傷⑥/高理 倫太郎(こうり りんたろう)
『放課後、社会科準備室で待ってる』
学校に来て職員室の自分席に座ったら、
見覚えのないメモが置いてあった。
送り主も、誰宛なのかも書いていない。
少し癖のある丸い文字。
名前が書いてなくても、
それが誰からで誰宛てなのかすぐ分かった。
小さくため息をつく。
メモを何回も破って細かくしてからゴミ箱に捨てた。
こうやって呼び出されるのは初めてじゃない。
放課後指定された場所向かった。
社会科準備室は俺が管理してる部屋だ。
鍵穴に鍵を入れて回そうとしたら、
もう扉の施錠は外された後だった。
ドアノブを回して扉を開ける。
中に居たのは予想通りの生徒だった。
ドアが開く音に気が付いて、
背中を向けていた桜井のぞみが振り返った。
「あ、やっと来た」
「やっぱり君か……」
「私かもって思ってた?」
「あんな風に呼び出す人他に居ない。鍵かかってたでしょ。どうやって入ったの」
「掃除当番だったから予備の鍵借りて来た」
「そう。ご苦労様」
「ここもう少し飾ったりすればいいのに。古い資料と埃ばっかりなんだもん。なんか薄暗いし。だから先生あんまり人気ないんだよ」
「それはちょっと失礼だぞ」
「どうして倫理なの? 他の教科ならモテるかもよかもよ?」
「モテたいために教員やってない。好きだから変える気はないよ」
「昔の人達がなんて言ったかなんて、正直誰も興味ないよ。大事なのは今でしょ? 先生の授業だから私は真面目に聞いてるけどさ」
「今を大切に生きるのも立派なことだよ」
「それはそうとさ。……私、どうしても先生に聞きたいことあるんだ」
「どうぞ」手を差し出して話の先を促す。
「あのさ、先生。浮気してるでしょ」
いつもの軽口がくると思っていた俺と違ってのぞみ雰囲気は重く沈んでいた。
俺が使ってる机に浅く腰かけて彼女が鋭い視線を俺に向ける。
「浮気? なんの話だ」
職員室でも有名な双子の桜井姉妹。
妹ののぞみと知り合ってから、
俺は少し厄介なことになっている。
何が気に入ったのか分からないけど、
どうやら本気で彼女に好かれているらしい。
最初は用もなく話かけられるだけだった。それがこうして時々二人きりになろうとしてくるようになって、最近は彼女の中で俺たちは付き合ってることになっていた。
俺は全く相手にしないけど、
そんなのは関係ないみたいだ。
へこむどころか呼び出される頻度も増えている。
そして今の状況はより一層複雑だ。
彼女は浮気がどうとか言い出している。
「とぼけないでよ。知ってるんだから!」
いきなり叫んだかと思ったら片手で机を強く叩き出した。
「こら。物にあたったらたらいけない」
「子供扱いしないで! ほんと最低!」
「一体どうした」
「私に聞かないでよ、自分で考えれば分かるでしょ?!」
「分からないから聞いてる」
「知らないわけないでしょ!」
「頼むから叫ばずに対話をしてくれ。できなら俺は帰る」
そう言うとのぞみは少し大人しくなって、
恨めしそうな目で俺を見ながら話しだした。
「……なるみに色目使ってるでしょ」
「なるみ? お姉さんのことか」
「昨日見た。誰も居ない図書室でなるみと二人っきりで楽しそうに話してるとこ。どうして? 私はこうでもしないと会ってもらえないのに、どうしてなるみなの?! バレたら先生に迷惑かかると思って、わざわざ偽物の彼氏まで作ったのに!」
「少し落ちは着いてくれ。昨日は授業の資料を見に行ったら出くわしただけだ」
「嘘! 二人して私を騙して楽しんでる!」
「嘘じゃない。それに何度も言ってるけど、俺は君のことも特別扱いした覚えはないよ」
「ひどい、ひどい!」
「君との間に誤解があるなら、それは解かなくちゃいけない。教師として」
「そうだよ責任取ってよ、教師として!」
