テイルズ・オブ・サン〈セット〉
GameMan
第1話
『テイルズ・オブ・サンライズ』、通称『TOS』。それはゴマダンゴ先生によって書かれたラノベのタイトルである。
『TOS』のジャンルはハイファンタジー。主人公のネロ・ノーチラスが異世界の学園を舞台に活躍するストーリーとなっており、剣と魔法をメインの要素として扱う王道な設定に加え、複雑な心情描写を分かりやすく描いているため幅広い層の人気を獲得した。メアリスとミリエスタという魅力的なヒロインも人気の一つだろう。
第1巻は即重版が決定し、続けて2巻と 3巻を発売。豪華声優によるボイスドラマも投稿され、ストリーミングも順調に数字を伸ばしている。主要キャラの性格と声が絶妙に合っていて素晴らしい起用だとニュースに取り上げられることとなり、またもや世間の人気を博すことになる。
更には公式からアニメ制作中の発表がなされ、ボイスドラマの声優を続投するということで、ネロ役の声優が先日コメントを残していた。
そんなネロが、鏡に映る自分の顔を眺めながら呆然としていた。
「いやっ、えっ? ……は? なんで俺がネロの顔に?」
顔をペタペタと触り、頬を強く抓ってみるが痛みが走るだけで夢が覚める様子はない。肌の質感も本物のそれで、VRの一言で済ませるには五感で受け取る情報量が多すぎた。
目に映る、手で感じる全てが、この世界を
本物だと語っていた。
「お……俺の名前は音桐アザミ。地球の日本に住んでて、それで、それで……俺は何をしてたんだっけ」
アザミは首を傾げた。鏡のネロはそれに追随して首を傾げる。
「ヤバい。直前の記憶が全く思い出せん。音桐アザミがとんな人間なのかは思い出せるんだが……」
取り敢えず辺りを見渡してみる。
アザミがいたのはとある寝室で、一つのベッドが面積の大半を占め、賞状やトロフィーを飾る棚が立っているだけでそれ以外に特色はない。寝室と言うよりも、学生寮の一部屋と表した方がいいだろう。
今は外出用の服に袖を通し、棚の隣にポツンと置かれてあった鏡で身嗜みを整えている最中だった。
鏡が何かしら関わっているのではと思い再度覗いてみるが、ラノベ主人公定番のイケメンフェイスが映るだけだ。とても不思議現象が起こるようには思えない、至って普通の鏡。
そしてこの部屋には見覚えがあった。といっても現実で見たわけではない。創作物の中でだが。
「部屋を出てみよう」
自分の予想が合っているのか確かめるために、アザミは部屋の外へ足を踏み出した。
陽の光の眩しさに目を細め、太陽に向けて手をかざす。暗闇に慣れていた目が明るさに慣れてきた頃、やっと景色が見えてきた。
そしてアザミは、自分の予想が正しかったことを知る。
「……間違いない、マグラドール学園だ」
瞳に映る古城に似た豪奢な建物は、『TOS』の舞台となる学園。主人公のネロや、ヒロインのメアリスとミリエスタが活躍する場所。
現在地は学園に隣接する男子寮の渡り廊下。部屋を出れば直ぐに外の空気と触れ合える。夏の陽射しが肌を突き刺すように振り落ちる中で、アザミは呆然としたまま呟いた。
「ここは『TOS』の世界で、俺はネロに転生してしまったってことか……」
アザミは自分の手の甲を見てみる。そこには十字の傷跡が残っていた。
『TOS』の読者であるアザミは当然、その傷跡が意味することに気付いている。
「これは確か……学園内対抗戦の時にネロが負った傷だ。メアリスの不意を突かれた攻撃を庇って手の甲を斬られてたはず。となると少なくとも今は対抗戦後。それも最新刊辺り。既にメアリスと付き合い始めてるのか」
学園内対抗戦とは、スリーマンセルのチームがフィールドで戦い合い、最後まで勝ち上がったチームが優勝を手にするトーナメント戦のことだ。1巻からライバル枠として姿を見せていたツルギとの決戦が描かれ、メアリスとミリエスタとで力を合わせてツルギに打ち勝つ様子は、本編で1番の盛り上がりを見せた。
その対抗戦後にメアリスがネロに想いを告げ、見事結ばれる展開となっている。ミリエスタもネロに淡い恋を抱いていたが、メアリスとの友情を優先して身を引いた。その後はきっぱり諦めたように描写されている。
つまり今のアザミは、メアリスと恋仲の関係である。
「どうすっかな……メアリスにバレないようネロを演じ切れるか? というか、これから何をするべきなんだ」
アザミは『TOS』の読者である。なのでネロとメアリスが交際を始めたことを知っており、二人のイチャイチャ具合も知っていた。
(そのカップルの間に一読者である俺が割り込んでいいものだろうか。ネロになれたのは非常に稀有な体験だが、特別この世界でやりたいことも無い……)
メアリスの前でどう振る舞ったものかとあたまをひねらせていると、丁度女の声が二つ、廊下の奥から聞こえてきた。
「それでツルギのやつが帝国に留学しに行ったらしいわよ」
「ボク達も負けてられないね。一回は勝てたけど、次は相手も強くなっているのだから」
アザミは咄嗟に柱の影に身を隠してしまう。やましい事は無かったのだが、耳に入ったその声に聞き覚えがあったもので反射的に体が動いたのだ。
そのままそっと覗いてみると、声の主の姿が見えて不意に息を呑んでしまう。
(メアリスとミリエスタだ……本物!?)
