3月9日のアザレア

柔草 京都

序章 私の心に、君の面影を


『英雄なんていなかった。いたのは殺人鬼だけだ』


 幾千の大観衆の中で、誰かがそんなことを叫んだ。

 一瞬のどよめき、次いで沈黙が場を支配した。彼我の境目も曖昧に、誰もが音の発生源に目を向ける。それは年端もいかぬ少年だった。その身に余る激情に全身を打ち震わせ、比喩として断頭台にあがる私を憤怒の瞳で見上げていた。

 はて、そのとき私の隣にいた彼は何を思ったのだろうか。

 自らの選択を間違いだったと嘆いたのか、自らが受け入れるべき贖罪だと吞み込んだのか。それとも、そのどれらとも似つかない虚無と吐き捨てたか。

 長い瞑目をする彼の表情からは、一切の感情を読み取れない。だから私は推し量ることでしか、その絶望の一端を掬い取ることができない。――彼は、贖罪の羊。永久に語られるべき真の英雄。歴史に殺された人類の希望。

 誰が想像できただろうか。この結末を。この運命を。かつての英雄の失墜を。

 少年の叫びが導火線のように皆の感情に火をつけた。良心の呵責で揺れる人々の趨勢はあっという間に怨嗟に塗りたくられ、怒涛の罵声となって彼へと注がれる。

 悪辣無比な暴言の嵐にさらされてもなお、彼は微動だにしない。けれどやがてその時が訪れた。哀しそうに眉を寄せて、私に優しい目配せをして、彼は手錠で繋がれた両手を天高く持ち上げ声高らかに笑った。大衆に動揺の輪が広がると同時、彼の体はその場からはたと消え去り、ごとりと手錠だけが台上に転がった。

 瞬きの間だ。遅れて打ちあがった悲鳴の先に彼の姿は再見していた。後退りする大衆に彼と少年の二人は取り残され、ぽつりと空いた台風の目の中で、彼は少年と目線を合わせるべく膝を屈した。

 大衆の目に見守られながら繰り返された二人の会話。彼は少年に何度も頬を叩かれていた。

 誰もが固唾をのんでいる、少年の力ない平手が哀しい空砲を打ち鳴らしていた。

 すでに彼の周りには観衆ではなく、機動隊が厳重に取り囲んでいる。だが、彼の顔に動揺の色はない。冷静すぎるともいってもいい。ついぞ感情の読めない鉄仮面に少年は体勢を崩し、彼に倒れ行く胸部を抱き留められる。彼は少年の耳元に囁きを落とす。何を言ったか、真っ赤に血相を変えた少年に再度横面を打ちぬかれた。

 たまらず薄情な笑みがこぼれる。彼はなぜだか嬉しそうに見えた。

 やがて死力を尽くし、肩で息をする少年を彼は突き出した片手で制した。幾分としゃがんでいたとは思えないほどに、彼は淀みなく立ち上がり、先程から自身を追跡し全国へと中継していたカメラを探し当て、彼は覗き込むかのように遠巻きに視線を送った。

 片手をあげて、不遜な態度で腹を抱えて、嗤いの反動でたたらを踏む。

 刹那、腹底から煮えくり返るような殺気が世界に沸き立った。文字通り、この場だけでない世界規模での激昂だった。

 そいつを殺せ、と屈強な男が叫んだ。私たちの平和を取り返して、と見かけばかりの淑女が嘯いた。穢れを知らない子供たちが身に覚えのない悪口雑言を、死んでください、と口々に大合唱した。

