破滅を招く悪役令息は崩れゆく世界を再生する~姉の遺作のBLゲームに転生したらなぜか攻略対象に溺愛されています~
加賀谷イコ
第1章【1】
表向きは何でも屋、ということでよろしいですか?
――・――代理のニコル・フォン・ターナーです。
――は意識が混濁してはっきりしないときがあります。
単刀直入に言います。彼の――……
◇ ◇ ◇
――ああ……死にたくないな……。
――でも、もう生きていけないな……。
絶望の淵は深く、満たされない幸福の器は消え失せ、眼前に広がる夕焼けより紅いはずの血潮はすでに意味を為さない。
在りし日の面影は遠く、命を繋ぎ留める糸は焼き切られた。胸の奥で
――そうだ……僕、明晰夢ができるし、死後の世界でも夢を見られないかな。
呑まれるように眠れば、眠るように終えれば、美しい夢に迷い込めるかもしれない。この切望もきっと、海風に掻き消されていくのだろう。
――もしそれができるなら、僕の書いた主人公になりたいな。
――人から愛されて、チート能力もばんばん身に付けて、無双するんだ。
――最期くらい、願いが叶うといいな……。
そうして、
――……
ああ、いやだ。お願い、死なないで。
お願い、神様――……
――……
月が水面に反射して、幻想的な光景が目の前に広がる。
暁は遠く、深く冷たい闇が体を包み込んだ。
心を占めるのは後悔。懺悔は及ばず、星の顔は悠久の風の中。手を伸ばすには遅く、忘却の彼方へ消える。
魚の影を望遠し、浮遊感に身を委ねれば寂滅する意識。見果てぬ夢を抱いて眠れば、許しを乞うことも
儚く脆く毀れる魂に意味はなく、無に還ることさえ厭われる。それが覆されるなら幸運だろう。
ささやかな幸福を願うことさえ赦されず、届かない祈りは霧散する。自我は雲隠れし、記憶は独泳した。
決して不幸ではなかった。だが、幸せでもなかった。
痛みはない。恐怖は元々ない。苦しくもない。
潮騒が遠ざかる。浮遊感が消え、静寂が耳を突く。
着底の時が来た。
――……
薄っすらと開いた目が眩さに痛む。視界に映るのはただ白の世界。
「おっ、やっと起きたわね」
優しい少女の声がする。白い影が紫音を覗き込んだ。
「……姉さん……?」
「残念ながら違うわ。ごめんなさいね」
温かいものが頬に触れるので、ようやく頭が覚醒する。体を起き上がらせると、白い影が微笑んでいた。輪郭はぼやけているが、人の形をしている。
辺りを見回すと、白い影の他には何もない、ただ真っ白な空間が広がっていた。
「ここは……」
「ここは、人間の言葉で言うと『神界』かしら。つまり、神の領域ね」
紫音の脳裏に、あの夕焼けが浮かんだ。最後の一歩を踏み出した瞬間まで鮮明に思い起こされる。心の中に渦巻いていた気持ちさえ。
「そうか……僕は死ねたんだ……」
その事実に、少しだけ安堵していた。あの世界から消えることができたことが、こんなにも嬉しいのだ。
「えっと……きみは……」
「あたしは……そうね、とある世界の神、といったところかしら」
その声は若い女性のもので、姿は見えないが、紫音のイメージする神とは印象が少し違う。しかし、紫音が生きていた国には
だが、死後の世界で神と対面するなどということは夢だとしか思えない。魂が輪廻転生する間際に、空想による夢を見ているのだろう。ただの普通の人間でしかない紫音の目の前に神がいるなど、そんな物語のようなことが実在するとは思えない。
「疑ってるわね。神に会うなんて非現実的にも程があるものね。でも、あなたにある取引を提案したくてここに呼んだの」
「取引……?」
少女の声の神は白いもやのようで、表情は紫音の目には見えない。それでも、その声はどこか楽しげだった。
「あなたを異世界転生させてあげる。その代わり、あたしの世界を救ってほしいの」
いよいよ信憑性と現実味が消失してきた。紫音はもとから疑り深い性格で、こんな詐欺のような夢に浮かれるほどの無邪気さは持ち合わせていない。
「世界を救うって、どういうこと?」
「あたしの世界には、先にふたりの人間が転生して来たの。そのうちのひとりは、あたしとあなたの絶対的な味方ね。でも……問題は、もうひとりの転生者よ」
少女の声に影が落ちる。その真剣な様子に、紫音は首を傾げて先を促した。
「もうひとりの転生者が、あたしの世界を滅ぼしたの。破滅を招く悪役令息として」
「悪役令息……」
異世界転生ではよく見る単語だ。主流としては「悪役令嬢」だが、紫音も何度か触れたことのある設定だ。物語の構成としては、悪役令嬢ものとそう変わらないものが多い。
「でも、もう滅んでいるなら救いようがないんじゃないの?」
「その辺りの詳しい話は、あたしの世界に入らないとできないのよ。でも、あたしの世界のことを、あなたはすでになんとな~く知ってるわ」
