第6話 5話―①

【視点:神籬ひもろぎ神住かすみ


 聯鄭山れんていさんを包む暗闇の中に純白の羽が数枚、宙を舞った。直後、強烈な左拳が瑞牆みずがき千木良ちぎらに向かって叩き込まれる。


 彼女は服の右袖からルーン文字の刻まれた黒曜石こくようせきを取り出すと、その左拳に叩きつけるようにして攻撃を防いだ。衝突による衝撃波が、聯鄭山の頂上から滝塚市富永区とみながくの上空を切り裂いた。


 瑞牆の手にあった黒曜石が砕け、粉状になる。それらは風に乗り、神住の頭上にふわりと浮き上がると、意思を持つ弾丸のごとく彼女に襲い掛かる。


「ふっ!」


 神住は左の肩甲骨付近から生えた純白の翼を用いて、黒曜石の弾丸から身を守る。


 世界最高の柔軟性と硬度をあわせ持つそれは、彼女のすぐ近くにいる咲之宮さきのみや蓮華れんげへの攻撃も許さない。


 神住は血まみれで倒れている加納聖の方をちらりと見た。呼吸が怪しい。彼女は意識を目の前の敵に戻し左腕を振り上げる。


「まずは二人から引きはがす!」


「それは困ります。後ろ盾が無くなってしまうではありませんか」


「ほざけ!」


 神住は瑞牆に生じている重力を打ち消した。一瞬彼女の足が地面から離れる。


 その隙をついて神住は地面を舐めるほどに身をかがめると、跳び上がる勢いを利用して回し蹴りを放つ。


 瑞牆は冷静に身をのけぞらせてそれを避けた。ウェーブのかかった前髪を切れ味鋭い足先がかすめる。


 彼女は身体を起こすと同時に神住の魔術を打ち消し、六十代とは思えない俊敏しゅんびんさで右手を水平に振るった。


「っ!」


 神住は、そのまま逆立ちして瑞牆の手刀をかわす。彼女は左腕を軽く曲げ、伸ばした反動で跳びあがると宙返りして瑞牆から五メートル程度離れた位置に着地した。


 その間に瑞牆は目の前の空間にルーン文字を描く。そこから放たれた炎は先程蓮華を焼いたものより数段強力な劫火ごうか。思わず神住は腰だめに左腕を引いた。


「天使権能――」


 神住の左腕から途方もないエネルギーが発せられる。しかし、彼女は視界の端に映ったものを見て構えを解いた。仕方なしに翼を使って盾のように自分の身を守る。


 劫火が直撃し、翼が焼け焦げた。純白の羽が見る見るうちに抜け落ちていく。


「ぐうっ!」


「お優しいのですね。確かに、蓮華様は成ったとはいえ天使権能を受ければ無事では済まないでしょう。その優しさを、少しばかり譲二じょうじに分けてくださればよかったのに」


「……ふざけるな。あいつを放置したら待っていたのは皆殺しだ! お姉ちゃんは生存競争を挑まれて、それに勝利しただけに過ぎないッ!」


「なるほど。それで殺人を正当化すると?」


「お前にだけは言われたくないッ! お姉ちゃんはあいつを殺した、そして背負って今まで生きてる。それで十分!」


 神住は翼を払うと身を低くして突進する。瑞牆との間の距離は瞬く間に縮まった。


 瑞牆は靴裏に仕込んでいたルーン魔術を発動させるため、ほんの少し足を地面にこすり付けた。すると厚さ二メートル、幅十メートル、高さ六メートルほどの氷壁が地面から出現する。