 ――果たして世界で最も優しい彼は、その美しい双眸で一体何を見ているのだろうか。

 世界に喧嘩を売るようなその嘲笑は、私には身も世もない彼の泣き声にしか聞こえなかった。

 口元だけの愛想笑いで、彼は開戦を宣言した。


『僕を殺してみろよ。そうだ、英雄はたった今死んだんだ』


       †


 彼女の口ずさむ童謡は、諳んじることを誇りに思うかのように陽気で、されど底の見えない淋しさに声音が震えてしまうほどに儚かった。


「……通りゃんせ。通りゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神さまの細道じゃ。

 ちっと通して下しゃんせ。御用のないもの通しゃせぬ。この子の七つのお祝いに。

 お札をおさめにまいります。行きはよいよい帰りはこわい。こわいながらも。

 通りゃんせ。通りゃんせ~」


 夕刻。西に傾いた日差しが肩で風を切るように歩く彼女の横顔を捉えていた。体のいい鼻立ちはその影を美しく顔に落とし、長い睫毛も同様にその顔立ちを怜悧に際立たせる。

 彼女は銀髪の麗人。堅苦しい表現を消して言うならば、まさに純潔の美少女という出で立ちであった。鎖骨下、胸元まで伸びる長髪は照りつける西日を艶めいた輝きで湛え、切れ長の目は彼女の意思の強さを物語っている。身に纏う衣装は夏とは思えないほどの厚い生地で覆われたセーターに、くるぶしまで伸びるロングスカート。一見するとディテールに凝った服であったが、廃れた排気の香るこの場には似合わない装い。

 それでも、彼女にとってはなんら関係のないことであった。彼女にとってこの服は大切な彼からの贈り物であり、彼女にとっての宝物であったから。最後はこの服を着て締め括ろうという健気な思い、彼女にとってのエンディングドレスだ。

 刺すような腐敗した匂いが鼻腔に強く感じられるようになった時、彼女の歩みは格段に遅くなった。祈るように顔を上げた彼女が思い馳せるのは、情けない自身の弱音。

 奥深くに塞ぎ込んでいたはずの、心の本音――――


 ――思えば、なんともあっけない別れだった。

 今更になって、後悔が胸の内から湧き出てきた。


 もっと話をしておけばよかった。

 もっと感謝を伝えておけばよかった。

 もっと笑っておけばよかった。

 もっと、好きを伝えておけばよかった。


 カッコつけるなんて私には似合わないくせに、どうしてあんなことを言ったのだろう。

 終わってしまった日常を何度も思い返しては感傷に浸っていた。楽しい記憶、悲しい記憶、嬉しい記憶、怒った記憶。

 どれも平穏な記憶ではないけれど、かけがえのない大切な思い出たちだ。

 失ってはじめて、その大きさに気が付いた。

 あんな虚勢を張ってしまった私はきっと稀代のペテン師なのだ。みんなを安心させようと気丈に振る舞った結果が、情けない今の私の姿。

「……はははっ」

 たまらず乾いた笑いが込み上げた。どうにもならないことを、いまもずっと考えている。

(――ほかの選択は? ほかの方法は? 何かひとつでもなかったの?)

 奥歯を噛みしめて、がちりと鈍い音を鳴らす。

 私はバカだ。バカ野郎だ。どんなに考えたところで、きっと結論は変わらない。私だけがそう確信できる。他人が犠牲になるくらいなら、私が犠牲になったほうがいい。その相手が大切なヒトなら、なおさらそうだ。

「……いいや、違うね」

 結局のところ、私が自ら望んだことなのだ。彼の反対も押しきって、私が選択した道だ。

 後悔するなんてお門違いもいいところだ。

 だからこれは、私の幼稚な自己との最後の争いであり、最後の決別でもあった。

「……ほんと、バカみたい」

 私はかけがえのないほどの愛を、彼から受け取った。

 いまの私があるのは、間違いなく彼のおかげ。諦めないための勇気も、彼から貰った。

 これ以上は、きっとないじゃない?

 この瞬間は終わりへと向かう最後ではなく、始まりへと向かう最初の一歩だ。

 私の恩返しは、ここから始まる。


       †


 ぬらりと彼女の頬を撫でるように一筋の雫が伝った。冷たいような、くすぐったいような感覚に導かれるように彼女は天を仰ぐと、その直後、夕立のように激しい雨滴が彼女の顔を叩き始めた。

 ――そういえば、今日の降水確率は高かったな。

 自分で確認したわけではない、言伝に聴いただけの話だ。関係のない話だと高を括っていただけもあって、なんとはなしに悲しくなった。

 篠突く雨に耳朶を激しく叩かれ、いやいやと何度も顔を振る。けれどやがて前方に浮かび上がってきた光景に、彼女の現実逃避もほどなくして終わりを迎えた。

 目の前に現れたのは、見上げるほど大きな旧特殊建築物。外壁は白で塗りたくられ、窓枠などは一切存在しない。外観は病院のようであったが、来るものを拒絶する重厚な鉄扉――威圧を放つ正面玄関に、その思いは一瞬の間に突き返された。

