第四章 愛は定め 6
一言に学校と言ってもいろいろとある。
薄雲の通う学校は庶民の通う町中にある元寺子屋とは違う。
煌土国が将来のために人材を育てようと威信を賭けて設立した国立の教育機関である。
そこに通うには一定以上の学力か、財か、権力が必要だ。
珠ばかりが集められ、石のいない、そのような環境である。
もちろん学び舎は専用の建物が用意され、学びのための設備が整っている。
そして露草は、犯人についてわかったことがあると言って薄雲を呼び出した。
一人で来いとは言っていない。
目撃者を作り、露草が下手人であるとはっきりさせるのが依頼達成の条件だからだ。
尤も本日決行するという時点で依頼は達成されないのだが。
脱出のことを考慮して、学校裏門の近くを指定した。
正門には警備が二人以上いる。
だが裏門は基本的に詰め所に一人だ。
昼の鐘が鳴ってから少々、薄雲は数人の友人を伴ってきた。
いつもの面子だ。
薄雲を入れて五人。
退路を断たれないようにするために、露草はさりげなく裏門側に陣取った。
薄雲は彼らしくもなく、少し元気が無い様子だった。
「露草さん、こんにちは。僕の容疑は晴れたのかい?」
「はい。これまでの度々の失礼をご容赦ください」
露草は静々と頭を下げた。
これまで見せたことのない露草の殊勝な態度に、薄雲だけではなく、その取り巻きも面食らった様子であった。
「そうか。僕は情けないな。必ず元凶を見つけ出すと言っておいてこの
「仕方もありません。証拠は集められました。こちらを」
そう言って露草は鞄から書類の束を取り出した。
そこにはこれまで露草がねつ造してきた証拠の原本に加え、動機について記述した文書が揃っている。
あくまで露草のねつ造した自分勝手な動機ではあるが。
薄雲は書類を受け取って、目を通し始め、そして目を見開いた。
その瞬間、露草は鞄に隠し持っていた包丁で薄雲の首に斬りつけた。
素人っぽくて、なおかつ殺害の確率が一番高いのはこれだ。
包丁での刺突は浅くなる恐れもあったし、抜けなくなったら、二度目が無い。
頸動脈を狙って何度か機会のある斬撃が最も良い。
そして露草は素人ではない。
刃物の扱いは雛鳥の中では中の下程度だが、訓練を受けている。
触れられる距離で警戒していない、しかも別の物に注意を向けている相手であれば、初手を外すはずもない。
刃は正確に、そして十分に深く、薄雲の首を切り裂いた。
頸動脈が寸断され、血が噴き出した。
薄雲の衣服が赤黒く染まっていく。
取り巻き達は露草の突然の凶行に身動きが取れていない。
そのような中、薄雲だけが動いた。
彼は露草の肩を掴んだ。
両の手でしっかりと。
そしてあの露草が嫌いな曇りの無い眼で、露草の瞳を確認した。
「そうか、早く逃げなさい」
それだけを言い、薄雲は露草の肩を解放すると、その場に膝から崩れ落ちた。
露草は凶器を捨て、その場を走り去った。
取り巻き達は助けを呼ぶために叫んだが、追ってはこない。
詰め所から警備員が出てくる頃には、露草は裏門を走り抜けていた。
そのまま秘色との合流地点を目指す。
なぜかずっと視界がぼやけている。
それでも逃走経路は頭に叩き込んであり、間もなくして露草は辿り着いた。
そこではきちんと箱馬車が待機しており、秘色が御者台に座っていた。
露草が馬車に飛び乗ると、秘色は馬に鞭を入れた。馬車が走り出す。
客室の中には着替えが用意されていた。
露草は衣服を脱いで、そして返り血を浴びていたことに気が付いた。
着替えは露草が監獄を出たときに着ていた衣類だ。
露草は脱いだ衣服で血を拭うと、懐かしさすら感じるそれに袖を通した。
まだ視界はぼやけている。顔を拭った手は濡れていた。
初めて人を殺したことに衝撃を受けているのか、それともそれが薄雲だったからか。
露草には判断が付かない。
何度も深呼吸を繰り返し、心を落ち着ける。
心を制御する術は学んだ。
まず体を落ち着かせることだ。
肉体が落ち着いていなければ、心を落ち着かせるのは難しい。
やがて涙は止まる。
大丈夫だ。結局どちらかはわからなかったが、それでも自分は大丈夫だ。
露草はそう自分に言い聞かせる。
それから風呂敷に血の付いた衣服を入れて結び、馬車の窓から投げ捨てた。
事前の約束通り秘色は露草の手荷物を馬車に運び入れてくれていた。
鍵のかかった旅行鞄は、仕事道具の入った露草の大事な荷物だ。
「首尾は?」
御者台に向けて露草が首を出すと、秘色がそう訊ねてきた。
「上々!」
「良し。このまま黄都を出るぞ」
黄都には都市を囲うような壁はなく、出入りは自由だ。
防衛や防犯に問題がありそうな気もするが、黄都は直接戦火に見舞われたような歴史は無く、浮浪者を厳しく取り締まることで犯罪を防止している。
