第56話 彼と彼女と名前と約束

「どうも、おかしい」

「なにがですか?」

 セツナは、目の前のテーブルに並べられた料理に目を輝かせていたが、神妙な顔つきで窓の外を見遣みやるラクサスの調子に合わせるように、低い声音で問いかけた。

 彼らがいるのは、ワーラムの一角にある小さな飲食店だった。

 ワーラムは、この大陸の多くの都市がそうであるように城壁に囲われた大都市である。

 飲食店は、そんなワーラムの中心を貫く大通りからは外れた位置にあり、周囲からはあまり目立たず、人通りもそれほど多くないということから選ばれている。

 彼らがワーラムに着いたのは、二時間ほど前のことだった。

 門前で自警団による簡単な荷物検査を終えた一行は、一先ず宿を目指した。

 セツナの全身についた血を洗い落とすためでもあり、馬車のほろを補修するためでもあった。

 セツナが宿屋の風呂で全身にこびりついた血という血を洗い落としている間、ラクサスが街中を駆け回って情報収集を行っていたという話は、御者とふたりで馬車の補修を行っていたランカインから聞いた。

 ランカインは、手先が器用らしい。

「ログナーに関する情報がまったく耳に入ってこない。ログナーにも近いワーラムならば、なにかしらの情報が得られるだろうと期待していたのだがな」

 落胆らくたんを隠せない騎士の横顔を見つめながら、セツナは腹を押さえた。空腹のあまり、腹が鳴りそうだった。こんな状況で腹が鳴っては、空気もなにもぶち壊してしまうに違いなく、それだけはなんとしても避けたかった。

 もっとも、目の前には出来立ての料理が並んでいるのだ。

 色取り取りの野菜のサラダに鶏肉のソテー、香ばしい湯気を立ち上らせるコーンスープにふっくら焼き上がったパン――セツナが、涎を垂らすのも無理のない状況だった。

 小さな飲食店の決して広くはない店内には、いくつかのテーブルが整然と並んでいるが、窓際に陣取るセツナたち以外に客の姿はなかった。窓の外を見れば、閑散としているのがわかる。ラクサスの目利きに間違いはなかったということだ。

「それがどうしたんです?」

「きみは馬鹿か?」

 即座に口を挟んできたのは、ランカインだった。

 彼は、横並びに席に着いたセツナたちとはテーブルを挟んで対面の席に腰掛けていた。

 セツナを見据みすえる瞳には、相も変わらぬ狂気が宿っているのだが、さらに薄笑いでも浮かべているような表情が、セツナの神経を逆撫さかなでにするかのようだった。

「目的地の情報は少しでも多く入手しておくべきだろう? 敵国だぞ。なにがあるかわからないんだ。まあ……そんなものは王都を発つ前に集め、精査しておくべきだったのだがね」

「ぐっ――!」

 ランカインの冷笑れいしょうに対して、セツナは、反射的に立ち上がりかけたが、拳を握り締めることでなんとか堪えた。

 こんなことで感情を爆発させている場合ではない。

 ここはワーラム。

 アザークの一都市に過ぎず、目的地に到着してさえいないのだ。いくら相手がランカインであろうと、我を忘れてはいけない。

(冷静に。冷静に……)

 胸中で自分に言い聞かせながらも、セツナの表情は険しくなる一方だった。鏡を見ずともわかる。しかし、止められない。元よりランカインに対しては悪感情しかないのだ。

 しばらく行動を共にするからといって、はいそうですかと仲良くなれるはずもなかった。

 といって、この場でランカインに斬りかかるだけの覚悟もない。

 いや、と、彼は、歯噛みした。

(そんなものは覚悟なんかじゃない……)

 ランカインは、許し難い大罪人とはいえ、彼の主君レオンガンドが差し向けた同行者であり、ログナーでの任務に必要不可欠な人材である。任務を終えるまでは行動を共にしなければならない人物であり、協力して、事に当たらなければならない。

 彼がどれだけ嫌がっても、拒絶しても、その事実だけは覆しようがないのだ。

 ランカインとの同行を嫌って任務を降りるという選択肢は、ない。

 それは、セツナが足場を失うことを意味していた。

「きみの言う通りだ。実際、王都を発つまでにできる限りの情報を集めてはみたが、わかったのは、ログナーが国境の警戒を厳重にしているということだけだ。ログナー国内の情勢はまったく掴めていない。だからこそ、ここに立ち寄ったのだがな」

