無題.2

 サブカルにどっぷりと浸っていた僕の彼女。特にとある漫画家にご執心であることは出会った最初から理解していた。


 だからこそ、普通の女とは違うことなどわかっていたはずだった。僕も僕で、二人ともが愛して止まなかった『あまりにもリアルすぎる救いようのない世界であるからこそ美しい』漫画に、ある種unrealな感性をもつ登場人物たちが出てきて、それがどのような運命をたどったとしても、読者の心に不思議な感動と共感の余韻を残していく、そんな読書体験のことを君と熱く語り合ったりはした。そしてそのお互いの感性の一致に陶酔した。


 彼ら(登場人物)はいわゆる世間から褒められる人たちでは少しもなかった。なにせ、真理のようにマッチングアプリを使うなどして、複数の異性と関係を持ち続け、性に飢え、溺れ、そして日常が崩壊していくような人たちだったのだから。でも、その出来損ないでありながら、等身大でもがき苦しむ姿にある種の快感を僕は覚えたんだ。


 彼らにはなれないが、彼らのように振る舞うことを疑似体験することで得られる、羨望のまなざし。彼らのように泥臭く、に向かって紆余曲折ありながらも進んでいけそうなへの憧れ。


 いや……


 まて。


 僕は一体、どうして彼らに憧れているんだ?


 憧れようとしているんだ?


 ……


 ……



☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 

 夕方。


 大学の講義はすべて終わり、僕はキャンパスにあるベンチにひとり座って行き交う学生たちをぼんやりと眺めていた。


 暇で周りをよく観察する余裕のある学生たちが、たむろしていたハトを脅かして、一斉に飛び立たせていた。


 そこには、平和な夕方な時間が流れているようだった。


 表面的にも見える平和が、あるようだった。



「ふぅ……。僕は真理のように物語の登場人物みたいになるつもりなんてさらさらなかった。物語ってそのためにあるのかな。真理が、彼らを目指すためにあるのかな。真理は……それでいいのか?」



 真理はおそらく、サブカルを拗らせて、大好きな漫画の彼らの生活に憧れている節がある。それは僕も一緒なのかもしれない。しかし、まさかそれを実現しているなんて思ってもみなかった。


 憧れと行動には天と地ほどの高低差がある。だからこそ、本を読んだ程度で人はそうそう変われないんだ。特に消費社会という現代において、多くの人にとって本のもつ影響力なんて、ただの個人の暇つぶし程度のものだろう。


 ライ麦畑でつかま●て、という本がとてつもないインパクトを与えたのは、おおよそ過去の話だ。そしてそれがインパクト足りえたのは、その当時の人々の性質があったからだ、時代の性質があったからだ。現代で出版されていたものなら、それはまた異なる反響を呼んでいた、もしくは全く売れないということもあったかもしれない。


 ……


 ……


 しかし、彼女は違った。影響を強く受けてしまった。実際にエンタメの域に収まらず、彼女はその人格をも変え、行動までをも起こしてしまった。



「真理はそれで僕が納得するなんて思っているんだろうか。その真理の生活を僕が受け入れるなどと、思っているのだろうか」



 いや、そんなこと思っていないだろう。真理は賢いやつだ。サブカルを愛し、サブカルに溺れるだけのことはあって、世の中に対してある種の冷えた、達観した視点を持ち得ている。


 だからこそ、真理は僕がそれを受け入れることはないと確信しているだろう。あいつはそういうやつだ。


 だから、隠している。絶対にそうだ。



「もしかすると……。あいつは、僕との関係性までをも、あの物語のような結末にしたがっているんじゃないか。あの凄惨な、結末へ……導こうとしているんじゃないか?」



 ……


 ……


 これは馬鹿げた話なのかもしれない。でも、人は時にあり得ないほど愚かなことをする生き物である。それは僕も例外ではないし、彼女も当然、そのうちに含まれる。


 誰もが愚かになりうる可能性を持っている。


 だが……



「はは、それは考えすぎか。ふぅ……。駄目だ。考えがぐるぐる同じところを回って一向に気持ちが晴れない。はぁ……」



 僕は少々、考えすぎているのかもしれない。


 僕がやることは一つに決まっているじゃないか。



「真理に聞くしかないか。うん、それしかない」



 夕焼けがキャンパスのなかを明るく照らしている。僕はそのなかに濃い影を落としながら、最寄りの駅まで歩いていった。


 今日、彼女とは映画館で落ち合うことになっていた。



「ふぅ……。まだ、確定したわけではないからな。あの男が画像を加工するなりして、僕に悪質な嫌がらせをしている線も考えられる。まだ、絶対だと決まったわけじゃない」



 長く伸びた影。


 前を歩く女性が、僕の長い影に気が付いて、後ろを振り返る。少しだけ早足になる。


 僕は少しだけ気まずい思いをしながら、今度は彼女の視界に影が入り込まないように、速度を落として歩いた。



「…………しかし。なんだ。僕はどうしてこんなにも冷静でいられるんだ?」



 学生たちが僕のことを次から次へと追い抜いていった。



【To be continued】

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