 現在は廃墟であるそこは、彼女が目的とする建物だ。

 勝手を知る彼女は眼前の鉄柵をひょいと容易く飛び越え、いとも簡単に敷地内へと侵入する。そのまま外周をぐるりと一周し、施設の裏口を目指した。瞥見する視界の端々に映るのは蔦の這う古びた外壁に、風化の進行により各所で穴の開いた外装。

「……うわっ」

 裏手にたどり着いた彼女が鍵穴の原型を失ったドアノブを引いたところ、それはバキリと弾みをつけて外れてしまった。手に掴んだままのドアノブと、その形に穴の開いたドアを交互に見やって、彼女は困惑顔を浮かべた。


 一歩踏み入った内装は、いかにも廃墟と呼ぶに相応しい有り様だ。繁茂した雑草が通路に憚り、コバエが宙を飛んでいる。外光の入らない通路というのも、深夜の病棟のように暗く剣呑な雰囲気を助長させていた。

 自身の足音だけが低く響き渡る構内。大地を叩く雨音はもはや遠く背後に隠れはじめ、孤独な呼気だけがじんわりと空気に溶けていく。世界に自分だけが取り残されてしまったかのような寂寥感に苛まれそうになるが、肌を刺すような冷気が彼女に無人の気配を否定させた。

 僅かだが真ん中の通路が、人が通るように整備されている。

「ビンゴ。確定だね」

 壁伝いに構内を散策した。時折ぼろりと塗装に使われていた漆喰のようなものが剥落し、その度にうんざりと顔をしかめる羽目になった。

 仄暗い通路だったが、奥に進むにつれて穴の開いた外壁の隙間からうっすらと光が差し込むようになった。やがてたどり着いた突き当り、彼女は左へと舵を切る。

 ――果たして三週目。

 ゆっくりと構内を三週した時、彼女は帰ってきたその突き当りで立ち止まった。

「……おかしい」

 外から見上げた巨大な外見とは裏腹に、中には上階や下階へと繋がる階段が一向に見当たらない。意図的に隠されているのではないか、そんな考えが頭をよぎる。

 目を閉じ、一息に空気をのみ込んだ彼女は、前方の内壁に向けて右腕を平行に突き出した。右手首に装着されていた小さな端末は淡い光を壁に照射し、この建物の見取り図とも呼べる画像を映し出す。

 しげしげと見つめる赤い線で囲まれた地点――地下三階、それが彼女の目的地だ。

 このデータは過去の記録。偽装工作が施されているであろう現在でどこまで参考になるかは未知数だが、きっと大まかな目安にはなるはずだった。

 彼女は脳内で推察する。これまでにたどってきた道筋を、三週の間に見てきた光景を、眼前の図面と照らし合わせるように透かして覗く。

「……はあ、呆れた」

 両手を広げながら肩をすくめた彼女が導き出した結論は、通り道などないということ。

 違和感の生じた地点は三か所。そのいずれも構内には見当たらない。予想通り、意図的に隠されているとみて間違いなかった。

 端末の電源を切り、腕から外す。カツカツ、カツカツ。踵を鳴らして、彼女は辺りを見回すように首を捻る。睨むように視線を回した彼女は次の瞬間、右手に握りしめた端末を床に向けて思い切り叩きつけた。ガシャンッ‼ 端末が衝撃で粉々に砕け散る。

