第36話 王都の朝に
「えーと……」
セツナは、意識の覚醒に促されるようにして
ただ、困惑する。
どうやらセツナは、寝台の上に寝かされているということがわかった。
いつかのことが脳裏に浮かぶ。
カランでの天幕生活の日々である。
あのときはとても質が良いとはいえないながらも、清潔感が保たれた寝具のおかげでそれなりに快適ではあったのだ。
そして、今回の寝台は、なにやら高級感の漂うものであり、上質な寝具とバネの利いた寝台は、カランのものと比べるまでも無かった。さながら高級ホテルに泊まっているかのような錯覚を抱くのは、なにも寝台や寝具だけのせいではない。
室内全体を覆う雰囲気そのものが、高級感に溢れている。
もっとも、セツナの視線は、 ファリアの寝顔に注がれたままであり、室内を確認したのは一瞬のことに過ぎない。
彼女は、無論、セツナの隣に寝ているわけではない。角度からしてそうである。どうやら、寝台の脇に置いた椅子に座っており、そのまま眠りに落ちたらしい。寝台に突っ伏しているのがその証左だ。
優しい寝顔だった。
青黒い頭髪に健康的な白さを持つ素肌、細い眉の形は綺麗に整えられている。閉じられた瞼の縁を彩る
セツナが眼鏡を外したファリアの素顔を見るのは、これが初めてだった。
不意に彼の胸が高鳴ったのは、彼の視線がファリアの唇を捉えたからかもしれない。一見してその柔らかさが伺える唇の女性的な形状は、セツナの意識を刺激してやまなかった。すぐさま吸い付きたいとか、そういうことではない。
単純に、色恋に関する経験の浅いセツナにとっては刺激的に過ぎたようだった。
(なにを考えてるんだ……おれは!)
(おうふっ)
セツナが視線を移した先にあったのは、さらに刺激的な光景だった。つまりは、彼女の衣服の胸元から覗く谷間である。ファリアがラフな格好をしているせいなのか、その女性的なふたつの隆起はいつにも増して強調されていた。
凝視せざるを得ない。
それは、青少年としての当然の反応だろう。
(だれに対して言い訳してんだ、おれは)
と、セツナが
(しかし……)
セツナは、改めてファリアの寝姿を見つめた。
あまりに無防備なその姿は、一介の青少年からすれば極めて刺激的であり、並の男ならば自制心さえも失いかねないのではないかと思えた。谷間を凝視するだけに踏み止まることができたのは、セツナにしては上出来とさえいえた。
(なんだよ、この状況)
ため息ついでに視線を移したセツナは、そこでようやく、室内を見回すことにした。
そのとき、不意に
広い部屋だった。
そして、
上質そうな調度品が並び、壁にかけられた絵画にも気品があった。
わずかに開けられた窓から入り込む風に揺れるカーテンさえも、庶民には手の出しようがないほどのものなのかもしれないという妄想が働く。床一面を
寝台は、部屋の片隅に位置している。窓際だ。微風に揺れる淡い青のカーテンが、窓の向こうに広がる空の青さを助長するようであり、さっきまでの
それはまるで、遥か彼方の青空が、セツナの
「ここ、どこだろ」
セツナは、茫然とした。
どうにも記憶が判然としない。
戦いそのものについては、細部まで覚えている。
いつ戦いが始まり、どうやって終わったのか。
その間の出来事も、セツナの知りうる限りのことは記憶の中にあった。
しかし、そのあとのことがまったく思い出せなかった。
具体的に言えば、ログナー軍の殿を
「ここはガンディオン。ガンディア最大の都市にして
ファリアの台詞に、セツナははっとした。そちらを振り返ると、ファリアが、寝台の寝具からみずからの顔を引き剥がすかのようにして起き上がるところだった。
「おはよう。目覚めの気分はいかが?」
「おはよう。悪くはないよ」
ファリアの上体を起こすなりの一言に、セツナは、即答で応じた。彼女の胸が大袈裟に揺れたのは、なんとかして黙殺する。
「ガンディオンって?」
