冷たい図書館
図書館の二階から見える古い団地があった。
同じ大きさ、同じ造りの建物が同じ方向を向いて規則正しく並んでいる。
白い外壁は汚れて黄ばんだり黒ずんだりしていて小さいヒビもいくつか見える。
沢山の窓があるのに、殆どがカーテンも付けられてなくて空き部屋のまま。
敷地内に植えられた木が自由気ままに成長していて、手前の建物は半分くらいが葉っぱに邪魔されている。
三十を過ぎてニートになった俺は窓際の席に座りながらそれを見ていた。
『毎日決まった時間に起きて会社に行って働く』
そんな簡単なことがどうしても耐えられずに無策で仕事を辞めた俺は、毎日図書館に通って拙い小説を書くしかやることがなかった。
四年制の大学を出て十年足らずでもう五回も転職をしている独身男が再就職先を見つけるのはそう簡単じゃない。
しかも正規雇用はそのうち数年だけ。ほとんどが派遣だ。バイトでもするかと思ったが、ある日唐突になんの根拠もなく、『文才』というものに賭けてみようかと思い立ってから文章を書き続ける生活が始まった。
窓際の席は早い者勝ちで埋まって行くから、図書館が開く前に言って開館を待つ。
時間になったらお気に入りの席を確保し、気晴らし用のマンガを数冊掴んで席に戻る。
後はぼうっとしつつ、時折思い浮かぶ言葉をノートパソコンに打ち込んでいく。
何気なく窓の外に目をやるといつも見えるのが図書館の隣に立つ古い団地だった。
何部屋かは人が住んでいる様子があるけれど、住人が出て来るところも入って行くところも見たことがない。
季節は夏で、強い日差しと窓も貫通してくるセミの声が廃墟同然の団地を二割増し不気味に仕立て上げている。
その団地から何かアイディアを貰えないかとじっと睨んだ。
頭の中に浮かんでくるのは、ある日とんでもない文才に目覚めて一か月で大作を執筆し、
それをネットで公開すれば瞬く間に閲覧数を集め大手出版社から書籍化の声がかかり、
当然のように重版が決定し翌年にはコミック化と映画化が決定するというシンデレラさえ目玉が飛び出すサクセスストーリーだけ。
肝心の小説のネタはピンとくるものが思いつかない。ただの夢想だ。
八月某日。
その日も夏休みの宿題や受験勉強に勤しむ学生に混じってニートが夢想を繰り広げていると、六人掛けのテーブルの反対席に一人の女性がやってきた。
雪のように白い肌をした美人だった。長い黒髪が動きに併せて揺れる。
「こんにちは」
その美人は席に着くなり俺に声をかけてきた。一行も書かれていないWordファイルを睨んでいた顔を上げて声の主を見る。
俺より少し若い。二十歳過ぎくらいだろうか。
「……なんですか?」
彼女は瑠璃色の瞳を細めて微笑むと、もう一度口を開いた。
「こんにちは」
「こ……こんにちは」
「いつもこの席にいらっしゃいますね」
「はあ……。まあ」
「あの団地、気になりますか?」
「え……?」
「いつも見ていらっしゃいますよね」
「あの……図書館で喋ると周りに迷惑ですから」
「大丈夫ですよ。私たち以外誰もいません」
その瞬間、周りの空気がピリッと痺れるような、纏わりつくような嫌な感覚がした。
「まさかそんな……」
隣の席に目を向けるとそこは空席だった。
おかしい。
隣は漫画を読む少年が居たはずだ。
それだけじゃない。
周りを見渡すと机に座っていた人たちも、棚の前で本を探していた人も、図書館の人も、ありとあらゆる人の影が綺麗さっぱり消えていた。
誰も居ない。足音もページを捲る音すらしない。完全に無人の図書館になっていた。大きな空調の音だけが微かに響く。
「……なんだ、これ」
「これでお話ができますね」
「皆、どこへ……?」
「元の世界にいます。あなただけをお連れしました。私、ここでしかお喋りができないんです」
彼女がにっこりと笑う。
「こ、困るそんなの……。帰してくれ」
「ダメですっ」
その美女は急に俺の手を掴んできた。冷水に触れたかと思うほど冷たい手だった。這い上がって来た悪寒に思わず肩が震えた。