メアリス・サウステリア。赤と金のメッシュという目立つ髪色をしていながら、その色彩に劣ることない美しさを誇る顔立ち。白磁の肌は訓練中の陽炎に負けることなく乳白色に輝き、キリッとした目つきは若くして尚確かな自信を感じさせる。
騎士の家の出身で、天性の剣の実力は凄まじいの一言に尽きる。彼女に剣で並び立てるものは学園で数えるほどしかいない。鍛えられた肢体は全く歪ではなく、寧ろスポーティに健康的な快活さを放っていた。
ミリエスタ。肩まで伸びた青混じりの白髪をツーサイドアップに整え、黒いローブに身を包んだその姿は知的な雰囲気を纏う。実際に魔法学で優秀な成績を収め、得意な“魔符”を用いた戦闘面でも認められている。白髪と対照的な褐色肌が放つエスニックな雰囲気も、そのアンバランスさがミリエスタの魅力を引き立てていた。
胸部の双丘はローブを押し除け、服の上からでもはっきり大きいと分かるほどに膨らんでいた。待望の水着姿が公開された際には、多くのファンを熱狂の渦に包み込み、大量の金が動いたというのは有名な話だろう。
ホログラフィックやVRでは再現できない、あっと息を呑むほどの美貌。
『TOS』のヒロイン二人が肩を並べて歩いている様子に、アザミは興奮を抑えられなかった。感動が体を動かすままに、彼女達の前に姿を現す。
「め、メアリスとミリエスタ……だよな」
アザミに気付いた二人は笑顔で駆け寄る。
「あっネロだ。遅いよ。街に行くって言っておいて、ネロが遅れるなんてひどい」
「女性を待たせた挙句に迎えに来させるとは感心しないね」
アザミはネロの口調に揃えるよう注意していた。まだ二人が知るネロはここにおらず、アザミが話していると言うことに気付く様子は見られなかった。
「はは、悪いな」
「もう、ちゃんと反省してるの? これはお菓子を何個か奢ってくれなきゃ、気が治らないかもだよ」
頬を膨らませて可愛らしく腹を立てるメアリスが、あまりにも本編の描写とアザミの想像通りだったので少し感動してしまう。アニメ化が決定した『TOS』だが、誰より早く、更には生身で『TOS』の世界を味わえると言うのだから自然と気が昂ってしまう。
「分かってる。後で有名なとこに行こう」
「その話にボクも乗ってもいいのかな?」
気が昂っていた。『TOS』の世界で、ヒロインと話せて、興奮していた。……だからだろう、アザミの演技に綻びが生まれた。
「も、勿論だろ。それくらいの金は“俺”もーー」
瞬間、アザミが気付くよりも速くメアリスの剣とミリエスタの右手が動く。
ミリエスタの右手に握られた魔符が発動し、出現した氷塊によって身体が拘束される。メアリスが目視できないほど素早く抜刀した剣の切先が首元に向けられる。
「いっ!」
アザミは全く反応できず、終わった後に情けない声を洩らすのがやっと。
「キミ、誰かな。ネロの一人称は“僕”だ。こんな簡単なことすら間違えるだなんて随分と愚かな間者だね」
ミリエスタの鋭い目つきはアザミの背筋を凍らせ、開いた口をそのままに固まらせた。溢れ出る力が風を起こし、ミリエスタの髪を巻き上げている。
先程の興奮はとうに冷め止み、今は自分の四肢を拘束する氷塊と首元に突きつけられた刃からどう逃れるのかだけが頭を埋め尽くす。
「何故ネロの格好をしてるのかな。目的は? この時勢だと帝国からの差し金かな。まぁ何よりも、」
「ネロは……どこ。ネロは何処にいるの!」
ミリエスタの言葉を遮る形でメアリスが叫ぶ。恋人の居場所を吐くように威圧し、怒りと動揺で剣先が震えた。
冷静さを保っているミリエスタは、自身とは対照的なメアリス……激情に身を任せてしまっている彼女に同意するかのような視線を向け、一つ嘆息の後に質問を続けた。
「はぁ……そうだね。まずはネロの居場所を知るのが先だ」
アザミは未だに体を襲う恐怖から抜け出せていない。
平和な日本で生活を送っていれば、普通は向けられることのない人斬り包丁。それを殺意と共に向けられてしまえば、腰が抜けそうになるのも当然のこと。氷塊に身体を支えられていなければ、今にも体が崩れそうになっていた。
「うぐッ」
答えるそぶりを見せないアザミに対し、ミリエスタは脅すように氷の侵蝕を進めた。二の腕、肩、膝、太腿が凍り、遂に残すは首だけとなる。
