第2章【1】

『あはは! きったない髪だ!』


『汚らわしい。触らないでくれ』


『ああ、気持ち悪い。こっち見ないでよ』


『うるさいな。口を閉じていられないのか?』


『鬱陶しい。近付かないで!』


『ああ、お前なんて――……






 ――……






 朝の目覚めを確かめるために薄っすらと瞼を持ち上げると、カーテンから漏れる陽の光を遮る影がある。身動みじろぎしたことに気付き、優しい指が前髪を撫でた。

「おはよう。よく眠れたか?」

 穏やかに問う声は、ずっと昔から聞き覚えのある音色。少しだけ顔を上げてその姿を確認する。逆光に目を細め、それが誰であるか、今日はすんなりと認められた。ゆったりとした微睡の中、顔はよく見えないのに、それが誰であるか、すぐにわかった。

「どんな夢を見た?」

「……わからない……」

 首が疲れて、頭を枕に戻す。このままもう一度、眠ってしまいそうだ。時計が見えない。まだ誰かが起こしに来る時間ではないのだろう。

「何でも屋を雇ったらしいね。なんの依頼をしたんだ?」

「……わからない……。それはニコルに訊いてもらわないと……僕には何もわからない……」

 ぼんやりした頭のまま言うと、困ったように小さく笑うのがわかる。曖昧な返答を咎める様子はない。

「ニコルが正直に話すかな」

「……どうかな……」

 朝陽が眩しくて瞬きを繰り返す、するりと目元を撫でる指先は繊細だ。

「……なあ、シリル。誰にも心を開いてはならないよ」

 囁くような声に応えられずにいると、優しい手が肩に触れる。

「誰にも触れられてはならない」

 その言葉の真意を掴むことはできないのだろう。ぼやけた頭でそんなことを考えた。

「約束してくれ。こうしてお前に触れることができるのは僕だけだと」

「…………」

 口を開かないことがわかっていたように、ベッドが重みから解放されて揺れる。

「もう少し眠るといい。そのうち誰かが起こしに来るだろ」

「……うん……大丈夫」

 小さく頷いて、窓の音とともに目を閉じた。美しい夢が見られなくても、もうそれでいい。ただの惰眠だとしても、もうそれで充分だ。暁の呼び声には応えず、手招きされるままに、また世界の中に落ちた。






 ――……






「ああ、腹立たしい。あのふたりは何者なんだ」

 赤の執事が苛立たしげに言う。その声は騒がしく、やかましくて仕方がない。その怒りはわからないでもないが、そんなに声を荒らげる必要はないのに。

「また人員を増やして。管理をするのは結局、私なのだろう」

「そんなこと、どうだっていいわ」

 赤いドレスの侍女が嘲笑わらう。執事の苛立ちは何ひとつとしてわかっていない。わかろうともしていない。

「脅威となるなら、また首を落とせばいいのだから」

 堪えきれない地団駄にシャンデリアが揺れる。落ちた埃は払われて、澱んだ空気に散って消えた。

「それは自分の役目になるのだろう」

 騎士が真っ赤な口で大きく笑う。それは確かめる必要のない事実。

「また面倒事を増やしてくれた」

 それがまたおかしくて、穏やかな歓笑が場を支配する。助けを乞う必要などない。いまはまだ、その時ではないのだ。

 鳥も飛び立つような激しい音がした。ああ、と感嘆を漏らした侍女が、ようやく重い腰を持ち上げる。

「あの人が目を覚ましたみたい。話はあとね」

 なんて厄介な寝覚めだろう。少しくらい静かにできないものか。真っ赤な朝陽はまだ昇り始めたばかりだと言うのに。

 首から吊るされたむくろがあまりに滑稽で、床に垂れた赤い汚水が悪臭を放っている。星屑を纏った刃が語り掛けるのは、答える必要のない問い。そんなことに意味などない。すべて、目覚めればそれでいいのだから。






   *  *  *






 少し早いと思いつつローレンスがダイニングへ行くと、すでに義父のアイザック・ラト伯爵がテーブルに着いていた。義父はいつも起きるのが早く、こうして毎朝、静かに新聞を読んでいるのだ。

「おはようございます、義父様とうさま

「おはよう、ローレンス」

 早起きの彼らはこうしてシリルの目覚めを待つことになるが、いまはまだ、叩き起こして無理をさせてまで早起きを要求することはない。この屋敷での生活に慣れれば、リズムが整って健康的な朝を迎えることができるようになるだろう。