 つまり、ログナーの内情さえ掴めていれば、この街に立ち寄る必要はなかったということだろうか。

 その場合、自分は、血まみれのまま国境を越えることになったのだろうか、などと、セツナは愚にもつかぬ事を考えることで、ランカインへの怒りを脳内から追い出そうとした。

 ランカインが、笑った。

「くくく。実にくだらない。馬鹿馬鹿しい。救いようがない。あのお方はやはりうつけか? なにが起こっているのかわからない敵地に将来有望な人材を平然と送り込むなど、正気の沙汰ではない。きみらが命を落とすことのほうが、かの国にとって痛手だろうに」

 彼のまなざしに宿る狂気に煽られたわけではない。が、セツナは、無意識のうちにテーブルに身を乗り出していた。

「てめえ……!」

 吐き出したのは、敵意そのものに違いなかった。

 レオンガンドを侮辱されたことへの怒りであり、ランカインという存在への苛立ちであった。ランカインの言葉に対し、反論することもできない己自身への罵倒でもあったのかもしれない。そして、渦巻く炎となって心を焦がす激情が、彼に囁く。

 やってしまえ。

「事実だろう? それとも、おれの認識になにか間違いでもあるのか? あるのならば教えて欲しいが」

 ランカインが、セツナの目を見て、わらう。

 世界が揺らぐ。音が聞こえた。背後から忍び寄るだれのものともわからない足音が、セツナの耳朶じだに心地よく響いていた。甘美な旋律だった。その足音が鼓膜を揺さぶったときから、彼の意識は、眼前の男をたおすべき敵と捉えていた。再び、囁きが聞こえた。

 矛を手に取れ。それでおまえの前に敵はいなくなる――。

「ニーウェ」

「っ――!」

 セツナは、雷光に打たれたような衝撃とともに我に返った。

 視界が妙に広くなった気がする。

 対面の席に腰掛けているのは、忌々いまいましくも同行することになったランカインである。それは店に来たときからなにも変わっていない。変わっていないはずなのだが、彼は、妙な違和感を覚えていた。

 テーブルに身を乗り出してまで、なにをしようとしていたのだろう。

 理解できないまま、セツナは、席に腰を下ろした。ランカインの怪訝けげんな表情がどうもしゃくさわるが、食って掛かるほどのことではない。

 気になるのは、自分の身のことだ。

 一体、なにを想って身を乗り出したのか。ランカインの戯言たわごとに煽られたのだとしても、なにも覚えていないのが解せなかった。

「落ち着きたまえ」

 セツナは、ラクサスの言葉の意図をなにひとつ理解できていない自分にこそ、苛立ちを覚えた。なにを見て落ち着けといったのだろう。自分は十分に落ち着いているはずだが。

 彼は、このテーブルについた時点から今までのことを振り返ってみたが、ランカインとの間にどのようなやり取りがあったのかすら思い出せなかった。その部分だけが暗黒の闇に包まれているかのようだった。

「カイン。きみの考えにも一理ある。だが、こうは考えられないか? あのお方が我々を選択したのは、我々にしかできない、我々にならできると判断したからだと。ならば、我々はあのお方の期待に応えるために全力を尽くすしかない。」

 ラクサスが導き出した結論は、セツナにもうなずけるものだった。

 彼の言った通り、こうなった以上はレオンガンドの期待に応えるべく、全身全霊で事に当たるしかないのだ。

 既に主命しゅめいは下された。状況は動き出したのだ。今更任務の内容についてどうこう言うのはお門違かどちがいも甚だしい。

(考える暇がなかったのも事実だけど……)

 君臣くんしんちぎりを結んだ直後に申し渡された任務である。

 内容について考える時間もなければ、是も非もなかった。

 なにより、セツナは、ガンディアにとっては新参者も新参者だった。

 鳴り物入りで家臣になったとはいえども、そんな新人に選択肢などあろうはずもなかった。

 主命を受諾し、任務を遂行する以外の道はない。

 そして、それが悪いといっているわけでもない。

 道理だ。

 一方で、セツナの頭の中を過ぎったのは、可能性の話だ。

 もしあのとき、セツナがレオンガンドへの臣従を拒んでいたらどうなっていたのだろう。

 セツナの未来は閉ざされたのだろうか。

 異界の存在として抹殺されたのか、従うまでどこかに幽閉ゆうへいでもされていたのだろうか。

 そして、この任務はラクサスとランカインのふたりだけで当たることになったのだろうか。その場合、戦力は減るとしても、セツナがいないだけで道中は随分と楽になるのかもしれない、と彼は、自嘲気味に想っていた。