逆に言えば犯罪者が黄都から逃走するのを防止するつもりは無い。
露草を乗せた馬車は追手がかかることも、検問で止められることもなく、民家も疎らな農村部にまで辿り着いた。
そこからさらに進み、田園すら見当たらなくなると、秘色は馬車を止めた。
「降りな。碧浜まで送っていくのは無しだ」
「ああ、そう」
元々の契約は黄都脱出まで依頼主は手を貸すというものだった。
碧浜まで送るというのは露草が秘色とした口約束に過ぎない。
しかも露草は依頼主側の予定をぶち壊したのだ。
好待遇を求めるというのは間違いだろう。
それがわかっていたから露草は素直に旅行鞄を持って馬車から降りた。
「悪かったね。でも急ぐから」
そう言って立ち去ろうとした露草に秘色が後ろから声を掛けた。
「さようなら。露草」
その物言いに不穏なものを感じた露草は、咄嗟に振り返ることもなく横に跳んだ。
銃声が響き渡り、露草は咄嗟に旅行鞄を盾にしながら振り返る。
そこには馬車を降り、拳銃を手にした秘色がいた。
「ああ、クソ、避けるかよ」
「未熟な人員を寄越した組織への制裁ってところ?」
旅行鞄の鍵を開けながら露草は問うた。
返答は銃声。
秘色の手にあるのは連続で撃てる回転式弾倉の付いた拳銃だ。
弾丸は鞄に当たり、止まった。
「防弾だよな。いいか、これは予定通りだ。前に話した依頼内容には抜けがある。標的を殺した後、口封じのために消していい人員。依頼主が要求したのはそんな人員さ」
言いながら秘色は二発さらに撃つが、一発は旅行鞄が受け止め、もう一発は外れた。
露草は鞄の中から小刀を手に持った。
旅行鞄は露草を覆い隠してくれるほど大きくは無い。
弾が旅行鞄に当たったのは偶然に過ぎない。
向こうの装弾数は五か六だろう。
あと一発か二発。
露草はあえて旅行鞄から顔を覗かせた。
秘色は空かさずに撃ってくる。
旅行鞄に命中。
露草が頭を引っ込める。
それを確認したか、秘色は弾倉を開いて薬莢を捨てた。
ここだ!
露草は小刀を手に飛び出す。
別の銃を隠している可能性があるため、直進はしない。
右斜め前に距離を詰める。
回転式弾倉への再装填は時間が掛かる。
そう判断した露草の行動だったが、秘色の手にあったのは弾があらかじめ装着された簡易装填器だった。
一発を装填するだけの時間で、五か六発の装弾が終わる。
露草の接近よりも早い。
秘色が弾倉を銃身に押し込んで、銃口が上がる。
まだ刃が届く距離ではない。
露草は小刀を投げる。
投擲術は比較的得意だ。
秘色は身を捩って刃を躱さなければならなかった。
秘色は躱しながら発砲したが、露草からは大きく外れる。
露草は足を止めない。
もう斜めに距離を詰める時間ではない。
真っすぐに秘色に向かって走る。
秘色の目には露草が武器を失ったように見えただろう。
もちろん暗器を警戒はしているだろうが、その程度だ。
秘色が体勢を立て直し、今度こそ露草を仕留めようと銃口を向ける。
その瞬間、露草は跳躍した。
猫族の跳躍力は狼族には劣るものの、猿族とは比較にならない。
自分の身長くらいの高さまでは跳べる。
鴉族と鯨族を除く種族は地上で生活しているため、横への移動は咄嗟に対応できるが、縦への移動には弱い。
秘色の銃口が上を向くのも一瞬だけ遅かった。
だがそれだけだ。
跳躍した露草はもう弾丸を避けられない。
秘色はむしろゆっくりと露草を狙った。
距離が詰まっていたこともあり、秘色は確実に当たるという確信を持ったに違いない。その唇の端が上がるくらいの空隙があった。
発砲音、よりも一瞬だけ早く露草の体は空中にありながら左斜め下にすっ飛んだ。
旅行鞄に括り付けた鋼線を袖に隠した一縷で巻き取ったのだ。
防弾性能を持った旅行鞄は露草の体重ほどではないが、そこそこに重い。
空中にある露草の体を引っ張れるくらいには。
一方で露草が投擲した小刀は軽い。
右手の一縷で巻き取れば、たちまち露草の手元に戻ってきた。
露草が距離を詰めるのと、秘色が目の前で起きた異常事態から立ち直るのはほぼ同時だった。
露草が振るった小刀を秘色は刀を抜き際で受け止める。
「おもしれーもん、持ってんなァ!」
露草はキュウの忠告に従った。
両手首を打ち合わせると、留め金の外れた一縷が両手から落ちる。
秘色も拳銃を捨てた。
指の届く距離で露草は秘色に切りかかる。
こちらの獲物は小刀。
向こうは刀。
長さが違いすぎる。
一度距離を取られたら不利だ。
秘色が後退するのに食らいついて斬撃を繰り返す。
獲物の軽さもあって、露草が一方的に攻撃しているように見える。
だが実際に後が無いのは露草のほうだ。
一瞬でも止まれば負ける。
死ぬ。
斬る。斬る。斬る。斬れ!