「はああああああああっ!」


 神住の左腕が輝きを増す。突き出された拳は氷壁を一撃で粉砕した。


 そして、壁の向こうにいた瑞牆は笑みを浮かべていた。


「冷たっ……!」


 パキパキと音を立て、神住の左手が凍りついていく。


 瑞牆は氷壁の内部に仕掛けを施していた。それはこの氷壁を破壊した対象にとあるルーン文字を刻み込むこと。


 今神住の左手が凍り付いているのはそのためである。彼女の左手の指先に描かれたルーン文字が効力を発揮しているのだ。


 神住は左手の指先に意識を集中し、振動波を生み出す。すると、氷は砕け、白い破片になって落ちていく。彼女は慌てて指先をこすってルーン文字を消した。


「足元にご注意を」


 瑞牆の言葉に神住が下を向くと、彼女の周囲の地面には円を描くようにルーン文字が書き殴られていた。それらが光り輝く直前に神住は地面を蹴って跳び上がる。


「いえ、頭上でしたね」


 地面に書かれた文字は唐突に光を失った。にわかに空がき曇ったかと思うと、一筋の雷が天を割った。


「ぐぁああああああっ!」


 プラズマを発生させるほどの熱に焼かれ、神住はなすすべなく地面に叩きつけられた。帯電した身体からは時折稲光いなびかりが漏れる。


 電極を刺されたカエルのように体を震わせる神住を、瑞牆は黙って見下ろす。その左手は空に新しいルーン文字を描き続けている。


「次のは仕込みに時間がかかります。その間の暇つぶしに――」


「――付き合う義理はない!」


 神住は左手で地面を抉り取り、瑞牆に投げつけた。散弾の如く襲い来るそれは、瑞牆の展開した魔力障壁シールドに阻まれる。


 その間に彼女は立ち上がり、魔力障壁に左拳を叩き込んだ。ガラスが割れるように魔力の破片が散らばる。


 続けざまに放たれた右拳は首を振った瑞牆の頬を掠めた。そのまま裏拳を入れようとした瞬間、瑞牆は神住の右腕を取る。


「素体を通り越して天使化が進行しておりますね。それでこの程度……思ったほど才能がないのでしょうか。これなら神籬沈あねの方がよっぽど……」


「うるさいお姉ちゃんより私の方が才能がないのは当たり前だこの馬鹿!」


 神住は右腕をねじるようにして瑞牆を振り払うと左、右とワンツーを入れていく。


 瑞牆は右の一撃を素手で、左の一撃を守りのルーンで受け流した。そして追撃の肘をかわして飛びのく。


 二人の間に一瞬の間が生まれる。ふと、瑞牆が口角を上げた。


「……なるほど、そちらの思惑おもわく通りだったと」


「……もう、蓮華ちゃんや加納君には手出しさせないから」


 二人の立ち位置が変わっていた。最初は蓮華の近くで立ち回っていた瑞牆だが、彼女との距離は十メートルほど離れている。その更に向こうに加納が転がされていた。


 この場面をちょうど上から見下ろした時、神住は蓮華と瑞牆を結ぶ線の間に入っていた。


 彼女はボクサーのように両拳を上げた。応えるように瑞牆は右腕を天高く掲げた。


「では、原初の三」


 途端に息苦しさが増した。海溝に沈んだかのような圧迫感と閉塞感。耳をすまさなくても気泡が漂う音が聞こえてきそうだ。


 神代のルーンによって空間に瞬時に生成された膨大な量の海水が、神住達を包み込むように直径五メートル、高さ四メートルほどの球形を成す。


 それはあおの牢獄、原初の三。


(まずい、加納君が。こうなったら――)


 神住は左腕を広げ、背中側に引いた。焼けただれていた天使の翼に力がみなぎる。


 満たされた碧の中で、それを言葉にすることはできない。だから彼女は心の中で叫ぶ。


 この場で導き出せる最適にして最良の解。未だ追い詰められた時にしか使いこなせない最強の技。


(天使権能――フェンリルの大爪!)