「あら、失礼しました」
手はすぐに離れてゆっくりと体温が戻った。
「……俺になんの用だ」
「あなたのお手伝いがしたいんです。小説を書くお手伝いです」
「俺の小説……? そんなことしてなんの意味があるんだ」
「物語として広めて欲しいんです。私と彼女のお話を」
「彼女……」
「あそこに居る彼女です」
美女は窓の外にある団地を指さした。つられて俺も目を向けた。
この夏、ずっと俺が見てきた空き部屋ばかりの団地と全く同じだ。唯一の違うとすれば、外にも人の影が見当たらないことくらい。
「何もないけど……」
「右側の棟の四階。左から三つ目の部屋です」
落ち着いた彼女の声に従ってもう一度目を凝らした。何も見えなかったその部屋の窓辺にぼんやりと、薄い少女の影のようなものが見えた。
「女の子……?」
「あれは私の妹です。妹は生前病弱で、あの部屋から出られることは滅多にありませんでした。今でもああして、あの窓から外を見てるんです」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ、生前って……?」
「ええ。私も妹も、もう死んでいます」
「幽霊……!」
どうりで手が冷たかったわけだ。青ざめた俺に美女は淡々と話しを続けた。
「生前私と妹は、二人で一人の作家でした。妹は推理小説を考えるのが上手いんです。ただ、それを執筆するだけの体力がありません。なので私が妹の代わりに執筆をし、ペンネームを使って出版社に送っていました」
「ペンネームはなんだ……?」
彼女は口にした名前は微かに聞き覚えのある名前だった。
たしか十年ほど前に大手出版社から『期待の新人推理小説家』として処女作が発売され、アタリもハズレもせず、そこそこで終わったはずだ。
「それで、幽霊姉妹が俺に何しろって?」
「妹が死ぬ直前に考えていた推理小説を代わりに書き上げて欲しいんです」
「はあ……?」
「不運なことに私は事故で妹より先に死にました。そしてその数か月後に、妹も持病で息を引き取りました。その数か月間、妹はいつか自分の手で執筆できることを夢見て小説を考え続けていたのです。あの子は未練を残したままあの部屋から出られず、私も妹の夢を叶えてあげられなかった後悔で行く先が見えないまま、この偽の世界の中で彷徨い続けているんです……」
白肌の美女は髪を揺らして顔を手で覆った。華奢の方がさらに小さく丸まって小刻みに震えている。
「だけど、俺は推理小説なんて書いたことない。それにあの子はあの部屋から出られないんだろ?」
「内容は私が把握しています。あなたはただ、私が言った言葉をそのまま文字に書き起こしていただければ結構です。一言一句、そのままに」
「な……馬鹿にしてるのか」
「なぜですか?」
覆った手をどけて瑠璃色の瞳が覗いてくる。
「俺は自分の小説が書きたいんだ、そんなことできるか」
「でも、一行も書けてないですよね……」
「う……そ、それは……」
「私達の願いは、妹の小説を形にして世に残しておきたいというだけです。名声もお金も要りません、幽霊には不要ですから。書いたものはあなたの名前で発表して構いません。もしこの作品が売り上げになるなら、あなたのお金してください。ですからどうか、どうか妹の最期の作品を形にしてもらえませんか……」
彼女の瞳に涙が滲んだ。
若い美女に懇願された時、無慈悲に断れる男がどれほどいるだろう。少なくとも三十代ニートで小説を書いている俺には、幽霊とはいえ、助けを求める女性を見捨てることはできなかった。
……というのが建前で、彼女の提案の魅力に抗えなかったのが真実だ。彼女の言う通り、今の俺は一文だって書けていない。誰かのお零れだろうとなんだろうと、自分の名前で作品が世に出せるなら、藁にもすがる思いなのが正直なところだ。
「……わかった。やる」
「ありがとうございます!」
「それで、どうすればいい」