のぞみは制服のジャケットについたポケットに手を忍ばせた。
取り出したのは細いカッターだった。
カチカチという音で金属の刃が付き出す。
「何してるんだ。止めなさい」
後ろに下がっても狭い資料室じゃ大した距離も取れない。
「先生の馬鹿!」
逃げ切る前にのぞみが襲い掛かって来た。
両手に持ったカッターの刃が凄い速さで迫って来る。
もうだめだ、と一瞬思った。
のぞみがカッターを振る下ろす瞬間、
ぎりぎりの所で体が勝手に動いて避ける動きをしてくれた。
俺の左肩辺りに届くはずだった刃は空振りになって、左脚の太ももに命中した。
「いっ……っ。ああ!」
激痛に耐えられなくて地面に倒れた。
切られたところが火を押し付けられてるみたいに熱くて痛い。
脚を抑えながらうめき声をあげて苦しんだ。
「え、うそ。あ……ご、ごめんなさい……」
のぞみは震えながらカッターを落として出て言ってしまった。
残された俺の脚は、ズボンに大きな血のシミができている。
血のついたカッターを拾って、どうにか片足で立ち上がった。
左脚はまだ燃えてるみたいに痛いけど、
少しずつなら歩いて行けそうだ。
壁に手をつきながらなんとか保健室までたどり着くことができた。
保険医の先生は留守だ。
勝手に入って消毒液とガーゼと包帯だけ借りて出る。
誰も居ないのは運がよかった。
怪我のわけを聞かれたくない。
できれば大事にはしたくなかった。
正直に話してのぞみを悪者にしてしまうことは簡単だ。
でもそれは、彼女にとって最善ではない。
表面的に注意や罰を与えても根本の問題が解決できない。
倫理を教える立場として、
十代の女子生徒にそんな無慈悲なことはしたくなかったなかった。
次の日学校に行くと、また名前のない状態で
『先生ごめんなさい』
と書かれたメモが俺の机に置いてあった。
彼女なりに反省はしているらしい。
だけどそれ以降、彼女が俺に近寄って来ることはなかった。
俺から話しかけようとうしても絶妙に避けられる。そもそもクラスが違うから声をかけるタイミング自体が難しい。
まあ、傷も以外と大怪我でもなかったし。
俺が言わなければ彼女にに処罰を下されることもない。
ゆっくり機会を伺って話をすればいいかと思っていた。
そう思いながらあっという間に二か月が経った。
朝のホームルームのために担当クラスの扉を開けた。
扉が開くと同時に一斉に騒がしい声がなだれ込んでくる。
俺のクラスにしては珍しい。
何事なんだと教室の中を覗いた。
何人も生徒が一か所に集まって騒いでいた。
人だかりの隙間に桜井なるみの顔が目に入った瞬間、全身の血の気が一気に引いた。
俺の脚にあったものと同じ傷が桜井なるみの右頬に、そっくりそのまま現れている。
そんなはずはない、と何度も目を凝らした。
どれだけ目を擦ってみても変わらない。
そういえば俺の左脚にあった大きな傷跡は、
朝の着替えの時に見ていない気がする。
不思議に思ってはいたけど、さして気にしてなかった。
その傷跡が今桜井にある。
間違いなくそれはのぞみにカッターで切られた傷跡と形も色も一緒だ。
一体何がどうなってるんだ?
混乱しながら中に入って教団の前に立つ。
桜井の傷跡は不気味だったけど、
放置するわけにもいかなかった。
桜井の席の教室のほぼ中央にある。
教壇に立てば視界に入れないほうが難しい。
それに万が一桜井になにかあった時、
担任の俺が対応を怠ったせいだと問題にされたくはない。
当の桜井は真っすぐ俺を見ている。
「……桜井、どうしたんだその傷」
「なんでもないです」
「そんなわけないだろ。何があったんだ?」
「分かりません」
「分からない?」
「朝起きたらこうなってました」
「真面目に答えて欲しいんだけどな」
「本当です」
どういうことだ。
俺の傷は無くなっていて、
傷跡が急に現れた?
