夜明けと共に

 うっかり旅を始めるきっかけとなった記憶まで蘇り、ヴァンは深く息を吐いた。

 炎の臭いは幼く無力であった時分の深い悔恨まで、頼みもしないのに呼び起こしてくれる。まだ人が焼ける臭いがしないだけマシだが、それでも夜闇と炎は、ヴァンの記憶の暗いところを掻き毟る。


「はぁ……話しすぎた。つまんねえもん聞かせて悪かったな。忘れてくれ」


 どうにも沈黙がむず痒くなったヴァンが、誤魔化すように言う。


「先に休んでください。私はもう暫く、ミア様を見守っています」

「ああ、そうさせてもらうわ。一刻経ったら起こしてくれ。んじゃな」


 木の根元に背中を預け、足を投げ出しながらひらひらと手を振った。腹の上で手を組み、目を閉じる。

 一見リラックスしているように見えて、いつでも迎撃できる格好だ。


「ええ。……お休みなさい」


 クィンはそれだけ言うと、ヴァンに代わって焚き火に枝を放り込んだ。


 ヴァンの話を聞くに、彼は十歳の頃に寄る辺を喪い一人で生きて来たことになる。

 しかもこれから冬支度をしようかという季節に、家も村も焼かれた状態で。飢えと寒さを寂しさが増幅して、心を塗り潰してしまいそうになりながら。庇護されるべき年の子供が生き抜いてきたことが信じられなかった。まして元から充分な食事をしていなかったであろう環境の子が。

 妖精郷育ちのミアとクィンは、飢えや渇き、寒さや暑さとなどは無縁だった。抑も妖精郷には不幸が存在しない。外から持ち込まれない限りは大した脅威もなく、平和そのものの理想郷だ。まず以て妖精という種族自体が、温厚で平和主義且つ拘らない性質というのもある。

 そんな環境で育ったクィンには、ヴァンの味わった苦労や悲劇のひと欠片すら理解出来ないだろうと感じた。口では何とでも言える。慰めの言葉も、同情の言葉も世の中には山ほどあるが、それを心から述べることは、いまのクィンには出来なかった。

 ヴァンも同様に、妖精郷育ちのクィンに慰めを乞おうという気など更々なかった。下手に理解あるふりでお優しい言葉を並べられたなら、皮肉の一つも言ってやろうとすら思っていた。自ら話し始めたことは棚に上げて、そんなふうに考えていたことを見透かされたのか、それともクィン自身が出自を自覚しているのか、ヴァンを憐れむ素振りは見せなかった。

 もしミアがいまの話を聞いていたらどんな反応をするだろうかと、ヴァンは呼吸を深くさせながら、取り留めもなく思った。彼女は苦労知らずのお姫様だが、人の心を察せられない鈍さはない。

 もしかしたら泣きそうな顔をされてしまい、クィンに睨まれるかも知れないなどと考えたところで、ふと意識が浅く眠りに沈んだ。


 それからヴァンとクィンは適度に交代しつつ一晩を過ごし、夜明けと共に焚き火を消した。砂をかけて踏みつけ、更にその上から水をかけて土を湿らせる。万が一にも火の気が残らないように、念入りに。


「ミア様、お目覚めの時間です」

「ん……」


 クィンがテントの外から声をかけると小さく寝息とも寝言ともとれる声を漏らし、身動ぎする気配がした。暫くして、テントの入口を塞いでいた布がめくり上げられ、寝ぼけ眼のミアがのそりと這い出てきた。


「おはよう、クィン。ヴァン」

「おはようございます、ミア様」

「おう、おはようさん」


 丁度顔を洗っていたところだったヴァンが、顔から水を滴らせながら振り向いた。

 それが妙に可笑しくて、ミアはクスリと笑うと傍まで駆け寄っていき、街で買ったバックパックに入っている布でヴァンの頬を拭った。


「昨日はとても頼もしかったけれど、いまのヴァンは何だか可愛らしいわ」


 ヴァンが水場の前でしゃがんでいるお陰で逆転した身長も相俟って、ミアが珍しく見下ろす形になっている。

 呆けた顔でされるがままにしているヴァンの脳裏に、不意に過日の記憶が蘇った。


『兄ちゃん、普段はしっかりしてんのにこういうときは抜けてるよね』


 三つ下の妹が、たまに見せるお姉さんぶった姿。水浴びから帰ったとき、体はよく拭いたのに髪が濡れたままだったのを見咎められたときのこと。

 それがミアに重なって――――気付けば、ミアの細い手首を掴んでいた。


「ヴァン……?」


 目を丸くしてヴァンを見つめるミアは、明らかに困惑していた。余計なことをしてしまったかと落ち込んでいるようにも見える。


「あ……わ、悪ィ。ありがとな。それより、嬢ちゃんも顔洗っちまいな」

「え、ええ。そうね。そうするわ」


 言ってから、魔法種族であるミアには人間のような洗浄は必要ないと気付いたが、ミアもミアでだいぶ混乱しているようで、ヴァンの見様見真似で顔を洗っている。

 冷たい水を手のひらで掬って顔に浴び、きらきらと輝く水滴が指先から零れ落ちる様を眺める。濡れたまま朝の冷たく爽やかな空気に晒されていると、そこはかとなく気持ちが引き締まるような感覚がした。


「ミア様、此方を」

「ありがとう、クィン。人の日課を真似してみるのもいいわね。何だか気分が違って感じるわ」

「それはようございました」


 クィンから綺麗な布を受け取って軽く顔を拭き、やわらかな笑みを浮かべてミアが言う。朝日の下で花翼が甘く香り、伸びをする頬を涼やかな風が撫でる。


「良い朝だわ。これなら今日もがんばれそう」


 旅に出る前は、外では眠れそうにないと思っていたのに。傍にいるクィンの気配と一緒に護ってくれたヴァンのお陰で、嘘のように安眠することが出来た。やわらかな花籠のベッドと比べて地面に布を敷いただけの、固い寝床だったけれど、それも気にならないほどだった。

 テントを覗き、忘れ物をしていないか改めて確かめると、ヴァンがミアに組み方を説明しながら折り畳んでくれた。


「馬車や荷運び用の魔獣が手に入るようになったら、テントを買ってもいいかもな」

「そうね。これから先の野宿は、こんなふうに守られていないのだからもっと厳しい環境になっていくのでしょうし。それに、自分のテントって何だか素敵な響きだわ」


 あくまでも先行きを楽しむ物言いに、ヴァンは「その調子だ」と笑った。


「っし、出発するか。今日中に中央広場にはついちまいてえからな。ちっと急ぐぜ」

「わかったわ」


 然程量もない荷物を纏めると、一行は馬車道に戻って森を進み始めた。

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