 彼女の足元を起点に広がったガシャリという破壊音はぐるりと構内を一周し、複雑に反響して彼女のもとへと返ってきた。

「……一秒弱。思ったより広いね、やっぱり」

 粉々になった端末の残骸を見下ろしながら、カウントをしていた彼女は小さく呟く。

「床の強度も、結構ありそう」

 劣化しているのは内装だけであって、建物の強度自体に影響はないようだ。ふむ、と下唇に指を押し当て思案する。これは偶然か、それとも意図的か。

 過去のこの建物の用途が不明であるため断定はできないが、違和感を抱かざるを得ない。

「まぁ結局、簡単に通すつもりはないってことなのかな」

 改修工事も施されているようだ。それも表面上からは分からないように、裏側――壁裏から秘密裏に。この分だと、下層に向かう階段も徹底的に潰されているに違いなかった。

 あまりにも用意周到な歓迎に思わず嘆息する。はじめから彼女が来ることを想定していたかのように、どこまでも無防備な装いは、挑発じみた予感さえ彼女に抱かせた。

「……時間切れ。やっぱり強行するしかないよね」

 左手に巻いていた腕時計さえも外して、雑に踏みつけた。パキリと割れた硝子の残響を追いかけるように、彼女は片目で虚空を睨みつける。

「……ふぅ」

 浅く呼吸を繰り返す。むせ返るような埃の匂いと、肺をさすような冷たい空気が胸を締め付けた。自らが吐く白い息も、今なら埃のように見える。

 地道に一か所ずつ確かめていけば、いつかは見つけられるかもしれない。

 ――けれど、そんな悠長にしていられるはずもなかった。

「うわ、やだな。絶対バレるじゃん」

 快適に、安全に、確実に、をスローガンとしていた彼女は、自身がこれからする行動に対する落胆を隠さずに鼻先をこすって苦笑う。冷たい死人のような鼻先だ。

「でもいいじゃん、どうせ忘れちゃうんだし。気張ってこーぜ、私」

 顔を上げて気持ちを入れ替えるように頬をパンッと叩いた彼女は、肩幅に両足を開いて深い呼吸を繰り返す。全身に滞る倦怠を追い出すように、肺に溜めた空気を爽気に一新させる。

 ガチッと全身に熱が流れた瞬間、一息に真名を吐き出す。

「 【ジュラティオ】 」

 刹那、彼女の体は燃え上がった。しかしそれはあくまで幻影による視覚の錯誤であり、実際に燃えているわけではない。けれど確かに存在を露わにした緋色の輝きは、名状しがたい熱量を辺りへとまき散らし、じりじりと物質を焦がすに至る。暗闇の中に灯る唯一の光源であるその輝きは瞬く間に広がり、明瞭に辺りを照らし出す。

「時間にして十分。間に合わせなくちゃ」

 やがてじんわりと熱を放つ煌めきは彼女の右足首に収束し、己が武器として顕現した。ミサンガ――彼女の足首に巻かれ、はためく情熱を内包したそれは彼女の願いに呼応し、覚悟とともに天高く振り上げられる。その右足に灯る輝きが爆発した瞬間、彼女は床に向けて渾身のかかと落としを叩きつけた。

 耳をつんざくような衝撃に震源地である彼女の足元は崩れ落ち、はらり下層へといざなわれる。

 彼女が狙い通りの下層へと降り立った時、そこには見違えるほどの整備された空間が広がっていた。多目的ホールのように幅広にくり抜かれた一室に、四方に際限なく伸びる通路。選択を迫るような威圧に心臓がきゅっと音を上げる。彼女が異変に気付いた時、前方最奥から迸る帯状の赤色灯が彼女の全身を染め上げた。

(……やだね、うんざりしちゃうよ)

 状況から見ても明白なのだが、ものの見事にバレバレだった。

 あれだけド派手に壊したのだから、見つからないわけもないだろうが、ここまで盛大な歓迎をされると少々気が引けてしまう。

「……でもこのくらい切迫してたほうが、最後って感じがするよね」

 けたたましいまでの警報音サイレンにその身を包まれながら、ニヤリと笑って彼女は駆け出した。


 障害も、喧騒も、葛藤も、すべてをかき分けて。

 皮膚が裂けた。火傷にびらん面を呈した。骨が折れた。腕がちぎれた。

 けれど彼女は一度も振り返ることはなかった。

 それは彼女の意思の強さの証明でもあり、大切なヒトとの約束でもあったから。


 ――彼女が目的地に着いた時には、もはや生きているのが不思議な状態だった。

 金属製の仰々しい観音扉を半ば体当たりの様相で押し開けて、転がるように部屋に入り込んだ。悲壮と咽ぶ体をねじって右腕だけで上体を起こす。気付けば左腕はもはや存在していなかった。