 自分の愚かな振る舞いが、ラクサスの頭痛の種になっているのではないか。

 ラクサスの表情からは、そういったことはまったく窺えないが。

「おめでたい方だ。だが、一理ある。確かに、我々以外に適任の人材はいなかったと見るべきか。かの国は弱兵ばかりと聞く。将士にも頼れるものなどいないのだろうな。でなければ、おれのようなものを使おうなどとは考えまい」

「きみならば、死んだとしても痛手にはならない」

 ラクサスが、冷笑する男に釘を刺すようにいった。やはりその声音にも、わずかな感情の変化も見られなかった。平温そのものだ。

 セツナは、ラクサスの平静そのものといった様子を目の当たりにして、手本を見るような気分だった。

 王の家臣たるもの、ラクサスのようにあるべきではないか、と。

「くくく。そうだな。その通りだ。おれならば、いつでも好きなときに捨てられるな」

 心の底から愉快そうに笑うランカインの瞳に揺れるのは、やはり救いようのない狂気だ。

 彼の眼を見たセツナは、暗い闇の深淵しんえんを覗きこんでしまったような気がしてならなかった。

 光明など見つかるはずもない、絶対の暗黒。

 どのような半生を送れば、そんな闇を抱えることになるというのだろう。

 ランカインは、セツナには想像しようのないほどには苛烈な人生を送ってきたのではないか。

 いや、狂気こそが彼の正常なのかもしれず、その場合、正気をうたうセツナたちのほうこそが狂っているということになるのだろうか。

「だが、あなたや彼は違う。捨て駒たるおれ共々に死ぬわけにはいかないはずだ。そうだろう? ニーウェ=ディアブラス」

 ランカインに同意を求められて、セツナは、即座には返答できなかった。彼への反発がそうさせたのではない。

 セツナとて、ひとつひとつの言葉に反感を抱くほど愚かでもなければ、子供でもなかった。

 ただ、男が口にした言葉が、自分を指し示す名前だったのだと思い出すのに数秒を要しただけのことだった。

 偽名である。

 セツナ=カミヤというこの大陸において異質な名前は、少しばかり知れ渡ってしまっていた。特に、これから潜入しようというログナーでは知らないものがいないのではないか。

 無論、憎悪すべき敵として。

 バルサー平原の戦いで、殺しすぎたのだ。

 確かにセツナの獅子奮迅ししふんじんの戦い振りはガンディアの勝利を決定的にしたが、同時に、彼はガンディア軍の中でもっとも警戒される立場になってしまった。

 どれだけのログナー兵を殺戮さつりくしただろう。

 数え切れないくらいの人の命が、黒き矛の吐き出した猛火に飲まれて灰燼かいじんと化し、無数の軌跡に切り裂かれ、あるいは貫かれて死んでいった。

 憎まれて当然だったし、恐れられても仕方がない。

 それほどのことをした。

 そして彼の名は、レオンガンドが直々に喧伝けんでんした。

 凱旋の日、セツナが意識を失っている間に、大々的にその名を挙げ、称賛したのだという。

 迷惑なものだ、などとは考えもしない。

 むしろ喜ばしいことだ。

 レオンガンドが、彼の活躍を認め、臣民に向かって褒め称えてくれたのだ。彼にとって、これほど嬉しいことはなかった。

 認められたのだ。

 それだけで良かった。

 だが、問題が残った。

 任務中の名前について、である。

 任務に支障をきたさないよう偽名を考える必要がでてきたのだ。

 適当でいいというのがセツナの主張であったが、その場に居合わせたファリアの猛反発によりあえなく却下された。



「――どうせなら、少しくらいったものにしたほうがいいわよ」

「なんで?」

「そのほうが面白いでしょ」

 至極しごく当然といった風に答えてきた彼女に、セツナは返す言葉もなかった。

 彼女のそういう遊び心は嫌いではなかったし、なにより、彼女とたわむれているこの時間が愛おしかった。無論、その場にはラクサスもいたし、ルウファの姿もあった。

 戯れるにしたって、場を弁えるべきだ。

「まあ、きみたちが納得するようにしてくれ」

 ラクサスがそう言い残してセツナたちの前から立ち去ったのは、別に気分を害したというわけでもなさそうだった。