「目の前にあるそれで、今から言うことを文字にしてください」
手元にあるノートパソコンに目を落とした。
「これで?」
「それで書いたものは元の世界でも残ります」
「わかった、始めよう」
それから俺とその美女、雪音さんは二人で執筆する日々を送った。
毎朝開館前から並んで団地が見える二階の窓際の席を確保する。暫くするといつの間にか俺は無人の図書館に居て、目の前には雪音さんが座っている。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
雪音さんの落ち着いた柔らかい声が淡々と文章を諳んじていく。
妹が考えていたのは推理小説のトリックやあらすじのみという話だったけど、彼女はまるであらかじめ用意してある台本でも読んでいるかのように淀みなく次の文章を打ち出してきた。
俺は置いて行かれないように、必死にそれをパソコンに打ち込んでいく。
雪音さんと妹さんの小説は十九世紀後半のロンドンが舞台だった。
孤児で超人的な推理力を持つ少年が一般人は気が付かないような痕跡から犯人を特定していくという内容だった。
同じロンドンで名を轟かせている名探偵が出てきて、主人公の少年のライバルといて活躍していく。犯行のトリック自体はクラシカルなものを応用して使っているけど、その分キャラクターたちが活き活きしていて書いている俺も心踊らされた。
毎日図書館に通ってどうにか世間の夏休みが終わる直前に書き終わることはできた。二十万字に届かないくらいの大作になった。
最後の一文を打ち込んで大きく伸びをした。
「……よし、これで全部だな」
無人の図書館に俺声が響く。
「はい、ありがとうございました」
「で、書いたこれはどうすればいいんだ。相当な分量があるぞ」
「出版社に送ってもいいですし、他の方法で世間に公開してもいいですよ」
「本当にいいのか、俺の名前で」
「はい。構いません」
「ふうん。俺としては助かるけどな」
「無理を聞いてくれて、本当にありがとうございました」
「じゃあ、元の世界に戻してくれ」
「はい、お世話になりました。この御恩は一生忘れません」
「嘘つけ、もう死んでるだろ」
瑠璃色の瞳の彼女が満足そうに微笑んだ。
次瞬きをした瞬間俺は元の世界の図書館に戻っていた。
目の前に座っているのは雪音さんではなく、指を舐めながら雑誌捲る爺さん。
横では女子高生が一生懸命数式に奮闘している。俺が座っている横を司書さんが本を抱えて通り過ぎた。
目の前のパソコンには書き上げたばかりの小説の文章が羅列されている。
俺はすぐに体裁を整えタイトルを『少年探偵と冷たい図書館』と付けて一番締切日が近い公募に出した。
数か月後、俺が出した作品はなんと大賞をもらった。講評では『テンポのいい展開と魅力的なキャラクターが素敵でした』と書かれていた。
大賞になったお陰で大々的に宣伝もされて半年もしないうちに書籍が出版されていた。すぐに重版も決まり次の年にはアニメ映画化も決まった。
映画化を記念して作者として俺のコメントを求められた。メールで送られてきたコメント記入用のフォーマット。そこに書かれた『次回作への意気込み』の項目に手が止まった。長いため息を吐く。一文も書けず他人の作品に縋った俺が、次なんてかけるわけない。実際あれ以来自分の作品は書けていない。
こんなことになるとは想定外だ。そりゃ、少しくらい作品を認められたら儲けものだとは思っていたけど、こうも注目されたら逃げようがない。作品について聞かれても、執筆方法について聞かれても答えられるわけがない。
大抵の項目は『無回答』と書いてやり過ごした。一番最後は『今回のことを誰に伝えたいですか』という質問だった。
少しだけ考えてキーボードを打つ。
『団地の幽霊姉妹へ』
それだけ書いてメールを返した。
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