 そうして、ローレンスは自然と、義父と話をすることが増えた。

義父様とうさま、シリルは本当に伯爵家の子どもなんですか?」

 アイザックは新聞を閉じ、真剣な表情で頷く。

「あの髪色はフローリアの子で間違いない」

「ですが、なぜ修道院はもっと早くシリルを引き渡さなかったのでしょう」

「それが、よくわからないんだ。フローリアのためだと言っていたが……」

 シリルは産まれた直後、アイザックの妻――フローリア・ラト伯爵夫人が連れて行方を眩ませた。フローリアが亡くなってから数年が経っているらしい。義父のように髪色で判断すれば、すぐにラト伯爵家の子だとわかるはずだ。シリルが五歳になるまで引き渡さなかった理由は、ローレンスには思い当たらなかった。

「詳しいことは話さなかった。何か理由があるのは確かだ」

「そんな不安定な存在をこの屋敷に連れて来てよかったのですか?」

「ふむ……。フローリアの子である確証はないが、フローリアの子である可能性がある子どもを放っておくわけにはいかない」

 義父の言うことはもっともだ、とローレンスは考える。シリルは確かに珍しい髪色をしている。このラト伯爵領とその近辺ではあまり見かけない髪色だ。同じ髪色という点で、フローリア・ラト伯爵夫人の子である可能性は高い。

「もう少し年齢を重ねれば、魔力回路の検査ができる。そうすれば、フローリアの子であると証明できるだろう」

「……義父様とうさまがそう仰るなら」

 もし魔法を使えるなら、髪色などいくらでも偽装できる。シリルが五歳で未成熟であるため、その可能性が低いと判断しているのだ。それでもローレンスは疑惑を払拭することができず、しかしこの屋敷に来てからのシリルの様子から察するに、ラト伯爵家の仇となるような気配は感じられない。それは義父も同じ考えだろう。

「ローレンス。シリルのこと、よろしく頼むぞ」

「……はい」

 近くでシリルを観察していくうちに、シリルが何者なのかわかるようになるはずだ。義父もおそらく、それを期待している。その任務を遂行する者として、ローレンスが適任だ。現状、ローレンスはラト伯爵家に恩義を感じているわけではない。シリルがどうであろうと、自分には関係のないことだ。それでも、伯爵家の分家であるオールヴァリ家の者として、ラト伯爵家に仇為す存在を見過ごすことはできない。そのためには、シリルを見極める必要がある。その任を負ったことは、ローレンスにとって多少なりとも責任を感じることだった。

(関係ないはずなのに……なぜこんなに気になるのだろうか)

 それは不思議な感覚だった。自分の中に生まれたこの奇妙な気持ちの正体はわからない。それはきっと、これからシリルに関わっていくことで判明する。そんな気がした。



   *  *  *



 朝陽に照らされてぱちりと目を覚ます。微睡を残したままの体を起こすと、なんだか不思議な夢を見たような気がした。夢の内容はいつもほとんど覚えていないが、なんとも言えない奇妙な感覚だった。

 ベッドのそばに置いたはずのスリッパを探していると、遠慮がちなノックが聞こえる。静かに顔を覗かせたのはアイレーだった。まだ寝ているかもしれないと、音を潜めているのだ。

「おはようございます、シリル様」

「おはよう、アイレー」

 アイレーは貴族の世話係になってから長いのか、着替えを手伝うことに慣れており手際が良い。その一方でシリルは、着替えを手伝われるという庶民とはかけ離れた生活にもいつか慣れるのだろうか、とそんなことをぼんやりと考えていた。

 鏡台の前に座ると、アイレーはやはり髪の手入れに時間をかける。シリルの頭髪は線が細くさらさらと揺れる。貴族の子どもとして寝ぐせ頭のままでいるわけにはいかないが、シリルの頭髪を綺麗に整えることがアイレーのこだわりなのかもしれない。

「……ねえ、アイレー」

「はい」

「僕が起きたときにいつも居るあの人は誰?」

 逆光の中に見えた人影を思い出しながら言うシリルに、アイレーは不思議そうに首を傾げた。

「どなたのことですか?」

「……わからない」シリルは俯く。「僕には……何もわからない」

「気になるようでしたが、寝ているあいだも護衛をつけますが……」

「……ううん、大丈夫。夢かもしれないし」

 アイレーは柔らかく微笑んで、安心させるように優しく髪にブラシを通す。

「大丈夫です。シリル様には、あたしたちがついていますから」

「うん……そうだね」

 アイレーが満足するまでシリルの髪を整えると、身支度は完璧だ。シリルはいつも、柔らかい生地のブラウスにリボンタイを巻き、ハーフパンツをサスペンダーで留めている。その風采は西洋の雰囲気を纏っていた。