問い返しながら、上体を起こす。寝台の上と椅子の上。セツナとファリアの目線の高さはあまり変わらなかった。
「うん、悪くないならよろしい。そ、ガンディオン」
ファリアはにこやかな表情だった。彼女は寝起きが良いほうなのだろうか。だとしても、起きて早々、妙に元気だと思わざるを得ない。
ふと、セツナにひとつの疑念が過ぎった。それは、口に出すだけでとても恐ろしいことだった。しかし、彼女の愉快な性格から考えれば、可能性のない話ではない。
「ひとつ聞いていいか?」
「なによ? 改まって」
不思議そうな顔をするファリアに、セツナは、おずおずと尋ねた。
「もしかして、ずっと起きてた?」
「さっきまで寝てたわよ」
ファリアが
「そっか」
「なんか胸元に熱量を感じたけど、あれは夢よね」
「……さあ?」
こちらの心理状態を見透かしたかのような追い討ちに、セツナは、胸中でうめきながらすっとぼけてみせた。
彼女は彼女で、意味ありげな表情をするでもなく、ただことさらに不思議そうに自分の胸元を見下ろしていたのだが。
「それだけ?」
「いやいや、ガンディオンって? バルサー要塞は?」
「要塞は奪還したじゃない。覚えてないの?」
「そうじゃなくて、放っておいていいのか?」
問い返しつつも、セツナは、脳裏で首を捻った。
バルサー要塞は奪還できたのか、どうか。
少なくとも、ログナー軍を撤退にまで追い込んだことは確実だった。
そのために数百人の兵士が
彼女の言い様から察するに、要塞は奪還したのだろう。
では、ログナー軍はどこへ逃げたのだろう。
要塞に逃げ込む前にガンディア軍に蹴散らされたのだろうか。
(それはない……か)
ログナーの殿を殲滅したあとのガンディアの兵士たちを思い返せば、一目瞭然だった。遠巻きにこちらを見ていることしかできない連中が、撤退中とはいえ、実力で勝るというログナー軍を攻め滅ぼせるとは到底思えなかった。
ならば、要塞を捨てて本国に帰ったのだろうか。
理由はわからないが、それが一番しっくりくるかもしれない。
「まさか。アルガザード将軍と千五百名の兵が要塞に残ったのよ。ま、牽制よね。今回の戦いで、ログナーはかなりの痛手を負ったもの。即座に軍を再編して打って出てくる、なんてことはないでしょうし」
「ふうん。で、陛下は? それと団長たちのことも教えてくれ」
「質問ばっかりね。まあ、きみは寝てたから仕方ないか。陛下は、わたしたちと一緒にガンディオンに戻られたわ。そのときの歓迎っぷりたら
「そ、そうなのか……」
セツナは、ファリアの
それこそ凱旋パレードのようなものがあったのではないかと思えたからだ。紙吹雪も舞っていたのではないか。歓声が飛び交ってもいたかもしれない。
道という道を、ガンディオンの人々が埋め尽くしていたのだろう。
レオンガンドの優美な姿は、とてつもなく絵になったに違いない。音楽隊の奏でる旋律が、兵士たちの心に勝利の歓喜を植えつけたのなら、それはきっと素晴らしいことだが。
そのような妄想から現実に帰還したセツナは、目の前の女性が、結構うらやましくなったのだった。そして、気を失った自分がとてつもなく恨めしく思えた。悔やんでも悔やみきれない。王都への凱旋など、そうそうあるものでもないような気がしたからだ。
「それはそうよ。ガンディアのうつけという汚名を返上した上に、バルサー要塞を取り戻したことでガンディオンの護りは
「まあ、そうなのかな」
「ガンディオンの人々は不安が払拭されたことで、陛下を歓迎する気になったんでしょうね。だからといって、すぐさま支持が得られるわけでも、人望が集まるわけでもないとは思うけれど」
やれやれ、とでも言いたげなファリアの様子に、セツナは、腕を組んだ。眉根を寄せる。
「なんつーか……よくわからん」
「きみには関係のない話だもの。わたしにも関係のないことだけど」
「いや、そもそも、なんで陛下はそんなに嫌われてるんだ?」
「それは……本人に聞くのが一番じゃないかしら?」