 水牢の内側からが放たれる。邪神すら一撃で屠る天使の爪は、神代のルーンによる魔術すら紙のように切り裂く。


 本来ならば聯鄭山ごと周囲一帯を消し飛ばしかねないそれは、蓮華や加納を傷つけることなく原初の三だけを正確に細切れにした。


 圧力から解放された神住が大きく息を吸う。艶やかな黒髪や体に張り付いたブラウスから雫が滴る。


 その後ろに横たわっている蓮華の体が、かすかに動いた。彼女がもぞもぞと加納の方に這っていく間に、神住は右手で前髪をかき上げ、視界を確保する。


 神住の様子を見ていた瑞牆が左手を水平に上げた。そして声帯を通して発音することを想定していない言語を呟き始める。


「させるか!」


 した神住の踏み込みで大地にひびが入る。


 瑞牆との距離は瞬時に縮まり、強烈な左拳が彼女の腹部に叩きこまれる――


 ――はずであった。


「えっ?」


 突如神住の周囲に出現した、細い黄金色をした糸が彼女の体に絡みつく。腕に、足に、胴体に、動きを制限するのではなく、ただ、くるくると巻き付いていく。


 同時に、使。彼女の体に走っていた線が消え、瞳孔が普通のものに変わる。


 二歩目の踏み込みは先程までと比べ物にならないくらい弱く、彼女の体は二メートルほどしか前進しない。


「なんで、どうして!?」


 自分の左手を見つめ、当惑する神住。その甲に刻まれていたはずの紋様は跡形もない。


 瑞牆はその姿を見て、左手を降ろし、詠唱を止めた。


「教えて差し上げましょうか」


 降ろした左手の指が音を立てる。薬指、親指、人差し指、小指。それが何を意味するかは瑞牆しか知らない。


 神住はゆっくりと顔を上げた。瞳には絶望の色が濃く刻まれている。


「言葉にすれば簡単です。。ただそれだけです」


「この紐か。こいつをどうにかすれば!」


 神住は右手で左手に絡みついている紐を掴もうとする。しかし、黄金色に輝く細い紐は、そこに見えるのに掴めない。指先が紐を捉えようとしては虚しくすり抜けていく。


「魔力も無しに掴めるものではありませんよ、それは」


「……?」


 神住は思わずといった形で左手を顎に当てる。視線が足元に向く。


 その間に瑞牆は足先で地面をこすった。続けて右肩を軽くすくめ、口を閉じたまま舌で自分の上顎をなぞる。


 瑞牆が次の行動に移ろうとした瞬間、神住が顔を上げた。見開かれた目が瑞牆を射すくめた。彼女はぴたりと動きを止め、神住の出方を窺う。


。なら、掴めないはずがない。もしかして、?」


「それは副次的な効果です。元来はその左腕を縛る目的で構築した術式。特に名前はないのですが、折角せっかくです。北欧神話になぞらえて“グレイプニル”とでも名付けましょうか」


 細い指先が虚空こくうを滑る。同時に瑞牆の背後から真空の刃が飛び出す。


「さて、くくられた狼はどうなるのでしたかね」


「ぐあっ!」


 刃が神住の右肩口をかすめた。飛び散った鮮血せんけつが大地に染み込んでいく。左手で抑えた部分のブラウスが見る見るうちに赤に染まっていく。


「地下に叩き落とされ、剣で口を閉じることができないようにされた。終末のときに解放されますが、まあ、今のあなたにそんなことはありませんので」


 瑞牆は左手の中指と親指を合わせ、ぱちんと鳴らした。


 直後、彼女の頭上に凝集したマグマの如き火炎の塊が出現した。温度差で陽炎が発生し、更に周囲から煙が上がり始める。


 猛烈な熱気に濡れていた衣服が乾き始める。それと同時に神住の全身から汗が噴き出してきた。


「まずい!」


 神住は咄嗟に加納と蓮華の位置を確認した。蓮華は倒れていたはずの場所におらず、いつの間にか加納の傍でうつ伏せになっていた。


 彼女の右腕は、朱に染まった加納の腕をがっちりと掴んでいる。


 そして、瑞牆と彼女たちの間には神住しかいない。


「あなたが避ければ彼女たちが蒸発します。受けるしかございません、よね?」


 神住が振り返った時、瑞牆の口元がわずかに上がった。だが、その表情に復讐を達成することに対する歓喜はなかった。


 神住は目を見開いた。そして勢いよく瑞牆に向かって走り出す。


「させるかぁあああああっ!」


 必死の形相で向かってくる神住に、瑞牆はため息をついた。


「吠えればいいというものではありません」


 瑞牆の左腕がゆっくりと掲げられる。


「これは、根源こんげんより招来されし炎。神代しんだいより受け継がれし英知のすい。その役目たるは万物ばんぶつ灰燼かいじんし新たな時代をはじめる事」


 そして、あまりの熱気に立ち止まり、両腕で顔を守った神住に向かって振り下ろされた。


「焼き尽くせ、原初の一」


 凝集した火炎が神住に直撃した。岩肌と土くれが蒸発する凄まじい音が周囲に響く。


 立ち昇る火柱の前で、しかしなお瑞牆は涼しげな表情を崩さない。


 神住の悲鳴は聞こえない。響き渡る焦熱しょうねつの音が、全てをかき消しているのだ。


 そして焼かれている神住のはるか後ろで倒れていた加納の指先が、ぴくりと動いた。


「滝塚市ごとあなたを焼き尽くしても仕方ありませんから、威力と範囲は制限しましたが、それでも五体満足とは。天使の体とは恐ろしいものです」


 炎が消え去ると同時にどさりと倒れ込んだ神住を見下ろし、瑞牆がぼそりと呟く。彼女は無表情のまま数歩神住に歩み寄った。そして右足を軽く上げる。


「……忌々いまいましい」


 磨き上げられた革靴が、黒焦げになった端正な顔を思い切り踏みつけた。魔力で強化したストンピングは、神住が横たわる地面に大きなひびを入れる。


「忌々しい、忌々しい、忌々しい、忌々しい、忌々しい」


 何度も、何度も、何度も。


 表情も声のトーンもまったく変えず。砕けた地面に顔が埋まるまで、瑞牆は幾度となく神住を踏みつけた。


 それでも、神住の顔が砕け散ることはなかった。出血はあれど、黒焦げの顔が崩れることはない。


「ふう、少しすっきりしました。後は首をもぎ取って憎き彼女の姉の下に運んであげると致しましょう」


 心なしか晴れ晴れとした表情の瑞牆は、右足をよけると身をかがめ、神住の首を掴んだ。そして立ち上がり、彼女の体を腕一本で吊り上げる。


 気絶している神住は両腕両足をだらんと下げたまま、動かない。


「さようなら、神籬神住さん。あちらでも姉妹睦まじく」


 瑞牆の指が神住の首筋に深く食い込んでいく。魔力で極限まで強化した爪先が皮膚を破り、赤い液体が流れ落ち始めた。


                                  ――続く

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