 彼は、多忙だった。

 王都に帰還して早々、新たな任務を拝命したのだ。先の任務の報告と次の任務の準備に駆け回らなければならなかった。

 それに比べれば楽なものだ、とセツナは他人事ひとごとのように想うのだ。

 ガンディアやログナーの地図と睨み合い、時にはこうしてファリアと会話することで知識を吸収する。それだけだ。特別になにかをする必要はなかった。

 偽名を考えることだって、大したことではない。

「ということで、なにか案はある?」

「ないって」

「ルウファは?」

「え? おれも?」

 急に話を振られて、ルウファは、驚いたようだった。まさか自分も話の輪に入っているとは思っても見なかったのだろう。が、ファリアは容赦しない。

「当たり前じゃない」

「ええ~」

「なんでそんな顔をするかな?」

「い、いや、別に深い意味は……。うーん、そうですね……セッティーノ=カーミャとか」

「適当すぎる!」

「おれは嫌だぞ、それ」

 あからさまに雑な偽名を口にしたルウファに対して、セツナとファリアは口々に拒絶反応を示した。特にファリアの追撃は、ひどいものだった。

「それで会心の出来だとか言わないでよね」

「ひ、ひどい……」

 ファリアの圧力に負けてなんとか捻り出した名前をにべもなく一蹴されて、ルウファは、ただ愕然としたようだった。同情を禁じえない。が、かといって彼の案を受け入れようと微塵も思わないのも事実だ。

「セツナはどう?」

「だから、ないって」

「なんでもいいから」

「なんでもいいなら、適当でいいじゃないか」

 セツナは、ため息とともにファリアに言った。すると、彼女は憤然ふんぜんと言い返してくるのである。

「そこはこだわるのよ!」

「なんでさ?」

「どうしてもよ!」

「そこまで言うならファリアが考えたらいいだろ? おれにはいい名前なんて思いつきそうにないし」

「あら、いいの?」

 さっきまでとは打って変わった様子で微笑を浮かべてきた彼女に、セツナは呆れるほかなかった。まるでファリアのご機嫌取りをしているような気分になる。

 ただ、それも決して悪いようには感じない。

「じゃあ、きみの名前の意味を教えてくれる?」

「名前の意味?」

 セツナは、改まった様子で質問を投げかけてきたファリアの目を見つめた。緑柱玉のような瞳が、まっすぐに彼を見ている。きれいな瞳だった。思わず、なにも考えられなくなるくらいに。

 名前の意味を尋ねられることなど、そうそうないということも、あった。

 神矢刹那かみやせつな

 彼自身、幼い頃から大層な名字みょうじだと思ってはいた。

 神の矢、である。

 どこからおこったのだろうと興味を抱いたこともあったが、カミヤという音に適当に漢字を当てただけじゃないか、という祖父の言葉には落胆を禁じえなかったものだ。実際、その程度のことなのかもしれない。

 もっとも、適当にしては尋常ではない字面ではあったが。

 そして、刹那という名前だが、それには思い入れがあった。

 父と母が考えてくれた名前だ。

 自己を定義する大切な名前。

「一瞬一瞬を大切に、ね。素敵な名前じゃない」

「うん。気に入ってる」

「そう。良かったわね」

 ファリアの慈しみに満ちた穏やかな微笑みは、まるで実在する女神そのもののように思えてならなかった。

 そして、その微笑がセツナには眩しすぎて直視できないのではないかと思ったのだが、むしろ目を逸らすことのほうが難しいという事実に気づかされて、茫然とした。今しばらくの間見つめていたいと想ったのだ。

 とはいえ、時は止まらない。

 ファリアは、真剣に考え込んだ。女神の微笑は消えたが、思案している間の表情も決して魅力がないわけではない。

「そうね……ニーウェ=ディアブラスなんてどうかしら?」

「二ーウェ……」

 彼女の導き出した答えがなんであれ、セツナとしては受け入れるつもりではあったが、ファリアの声が紡いだその音の響きは、彼にとって予期せぬほどにしっくりとくるものだった。再度、反芻するようにつぶやく。