 彼女は首を振って室内を見回す。視界が血で深紅に染まり、靄がかかったように判然としない。ほどなくして、なんとか結んだ焦点が闇に煌めく電光を見つけた。前に一つ、左右に二つ。おそらく周りに浮かび上がる多様な輝きはパソコンなどの電子機器の何か、ならば彼女の目標とする装置は中央に浮かぶ巨大な明かりの他にない。

 彼女は片足を引きずりながら、這うようにして目標である装置の目の前にたどり着いた。睚眥と顔を上げ、横に垂れる幾重ものケーブルに爪を突き立て体を引き上げる。装置上の作業台らしきスペースに腹部を押し付けて、彼女はかろうじて上体を支えることに成功する。眼前に広がる光景に目を落として数秒、あらかたの装置を検めた彼女は口にくわえていたメモ用紙を操作台――電子パネルの上に落とした。

 右手でなんとか広げたメモ用紙を頼りにコントロールパネルを立ち上げると、要求された生体しもん認証を特別なインクでコピーしたプリントを装置に押し付け突破。次いで要求された秘密の質問secret question、パスワードの三重の認証をパスして画面をフリックする。

 そして切り替わる画面、そこに用意されていたのは空白の蘭。スラッシュで区切られた入力画面が言外に伝えてくるのは西暦の設定だ。

 待ちわびたその瞬間に、歓喜に沸く彼女の心臓はドクリと大きく拍を打った。荒くなる呼吸に、波のある頭痛が彼女を苛んだが、奥歯を噛みしめて遠のく意識をなんとか繋ぎとめる。


『 二〇三〇年八月三十一日 』


 彼女のか細い指先が最後の一文字を入力し終えた時、ゆっくりと表示が切り替わる。画面の明かりが事切れるかのように薄くなり、やがて暗転。打ち終えて手を離すと、いつの間にか彼女の周りには薄い半透明の膜がその身を覆うかのように現れていた。

(初めて見る物質だ。一体なんなのだろう?) 

 へたり込むように装置に背を預けて思案する彼女の正面、この部屋の入り口である観音扉が開いた。

 ……誰かが入ってきたみたいだった。けれど、視界が悪いせいで何者なのかも分からない。矯めつ眇めつ眺めたところで、一向にその黒いシルエット以上の情報を得ることは叶わなかった。まぁ、でもそれは些細な問題に思える。こんな所にいるくらいだ、関係者なのは間違いないだろう。

 彼女は馬鹿にするみたいに右手を持ち上げて、ひらひらと掌を躍らせた。

「残念だったね。もう起動しちゃったよ」

「――――」

 入ってきた誰かはもごもごと口を動かし、何かを言っているようだった。

 しかし、何も聞こえない。この膜には遮音効果でもあるのだろうか。それとも自分の聴覚がもはや機能していないのか。

 それならば却って好都合だ。杜撰な雑音など聞こえないほうがいい。

「次に会うときは、こんな馬鹿げた組織は潰れてるかもね」

「――――」

「せいぜい抵抗してみなよ。私とあのヒトが、絶対あなたたちを潰してみせるんだから。たとえどんなにっ、刺客を、送って……ウッ、ゴホッ‼」

 この際だから、ありったけの虚勢を張ってみようとしたけれど。それも限界みたいだ。

 瞬間、体がふわりと宙に浮く感覚。水中や無重力とは似て非なる、自らの意識、果ては存在の根底から摘み上げられているような錯覚だ。

 きっと転送が近いのだろう。これで、この世界とはおさらばだ。目の前のこいつらとも、愛しのあのヒトとも。この世界にあるすべてと、さよならだ。

 ――だからせめて、最後に、この世界に、運命に、喧嘩を売ってやる。

 軽く握った右手に、唯一ピンと突き立てた親指を下に向ける。

「地獄に落ちちまえ、くそ野郎」

 透明の膜がパンと弾けた瞬間、彼女の意識は遠く遥か彼方へと吹き飛ばされた。

 曖昧に溶け込む意識の果てで、彼女の存在は薄く伸ばされ、伸ばされ、伸ばされ、

 この世から跡形もなく消え去った。

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