ますます頭は混乱した。
何が起こっているのか全く分からない。
だけど一応クラス担任として、
果たすべきことは果たしておこうと俺の頭は判断した。
「……保健室に見てもらいに行こうな。皆は次の授業の準備をしててくれ」
クラス全員に言い残して桜井を連れて教室を出た。
今の時間はどのクラスもホームルームをやってるから、廊下には人っ子一人居ない。
静かな廊下を並んで歩く。
無言の桜井の横顔は見れば見るほど、
見覚えのある傷跡が目についた。
「--桜井。少し、変な話をしていいか」
「はい」
「その傷跡……本当に桜井のものか?」
「え?」
「……俺の左脚にあった傷跡とそっくりなんだ。俺に脚にあったやつは何故か、今朝になったら綺麗に無くなってた。もともと傷なんてなかったみたいに。それで学校に来たら、桜井の顔に同じ傷跡ができてた」
「先生の脚の傷?」
「ああ……何がどうなってるんだ」
独り言のような問いに桜井は首を捻って俺を見上げた。
「これ、先生の傷跡なんですか……?」
「いやきっと、似てるだけだ。傷跡が他人に移るなんて有り得ないよな」
俺は誤魔化すように意味もなく笑った。
だけど桜井はそんな俺を茶化すこともなく、
ぐっと顔を近づけて来た。
「これ、本当に先生と同じ傷ですか?」
桜井の目は異常なほど真剣だった。
思えばここ最近の桜井は、
妙に俺に絡んでくることが増えていた。
何に拘ってるのか知らないけれど、
並々ならない熱量を感じる。
「馬鹿げてるって分かってるけど、正直そうとしか見えない……」
素直に思ってることを口にした。
桜井はなんだか嬉しそうに目を細めて
「そっか」
とだけ呟いて黙ってしまった。
その後は何も言わないまま、
保健医の内陳先生の質問にもどこか上の空だった。
何を物思いにふけりながら、しきりに傷跡をなぞっている。
診てもらった結果、
傷口は塞がっていて本人が痛くないなら経過観察でいいだろうということになった。
良かったと俺は胸を撫でおろしていたのに、
桜井はその横でとんでもないことを口走った。
「できるだけ傷跡が消えない方法ってありますか?」
「消えない方法?」内陳先生も目を点だ。
「できるだけ治したくいんです。これ」
桜井は両手で大事そうに傷跡を包み込んでいる。
「だって、お顔の傷よ? 治さなくていいの?」と、内陳先生。
「気に入ってるんです。消えちゃうほうがもったいない」
「そうは言っても……ねえ?」
困った先生は助けを求めるような視線を俺に向けて来た。
その要請に応じて言葉の後を引き取った。
「先生の言う通りだ。ちゃんと直したほうがいい。せっかく可愛い顔なのに」
「あ、高理先生。今時『可愛い』もセクハラになっちゃうんじゃないです?」
「え、そうですか? ええー? 難しいな」
内陳先生と二人で軽く笑いあった。
そんな大人二人は無視して、桜井は凄い勢いで俺をの顔を見た。
「先生今私のこと可愛いって言いました?」
「あー……悪い。気に障ったか?」
「ほら高理先生、やっぱりセクハラですよ」
「そうじゃなくて、可愛いって言いましたよね。ね?」
「ああ、言ったけど……」
「先生から見て私って可愛いの--? のぞみよりも?」
そう言われて一瞬胸がドキリとした。
俺とのぞみの関係は誰も知らないはずだ。
俺と付き合ってると思ってることだって、
カッターで切り付けて来たことだって、
たとえ双子の姉でものぞみは隠してるはず。
大丈夫だから動揺するなと、
一度浅く呼吸をする。
「さあ――? どうしてそこで妹が出てくるんだ?」
「だってのぞみが家で先生の話をするから……。私だって先生のこと好きなのに、なんか悔しくて……」
「あら、先生人気者ね」
内陳先生がニコリと笑う。
「そうですかね。まあ有難いことですよね」
当たり障りのない返事をしつつ俺は見逃さなかった。
話し終わる一瞬、俺を見ていた桜井の瞳の色が変わったこと。
それはのぞみがいつも俺を見る時の目と一緒だった。
俺を見ているようで、
見えていないような目。
神様でも崇めているいるのかと思うほど、
熱っぽくて妄信的な目。
二人とも同じ目で俺を見てくる。
「私だって先生のことが好きなのに」
その言葉が深い意味のない単純な好意であって欲しいと強く思った。
桜井なるみ。桜井のぞみ。
俺はなにか大変な存在に目を付けられてしまったのかもしれない。
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