第30話 夜11時

以前ミチコが言っていた。奥さんは、忙しいんですよね。私は暇なんで。


しかし、あれだけ忙しい、と思っていたのに、夫が家からいなくなると、急に時間を持て余しているような気になった。


夜がこんなに長かったなんて。


ある日、ベッドに入ったもののなかなか寝付けないでいると、LINEのメッセージ。夫からだ。


どうしてる?僕は今ミチコと関西のほうまで来てるんだ。ずっと旅行してみたいと思っていたんでね。


そうなんだ。どう、そっちは?


今日はね、海がきれいでしばらくぼんやり見とれててすっかり焼けちゃったよ。


こんなたわいもない話をチャットで30分以上やり取りし、明日も早いんだよね、もう寝なよ。おやすみ。という夫の言葉でLINEは終わった。


それからというもの、毎日夫から、夜、決まって11時過ぎになるとLINEがやってきた。私はその時間を楽しみに待つようになった。


時には、もっと前の時間に連絡したいと思ったこともあったけど、ミチコと一緒にいるのに邪魔をしては悪いような気になり、こちらからは連絡しないでいた。


ある日。同じように夫とLINEで話をしているときにふっと思った。


この人、毎日夜11時過ぎに連絡してくる。最初は決まってクマさんのスタンプで、ハロー、とにこやかに手を振っているもの。その後は決まって、どうしてる、と聞いてくる。


これって、夫じゃなくて、ミチコかもしれない。または、ボットかも。だってAIで自動的に11時過ぎに連絡するようにしておけば、そして、私と会話が成立するように適当に話を合わせておけば、こちらはわからないのではないか。


そう、わかるわけがない。


10年一緒にいたのに、ここ最近夫が他人のように思えることがしばしばあった。何を考えているかわからない。だったら、夫と私の会話を機械で分析し、何パターンか機械に覚えこませておけば、私とチャットでうまく会話ができるのではないだろうか。私にはどちらにしても予測できないんだから。


いや、そんなことはあるはずがない。夫がこの世にいなくなったら、このLINEでの会話はできなくなる。いや、生きていても病状が悪化したら、会話できなくなるだろう。


だったら、いっそのこと、この会話を覚えさせておいて、亡くなった後も会話できたらいいのに。


嘘でもいいから。機械でもいいから。


そしてふっと思った。


そう、ミチコでもいいから。


夫のふりをして会話できる何かが私には必要な気がしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る