」

 大人は毎日、同じことばかりを言う。

『頑張れ』

『無理するな』

『ちゃんと治療を受けなさい』

 乾いた皮膚を撫でるだけで、星羅を縛り付ける言葉。星羅の周りの大人が、口を揃えて吐く言葉だった。

 もうとっくに頑張っている。痛い、苦しい治療だって我慢して受けて、無理しないようにと無理しているのだ。体も心も、限界を超えているのだ。

「……そんなこと言わないで」

 葵の顔が悲しげに揺らぐ。

「私は、ななと一緒に卒業式に出ようって約束したの! 先生がななを殺したんじゃん! 先生が私の約束を奪ったの!」

 星羅が投げつけた言葉を受け、葵は目を瞠る。その瞳がわずかに潤むのを確認して、つられるように星羅の瞳にも涙が滲み出した。

 星羅には分かっていた。こう言えば、優しい葵はなにも言えなくなる。

 葵の顔を見ないまま、星羅は立ち上がる。しかし、葵はその手を掴み、星羅を引き止めた。

「星羅ちゃん、話を聞いて」

「やだ! 離して」

「星羅ちゃん、わがままばかり言わないで!」

「……うるさい! 簡単に言わないでよ。先生には失敗しても次があるからいいよ。でも私は、先生に失敗されたら終わりなんだよ!」

 その瞬間、葵が言葉に詰まるのが分かった。ぱきりと、葵の心が割れる音が聞こえた気がした。

 言ってから後悔の波が押し寄せるけれど、口から出した言葉はもう消すことはできない。星羅は堪らず、怯んだ葵の手を振り払って診察室を飛び出した。

「……待って! 星羅ちゃんっ!」

 星羅は心臓に疾患を抱えている。あれだけ走ってはいけないと言ったのに。葵は慌てて星羅を追いかけようと腰を浮かせた。

 しかし。

『コードブルー、コードブルー。お手隙の先生は、至急救命センターまでお願いします』

 タイミング悪く、急患を知らせるアナウンスが病棟内に鳴り響く。

 今度はPHSが鳴る。葵は走りながら、通話ボタンを押した。

『あ、夏目先生? 近くの保育園で火事! 熱傷諸々の小児の患者がこれから六人運ばれてくる。応援お願い』

「……すぐ行きます」

 葵は方向を変え、急いで救命センターに向かった。

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