だがそんなミリエスタの行動を制止したのは、紅蓮の一歩手前に届きそうなほどの寒さで正気を取り戻したアザミではなくて、
「待ってミリエスタ! ……氷結をそれ以上進めないで。これ以上は身体が壊れちゃう……」
メアリスだった。彼女から発せられた予想外の言葉に、ミリエスタは驚きで思わず聞き返してしまう。
「何故止めるんだい? ネロを騙る偽物に容赦なんて、」
「違う。違うの……わ、私は目が良いから分かる。この男はネロよ」
「……は?」
予想を更に上回る答えを返され、ミリエスタは呆けてしまう。氷結の魔法も解け、身体のバランスを崩したアザミが床に突っ伏した。
だがミリエスタはそんなアザミを意に介さず、メアリスへ聞き返す。
「キミも分かっているだろう。この男はネロの偽物だ。キミほど目は良くないけれど、私にだってネロの真贋くらいは……」
「違う! この男はネロだけど“ネロ”じゃない! 動きも言葉も“ネロ”じゃないのに、身体がネロそのものなのよ!」
メアリスは剣の天才だ。少女の身に余る剣才どころか、人間の動きや構造を見抜く目を生来備えていた。
だから分かってしまった。目の前の男がネロの体をしていながら、中身が愛しの彼でないことに。
「……ッ!」
ミリエスタもメアリスの言っていることが理解できたのか、視線をアザミに移しキッと睨む。
アザミも観念し、身の上を話した上で自分が把握できている内容を明かす。
「そうだ。……俺の名前はアザミ。信じられないと思うけど、さっき気付いたらネロの体に入ってたんだ」
例え自分の目がそう語っていても、信じたくなかったメアリスは、予想が的中してしまったことに悲しみで目を背ける。その手から剣が滑り落ちた。
当人の口から語られた事実に、ミリエスタは開いた口が塞がらない。それでも不安定なメアリスの代わりにボクが動かなければと、ゆっくり確認を始めた。
「メアリス、それは本当のことなんだね」
「私も嘘だって信じたかったわよ。でも見えちゃうんだから仕方ないじゃない……それよりもミリエスタ、貴方は魔法でなんとかできないわけ?」
「……ネロの魂を事前に観測していたなら、その足跡を追うことが出来る。そういう魔法は存在する」
「ならその魔法を、」
「……でもその魔法はまだ開発途中だったんだ。ネロの足跡は追えないよ」
言い訳じみた言葉を耳にして、メアリスは眉を吊り上げる。
「無理なら無理とそう言ってよ。中途半端な希望を持たせないで!」
「単に事実を述べただけだ。キミこそ、考えている最中に大声を出さないでくれ」
そこまでメアリスの声が大きかったわけではないが、ミリエスタにとってはキレられた仕返しのつもりだったのだろう。嘆息と共に煩わしそうな表情を浮かべていた。
その態度がメアリスの逆鱗に触れた。
「はぁ? なんで私が逆ギレされなきゃいけないわけ?」
「キレてなんかないさ。……私だって文句を言いたい。いつも先頭を突っ走るくせに、肝心な時には役に立たない女騎士様にね」
「ッ、貴方、今のはダメでしょうがッ!」
メアリスがミリエスタの胸ぐらに掴みかかる。
騎士のメアリスと魔法職のミリエスタでは身体能力に絶対的な差があった。当然、ローブで首を絞められる形になったミリエスタが苦悶の表情を浮かべる。
「選ばれなかった貴方と違って私はネロと付き合ってるの! 貴方の数倍数百倍、ネロに会いたいのよッ!」
メアリスの罵倒に対し、ミリエスタは何も返さなかった。威圧される姿勢のまま、そっぽを向いて、メアリスに向き合おうとしなかった。
「……あぁ、もしかして貴方がネロの魂を飛ばしたのかしら? 選ばれなかった悔しさと選んで貰えなかった憤怒でね!」
先程の意趣返しだろうか。ミリエスタにとって許されざる罵倒を飛ばしたメアリス。流石のミリエスタも無視の姿勢を崩し、横を向いていた目を戻して睨みつける。
しかし彼女は開きかけた口を閉じ、何も言うことは無かった。拮抗状態が続いた。
「……そう、話す気は無いのね」
ミリエスタがこれ以上話す気が無いのだと悟ったメアリスは、掴んでいた手をバッと勢いつけて離す。
よろけたミリエスタに目もくれず、メアリスは床に転がったままのアザミに近寄った。一瞬の躊躇いの後に、アザミの顎を掴み頭を持ち上げる。アザミはメアリスと目が合った。