 寝室の外では、ミラがシリルを待っていた。シリルはあまり早起きではないため、多少なりとも待たせてしまっただろう。

「おはよう、シリル」

「おはよう、ミラ」

 この世界はまだわからないことばかりだ。ミラはこの世界のことを熟知しているはずで、ふたりで話す機会があればいいのだが、とシリルはそんなことを考えていた。


 ダイニングでは、すでにアイザックとローレンスがテーブルに着いていた。シリルは体感で、自分は早起きができていないと思っているため、ふたりを待たせてしまっているだろう。子どもはよく寝るようにできている。早寝ではあるのだが、早起きが苦手なのは前世と同じようだ。

「おはよう、シリル。よく眠れたか?」

「おはようございます。お陰様で」

 ミラたち護衛は、他の使用人と同じように壁際に控えている。いくらミラでも、主の食事の席にともに着くことはできない。そんなことをしてしまえば、ミラの首が飛んでもおかしくないだろう。もちろんミラは、それを弁えている。シリルとしてもミラがそんなことになってほしくないため、それを求めるようなことはしない。

「シリル。今日はローレンスにテーブルマナーを教わるのはどうだ?」

 アイザックが和やかに言う。シリルはローレンスが自分のことをどう思っているか計り知れず、少しだけ逡巡して言葉に詰まってしまった。しかし、そうですね、とローレンスはあっさり頷いた。

「名門ラト伯爵家の跡取りがテーブルマナーも守れないのでは話になりませんからね」

「テーブルマナーはどこへ行っても必要だからな」

「はい。よろしくお願いします、義兄様にいさま

「ああ」

 シリルは、ローレンスが一瞬だけ言葉に詰まったように感じた。それでもローレンスはいつも通り澄ました顔をしており、相変わらず表情から心理を感じ取ることはできなかった。

 ローレンスは養子に取られてから、爵位を継ぐ者としての教育を受けているだろう。その教養は実家に戻ってからも役に立つはずで、勉強は未来の自分への投資であるからして、オールヴァリ家に戻ってからも、王立魔道学院で優秀な成績を残すことになるだろう。

(そういえば、ゲームではローレンスがどこで暮らしているか書かれてなかったな。養子のことはよく知らないけど、実家に帰るのは簡単なことじゃないのかな……)

 シリルがラト伯爵家に戻って来た以上、ローレンスがラト伯爵家に居続ける理由はない。生活や教育、資金面の潤沢など利点は多く存在しているが、自分が爵位を継いだあとのローレンスの居場所がどこになるのか、シリルは少しだけ心配していた。

 そんなことを考えながら伸ばしていた手が目測を誤り、グラスを倒してしまった。アイザックとローレンスの視線が集まる中、アイレーが素早くテーブルを拭き、新しいグラスにまた水を注いだ。その迅速な動作は洗練されており、手練れの気配を感じさせた。

「すみません、考え事をして手元が疎かになっていました」

「シリルは手が小さいから」と、ローレンス。「グラスが大きいのかもしれないな」

「ふむ」アイザックは顎に手をやる。「シリルの手に合うグラスを探してみるか」

「すみません……」

「気にしなくていい。きみはまだこの屋敷に来たばかりだ。不便なことがあって当然だ」

 ローレンスの声は澄ました表情と相俟って少々冷たさを感じさせるが、そればかりではないようにシリルには思えた。ローレンスは攻略対象「クール担当」で「クール担当がデレたときがどうのこうの」と姉が語っていたのは流していた上、ベータ版ではローレンスルートをまだプレイしていなかった。導入ではサディスティックな一面も見せていたが、ローレンスがどう「デレる」のかをシリルは知らない。

(まあ、こういう性格の人は根は優しいというのが基本だよな)

 王立魔道学院で、主人公と悪役令息はローレンスの後輩になる。覚えている設定としては、王立魔道学院には入学資格試験が存在している。入学資格試験がまた難関で、と姉がこだわっていた部分だ。卒業資格は最低三年で、卒業する時期は生徒自身が決めるらしい。卒業にも厳しい試験があって、と姉が興奮して語ってきたものだ。主人公と悪役令息、攻略対象たちは生徒会に所属することになる。ローレンスは現在、十歳である。そろそろ入学資格試験を視野に入れる頃だろう。

(僕も厳しい試験に向けて勉強しないといけないのか……。ちょっと自信ないな……)

 シリルの脳がどれだけ吸収できるかは未知数だが、これまでの学校生活は散々なものだった。世界が違えば学校も違う、ということも大いにあるだろう。楽しみでもあり、憂鬱でもある。それは、これからどういった教育を受けるかによって変わっていくのだろう。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る