そう言って微笑するファリアに、セツナは、唖然とした。予期せぬ返答だった。
「えっ……?」
そして、素顔の彼女の微笑が、いつも以上に素敵だという事実に気づき、呆然とする。気づくのが遅すぎたのだとすれば、それは、セツナが話に夢中だったからに他ならない。知りたいこと、知るべきことがあれば、そちらに意識が集中するのは当然なのだが。
いまは、ファリアの笑顔に
「陛下がご自身の置かれている状況を一番理解しているでしょうし、ね。陛下もきみに会いたがっていたもの」
「おれなんかが王様と会うなんて、簡単にできるものかな」
とはいったものの、セツナは、ついこの間まで平然と王様と会話していたことを思い出していた。しかし、あれはたまたま偶然街中で出逢ったからであり、普通ならば考えられないことではなかったか。
事実、マルダールから戦場へと出発してから、一言たりとも言葉を交わす機会などなかった。
それが普通なのだ。
「ま、それもそうね。でも、機会はすぐに訪れそうだけど」
「ん……?」
意味ありげに笑うファリアに、セツナは
こちらの反応を知ってか知らずか、ファリアは、淡々と続けてきた。
「《蒼き風》の人たちは、しばらくバルサー要塞に留まるって言ってたわね。契約の延長がどうとか」
「そうなのか……」
「あら、気に入ったの? あの人たち」
「そりゃあ、一緒に戦った仲間だし……」
肩を落とすセツナの脳裏に浮かんだのは、豪快に笑うシグルドの野生的な面構えであり、ジンの理知的な横顔であり、ルクスの
彼らは強く、そして、どことなく朗らかだった。とても歴戦の猛者とは思えないところがあった。いや、シグルドは見た目からして
「仲間……ね」
ファリアの憂いを帯びた一言に、セツナはきょとんとした。
「なに?」
「彼らは傭兵よ?」
「それは知ってる」
当たり前のことを言われて、セツナは渋い顔になった。そんなことは言われなくてもわかっていることだ。だが、だからなんだというのだろう。
「つまり、きみの敵になる可能性も十分にあるってことよ。仲良くなりすぎると、後々辛いわよ」
冷ややかな声音だった。
しかし、こちらのことを心配しての忠告だということは、そのまなざしから痛いほどわかった。だからこそ、セツナは、不意に彼女が椅子から立ち上がったことに驚いたのだ。
「先生、呼んでくるわ。きみの意識が戻ったら呼ぶように言われているのよ」
そう言って部屋を後にしようとするファリアの背中は、なぜかとてつもなく寂しげに見えた。
セツナは、いますぐベッドから飛び降りて、彼女を抱きしめてあげたくなった。しかし、そんなことをすれば、なにもかも一瞬にして崩壊してしまうような気もした。知り合って間もない年下の少年に抱きしめられて、喜ぶような人間ではあるまい。
だから、口を開いたのだ。
「ファリアも?」
「ん?」
こちらを振り返ったファリアの横顔が、息を飲むほど美しかった。声が詰まる。言うべき言葉を一瞬見失って、セツナは
空気を求めて、
微風に揺れるカーテンの音だけが、その間を埋めた。
「ファリアもいつか、おれの敵になったりするのかな?」
セツナの問いが空中に浮かび、静かな波紋となって広がっていく。今尋ねるようなことではなかったのかもしれない。しかし、それ以外の言葉でファリアの意識に触れることなどできないような気がした。
いや、そもそも彼女の意識に触れようなどと考えるのがおこがましいのだ。だが、それでも、セツナは問いかけずにはいられなかったのだ。
もはや衝動に過ぎない。
そして。
「……なに言ってるの? セツナって、馬鹿? ひょっとして馬鹿?」
ファリアが、あきれたような半眼をこちらに注いできたことに、セツナは、歓喜さえ覚えたのだった。自嘲とともに、告げる。
「ひょっとしなくても馬鹿だよ、おれは」
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