「あんまり剣術の訓練してないな」
言い当てられ、露草は一瞬だけ動揺した。
ほんの一瞬。十分の一秒も遅れなかったはずだ。
そこに刃を差し込まれた。
肩を撫で切りにされる。
構わず斬りつけるが痛みで遅れた。
そのまま五回の撫で切りを喰らい、思わず露草は後退した。
幸い血管などには届いていない。
致命傷ではない。
だが痛みはあるし、血は流れる。
「あーあ、離れちまった」
露草は秘色を睨み付ける。
秘色の言う通りだ。
離れてしまった。
すでに秘色の間合いよりも離れていて、露草の間合いは秘色の間合いのその内側だ。
今度こそ撫で切りではない本気の斬撃が来るだろう。
それを潜り抜けなければ露草には手が無い。
秘色は刀を上段に構える。
恐らくは一拍の一閃を狙ってくる。
鉛丹から刀の基本技術にして、奥義だと聞いていた。
練度が高まれば高まるほど威力が上がる、と。
秘色はどれほどの使い手だろうか。
かつて煌土の裏社会で恐れられていたという全盛期の鉛丹ほどではないだろう。
だが露草の知る一拍の一閃は老いた鉛丹が手本として見せた一度きりだ。
それも自分が受けたわけではない。離れて見ていただけだ。
それでも凄まじい一撃だった。
あれを超える一閃が来ると思っておいたほうがいい。
受けるのは無理だ。
避けるのも難しい。
体で受けて、心臓を狙うか?
いや、相打ちでは意味が無い。
露草はこの後、碧浜に戻ってキュウと共に卒業試験に挑まなければならないのだ。
そのために薄雲を殺したのだ。
このようなところで躓くわけにはいかない。
露草は小刀を下段に構えて突進した。
受けて、反撃する姿勢だ。
秘色もそう思ったに違いない。
秘色の間合いに入る。
秘色が全身を使って一拍の一閃を繰り出す、その一瞬手前で露草は小刀を投げた。
下段から空気でも突き殺すかのように、秘色に突き投げた。
投擲術ではない、ただの振り上げのすっぽ抜けのようなものだ。
十分な威力は出ない。
秘色には体で受けて、一拍の一閃で露草を斬り捨てるという選択肢があった。
それは確実に露草を殺せる手だ。
だが同時に程度はわからないが自分も傷つく選択肢でもある。
そして今度こそ露草は武器を手放した。
これをいなせば、もう露草に武器は無い。
秘色はそう考えたに違いない。
秘色は拍を外して、小刀を刀で弾き飛ばした。
一拍の一閃は消えた。
露草は体ごと秘色にぶつかっていった。
それと同時に右手を左の袖に突っ込み、袖の中からそのまま秘色の胸に向けて静寂の引き金を引いた。
ぷしゅ、と戦いの場にそぐわない気の抜ける音がする。
「あ……?」
秘色は何をされたのかわからなかったに違いない。
露草を突き飛ばし、刀を振り上げた。
そして取り落とした。
秘色は震える手で自分の胸を探る。
そして血に染まった自分の手のひらを見た。
突き飛ばされた露草は蹌踉けながらも袖から静寂を抜き取り、銃身を折って弾丸を再装填した。
「さようなら、秘色」
引き金は引かれ、撃鉄は落ちた。
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