「ニーウェ=ディアブラス……」

「古代言語でね、ニーウェは一瞬、ディアは神、ブラスは矢を意味するの。武装召喚師にとってこれ以上にないくらい相応しい名前でしょ?」

 彼女の満足げな表情には抗しようもなく、そして先ほどから考えていた通り、セツナはファリアの提案した名前を受け入れることにしたのだった。

 そうして任務中の偽名が決まったとはいえ、耳慣れないうちはラクサスやランカインにその名を呼ばれても瞬時には反応できないのも当然ではあった――。



「――きみは、捨て駒にはなれまい」

 ランカインの声が、セツナを現実に引き戻した。狂気を帯びた瞳を睨み返しながら、静かに肯定する。

「当たり前だ」

 死ぬためにこの場にいるのではない。

 生きるために、ここにいる。

 生きて任務を遂行するために。それがとてつもなく困難な任務であろうと、必ず成し遂げて王都に帰還を果たさなければならない。

 セツナの脳裏のうりをひとりの女性の幻影が過ぎった。姿が見えるはずもない。彼女はそのとき、彼の視界に入りようのない場所にいたのだ。



「いよいよ明日ね。緊張して眠れなかったりするんじゃない?」

「そんなわけないだろ」

 ファリアのからかうような口振りに、セツナは、少し怒ったように言い返した。もちろん、本気などではない。

 彼女の言葉には、多くの場合、優しさと慈しみが込められていることをセツナは知っていたし、そんなファリアだからこそ、つい、甘えてしまう自分にも気づいていた。

「そっか」

 夜中のことだった。

 レオンガンドの臣下になってからというもの、セツナは、バルガザール邸の客室を自分の部屋として使わせてもらっていた。広い部屋だ。大事な客を寝泊りさせるだけあって、調度品ちょうどひんの類も高級そうなものばかりだった。

 そんな高級品に囲まれて過ごす時間は、セツナにとって窮屈きゅうくつ以外のなにものでもなかったが、文句を言える立場でもない。

 闇の中、開けっ放しの窓から入り込んできた夜風がカーテンを揺らした。

 拍子に、淡い月明かりが彼の視界を白っぽく染めたが、それも束の間に過ぎない。闇が、再び彼の世界を覆うのに時間はかからなかった。魔晶灯ましょうとうけていない。

 ファリアは、当然、部屋の外にいた。閉じた扉の向こう側からの声も、夜の静寂は、ちゃんとセツナの耳にまで届けてくれていた。

「……ねえ、セツナ」

「ん……?」

「ひとつだけ、約束して欲しいことがあるの」

 いつになく真剣な彼女の口調に、セツナは、咄嗟に上体を起こしていた。淡い月明かりが、またしても視界を白く染めた。それもやはり一瞬の出来事である。カーテンが月光を遮り、この世のすべてを薄い闇で覆う。

 セツナは、扉の向こうのファリアに向かって問いかけた。

「約束?」

 小さな声は、夜の静けさに抱かれた世界に微かな波紋を浮かべる。彼女の耳に届くまでのわずかな――いや、彼女が答えを投げ返してくるまでのほんの少しの時間が、彼にはなぜか、とてつもなく長く感じられた。

 実際は数秒とかかっていないに違いない。

 しかし、セツナにはそう感じられたのだ。

 夜の闇と静寂が織り成す幻想だったのかもしれない。

「そう、約束。必ず、王都ここに戻ってきてね。きみのことをもっと知りたいのに、こんなところでさよならなんて、嫌よ?」

 決然とした彼女の声音に、セツナは、驚きとともにあざやかな光明を見出したような感覚を抱いた。

 それは、自分のことを心配してくれるひとがいたという事実の再確認に過ぎなかったのだが、しかし、いまのセツナにとっては、それだけで何倍もの力が出せると確信が持てるほどの出来事だった。

 だから、声を上げるのだ。

「約束する! 必ず帰ってくるよ。だって、おれもファリアのことをなにも知らないんだ」

 言いながら、彼は、その事実に愕然とした。

 が、当然のことだとすぐに思い知る。

 ファリアのことを知ろうともしなかったのだ。

 この世界に召喚されてすぐに知り合ったというのに。幾度となく彼女に助けられたというのに。

 後悔こうかいが生まれた。

 そして同時に、ファリアのことを知りたいと強く想った――。



「おれは死なない。死んでたまるか」

 セツナは、吐き捨てるように告げると、目の前の料理に手をつけた。ランカインの驚いたような呆れたような、さらにいうと好奇に満ちた視線にさらされながらも、もはやそんなことはどうでもいいと思えるようになっていた。

 約束を想い出したのだ。

 セツナは、ラクサスとランカインの会話を聞き流しながら、ファリアのことだけを考えていた。

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