冷たい視線だ。俺には微塵も興味がなく、その先はここに居ないネロのことだけを見つめている。……酷く、悲しい。
目が合っているのに自分を見られていないというのは、想像以上にアザミの心を締めつけた。なまじメアリスの愛を知っている分、理不尽な感情をぶつけられているのだと逃避することすら叶わない。
メアリスがここまでの激情を発露するのも当然だと考えている自分がいた。
「貴方……早くネロを戻しなさいよ」
いつの間にかメアリスが握り直していた剣が向けられる。再度首元に突きつけられ、彼女の気まぐれで首を刎ねられてしまう距離感だ。
刃が触れないよう注意しながら、アザミは首を横に振った。
「俺は、知らない。ネロの魂の居場所も、なんでネロの体に入っているのかも」
「嘘ね。早く方法を言いなさい。ネロの体だからって、私が容赦すると思ったら大間違いよ。彼の体を人質に取っても無駄」
「……知らない。本当に知らないんだ」
「嘘は無駄だって言ってるのッ!」
「っ、うグゥぇッ」
アザミは反応する暇なくメアリスに押し倒された。馬乗りの形になる。両腕を足で押さえつけられ、胴を無防備に晒してしまう仰向けの体勢。視界の隅で、床に座り込んで固まったミリエスタの姿が見えた。動く様子はない。
背中を打ち、首を絞められ、気分の悪い呻き声が漏れる。
何故、俺はマウントを取られているんだ。
変わらず首元に刃が向けられている。メアリスの目には怒り、戸惑い、悲しみ、寂しさ……様々な感情が入り混じり混沌としている。
メアリス自身にも、何故自分がアザミに伸し掛かっているのか理解できていなかった。
夢見ていたシチュエーションとは大きく異なる形で愛しの彼を押し倒し、剣を向け、脅す。
なんで私がネロに剣を向けてるの?
いや、目の前の男はネロじゃない。
偽物だ。
偽物なのよ。
偽物だから。
……でも体はネロそのもので。
誰よりカッコいい顔も、鍛えられた剣士の身体も、私を庇ってくれた時に負った手の甲の傷跡も。
全部、本物で。
「……お願い、嘘って言ってよ」
アザミの頬に一滴の雫が滾れ落ちた。
メアリスが泣いていた。
「ネロを取り戻せるんだって言って? ……これがタチの悪い冗談でもいいから。今ならドッキリって明かしても怒らないから……お願い、」
嗚咽と共に、吐き出すような。
「私からネロを奪わないでッ……!」
心からの慟哭に、アザミは何か言わざるを得なかった。
「お、れは……」
しかし、
「、痛ッ!」
メアリスの感情が大きく動き、剣筋も揺らいだ。手にした剣はアザミの首元を小さく斬りつけた。
アザミはぬめりとした液体が首元から流れ落ちるのを感じた。
深く切れていない。動脈を傷つけてもいない。少量の血液が流れる程度の小さな切り傷。
それでも“私”の剣が“彼”を傷つけてしまって。守るべき刃で、守ると誓った“彼”を傷つけて。
「ち、血、違うの。私じゃないネロじゃない。ネロじゃないから」
小さく痛みを漏らされてしまえば、
「わた、私が……ネロ、を?」
その手から剣が堕ちる。地面と踊るカランカランという軽快な音が、皮肉にも正解を告げるベルの音のようで。
「……ッ!」
メアリスは悲鳴にもならない声を上げて飛び退き、この場から走り去っていった。アザミが上体を起こして確認した時には、既に背中すら見えなくなっていた。
ミリエスタは膝を抱え蹲っていた。泣き声も嗚咽も聞こえないが、何も言わなかった。
ポツンと剣が取り残されていた。
誰も、“俺”を見てなかった。あれだけ話して、訊いておいて……メアリスもミリエスタも、音桐アザミという人間を見なかった。彼女たちの目には、ネロしか映っていなかった。
俺は望まれていない。望まれているのはネロなんだ。
……漸く、心から理解した。初めから勘づいていたけれど、逃げたくて忘れていた、たった一つの事実を。
どれだけこの世界で笑おうと、楽しもうと。メアリス、ミリエスタと仲を深めようとも。
俺はどうしようもなく世界の異物で、ネロの偽物で……邪魔者なのだと。
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