現実味は失われたままだが、少女の声は真剣そのものだ。ほんの少しだけ信憑性が出て来たように感じられる。
「あたしの世界には、あなたの絶対的な味方がいるわ。その子が教えてくれるはずよ。詳細が何もわからないままで放り出すのは申し訳ないけど、そういう契約になっているの」
この少女の声が本当に神なのだとしたら、その「契約」について紫音が知ることはできないのだろう。そういった「契約」は人には話せない、というのが定石だ。聞いたところで自分には理解できないのだろう、と紫音は考えた。
「あたしの世界はいま、再生を始めようとしているところよ。あなたの魂を送ることで、再生への歯車を回すわ」
「取っ掛かりが必要ってことなのかな」
「ええ。けれど、あなたの望みをすべて叶えてあげることはできないかもしれない。あたしの世界は、軸が歪んでしまっているの」
転生者が莫大な力を身に付ける物語はよく見かける。悪役令息が世界を滅ぼしたという設定は突拍子もなく感じるが、それが可能になるチート能力を得たことが想像できる。
「軸の歪みがあなたにどう影響するかわからないわ。わからないばっかりで申し訳ないけど。その代わり、ある程度のチート能力なら授けてあげられるわ」
少女の声が明るさを取り戻す。異世界転生にチート能力は付き物だ。本当にそれが叶うなら、きっとそれ以上に良いことはないだろう。
「どんなチート能力が欲しい?」
「……人から愛されるようになりたい」
それはどうしても手に入れられなかった幸福。どうやら高望みであるらしいと放棄した願い。紫音の心に残り続けた苦悩の
「愛されるまでいかなくても、せめて人から好かれるようになりたい」
「それなら第一関門は突破ね。あなたはすでに愛される人なんだから」
紫音は白い影を見つめる。少女の声に、偽りやお世辞は感じない。それでも、それだけは紫音には信じられないことだった。
「あたしの世界で誰かに好かれることがあっても、あたしの力による抑制だと思わないでちょうだい。あなたは最初から愛される人なのよ」
「……そうかな」
「このあたしが保証するわ。他には?」
少女の声は確信を湛えているが、紫音はどうしても信用することができない。おそらく、その保証をこの場で証明する術はない。その言葉が嘘か真実かは、この神の世界に生まれ落ちなければ確かめることはできないのだろう。
「えっと……魔法を使えるようになりたいな」
「いいわ。無双できるくらいの魔力を授けてあげる。他には?」
「あとは特にないかな……」
「欲のない子ね」
もしこれが夢で、長篠紫音が再び目覚めることになら、すべてを諦めて現実に戻るしかない。長篠紫音が二度と目覚めないのなら、すべてを忘れて再び生きることになるだろう。少なくとも、もう苦しまずに済むなら、紫音にとってそれ以上に良いことはないはずだ。
「繰り返しになるけど、世界の軸の歪みがあなたにどう影響するかわからない。あたしも可能な限り介入を試みるけど、しばらくは自分で頑張ってもらうことになるわ。取引の提案と言っておいてこっちばかり都合が良くて申し訳ないけど……」
「……ううん。異世界転生は全オタクの夢だから、こっちにも得はあるよ」
「そう? 助かるわ。それと、さらにで忍びないんだけど、こっちで入れ物を用意することができないの。世界の歪みが進みすぎて、こちらから介入できる範囲が限られているのよ。あたしの世界の『誰か』にあなたの魂が入ることになるわ」
それは完全に別人になるということだ。長篠紫音は魂のみとなり、まったく違う誰かとして、まったく違う世界で生きることになる。すべてをいちから始めるのだ。
「あなたの転生で世界に干渉して、それをもとにあたしが介入する取っ掛かりを掴むわ。もしかしたら、辛い目に遭うかもしれない。でも、あなたには絶対的な味方がいるわ。その子を探して。たぶん、探さなくても向こうが見つけてくれると思うけど」
「どんな人なの?」
「それは会ってからのお楽しみ、ってことで。あなたは新しい人生を歩むことになるわ。これまでの長篠紫音のすべてを捨てて」
「……それだけでもう充分だよ。細かいことは言いっこなし、ってことで」
「ありがとう。それじゃあ……」
温かいものが手に触れる。両手を包み込む優しい温もりが、これまでの疑いを晴らすようだった。
「長篠紫音。あなたにこの世界の命運を託したわ。どうか、あたしの世界を救って」
体がふわりと浮かび上がる。吸い込まれるような感覚に身を委ねているうちに、白い影が遠くなっていく。心地良い
「また会えたら嬉しいわ」
温もりが手を離れ、夢に呑まれるように、長篠紫音の意識は溶けていった。
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