第7話
翌日、結人が目覚めたのは午前七時三十分。
「俺、朝弱えから心配っすわ」と何気なく放った一言を受けて凪から「そんな結人に良いのがあるよ~」と渡された『絶対に目を覚ましたくなる目覚まし時計』の殺人的なアラームの音で、結人は飛び起きた。
六畳一間の畳が敷き詰められたこの部屋は、武士高の生徒一人一人に与えられているもので、部屋にはシャワールーム、トイレ、キッチンが設置されており、一通りの生活はここで行うことが出来る。
人生で初めてベッドではなく敷布団で一夜を過ごした結人は、連日の疲れから来る節々の痛みを和らげる為、適度にストレッチを行いながらカーテンを開けると、窓から漏れてくる朝の陽を浴びた。
洗面台の鏡の前に立ち、水をぶっかけた顔をたったの三擦りのみで洗い、そのまま水の付いた指で適当に寝ぐせを整えると、歯磨き粉の付いていない歯ブラシを電動歯ブラシ並みの振動で震わせ一分以内に歯を磨き終えた。
ボタンを閉めると熊の絵が完成するお気に入りのパジャマを乱暴に脱ぎ去ると、裸のまま味噌汁食パンに舌鼓を打ち、同時に着替えも完了させた。
タンスの中に学生服が綺麗に揃えられており、四色の長袖のシャツ(白、青、ピンク、黒)に、チェック側のグレーを基調にしたデザインのズボンとスカートがある。
様々な色や形のネクタイやリボン、カーディガンやセーターやベスト、ブレザーまで完備されていて「無駄におしゃれだな」と思わず呟いてしまう程の種類の豊富さであった。
ただ、ファッションに関して無頓着の結人は、白のシャツにズボンを履くだけという簡素な格好だけで満足ではあった。
結人が全ての準備を終えたのは八時三十分。入学式の予定時刻は九時。
いつもギリギリの時間に通学する事を通学の流儀としていた結人にとって、理想の時間管理であった。
特に荷物の指定をされていない事もあり、結人は堂々と手ぶらで部屋を出た。
と同時に隣の部屋の扉も開く。
中から出て来たのは彦太であった。
白のシャツに濃い緑の蝶ネクタイを合わせ、ブレザーの中にベストを身に着けている
「おっ、彦太じゃん。丁度いいや。なあなあ、今日一緒に行こうぜ~」
「い、いいけどさ。もう葵君と喧嘩しないでよ」
「俺のモットーは『やられたらやり返す』だぜ?自分から喧嘩吹っ掛ける事なんて絶対ねえよ」
「それならいいけど。葵君、昔から怒りっぽいんだよ。本当はすっごく良い子なんだけどね」
「へえ~。おめえらってそんな昔から仲いいわけ?」
「お互いの家が近くてさ。もうすぐ十年位かな」
「ふ~ん。なるほどね~」
「そんなやつに俺たちの話をペラペラと話すな、彦太」
彦太の隣の部屋から顔を出した葵が、不機嫌な表情を見せる。
「なんだとこら?」
一瞬で沸点に到達し葵に突っかかって行く結人。
葵も負けじと結人を睨みつける。
彦太は大慌てであわあわとしている間に二人に挟まれていた。
「俺はまだ貴様を信用していない。そもそもすぐに死ぬような奴に、そんな必要などないのかもしれないがな」
「言わせておけばてめえ!!!」
両手を大きく広げ、獣の様に爪を立て、怪獣の様な顔で葵に掴みかかる結人。
それを「け、喧嘩はやめてって、い、言っただろ~」と必死に引き留める彦太。
結人は「ふん、まあいいや」と葵から目を逸らす。
「俺はよ、ここに来るまでに一体夢邪鬼を倒してきてるんだぜ。それに、修行もつけてもらってる。誰にだと思う?おめえが昨日跪いてた凪先輩にだよ!」
葵は「な・・・なに・・・」と時が止まった様に目を見開いた。
「く、悔しくなどない・・・」
葵は歯ぎしりしながら必死に言葉を絞り出した。
「というか、そもそも何でおめえが凪先輩の事知ってんだよ」
「ふっ、愚問だな。凪様は武士高内でも唯一の『最強のギャル』。小学二年生にして数々のギャル雑誌の表紙を飾り、十四歳の頃には既に原宿の頂点に立った天才少女。だが、頂点に立ったと同時に突如として姿を消し、消息を絶った。ネットでは数多くのデマや噂が立ったが、俺は知っていた。凪様が武士となったことを。なぜなら一年前、俺は見た。そして救われた。戦場で華麗に宙を舞う戦乙女となった凪様の姿に。分かるか?貴様ごときが軽々しく名を語っていい存在ではない。凪様はジャンヌダルク、いや、もっと神話の神に近い存在。女神そのものなのだ」
とんでもない早口で畳みかけてくる葵に、結人は「おっ・・・おう」と圧倒された。
「分かればそれでいい。無駄な時間を過ごした。いくぞ、彦太」
葵は彦太の首根っこを掴み、スタスタと歩き始めた。
「いいのかよ。行っちまって。あるけどな~凪先輩のとっておきの話が。たぶん誰も知らねえ、俺だけが知ってる唯一の情報がよ」
結人は眩しくも無い空に目を細め、ここぞとばかりに勝ち誇った表情を浮かべた。
葵の動きが止まり、眉がピクリと動いた。
「・・・何が望みだ?」
「そういえば、昨日のケリが未だついてなかったよな?」
二人の間の不穏な空気を察し、彦太が「ちょっと・・・喧嘩はやめてって・・・」と言いかけたところで結人が高らかに叫んだ。
「入学式は確か体育館でやるって昨日凪先輩が言ってたっけ。だったら、どっちが体育館まで先に行けるか勝負だ!!!」
彦太の頭に特大の?が浮かぶ。
「なんだそれ?葵君はそんなの絶対興味な・・・」
「望むところだぁぁあああ!!!!」
葵が叫び返す。
「うん。そういう感じだったら、好きにして」
盛り上がる二人とは対称的に、彦太は目を薄くした。
三階建ての寮の最上階から全力で階段を駆け下りた二人は、同時にクラウチングスタートの姿勢を取ると、少し遅れて到着した彦太の合図で腰を上にあげた。
この時、結人と葵は同時に思った(いや、待て。体育館ってどこにあるんだ)と。
だが、ふとお互いに目が合った瞬間に感じた敵対心のせいで、そんなことはもうお互いに口に出すことは出来るはずも無かった。
彦太の腑抜けたスタートの声で、結人と葵は駆け出した。
(ちなみにこの数秒後、彦太は場所を伝え忘れていたことを思い出し、三人を迎えに現れた凪と合流し、普通に体育館へと向かっている。)
そんな事とは露知らず、無駄に緊張感を高め合う二人はお互いの動向を探っていた。
適切な距離で相手の進む方向を見極めたい、だが、相手のスピードがどれほどのものか分からない以上手を抜きすぎる事も出来ない、という二つの心理的要因が、このただのかけっこに駆け引きをもたらした。
結人は(しゃらくせえな、考えるのもめんどくせえ。全部手当たり次第行きゃすぐに着くに決まってる)と、とにかく走り回って体育館を探すことを決める。
もう一方の葵は(この自信、間違いない。こいつは体育館の場所を知っている。こいつに着いて行き、最後に追い抜けばそれで勝ちだ)と考え、結人より少し遅いスピードで着いて行くことを選んだ。
地を踏みしめ闘牛の様に激しい足音を立てながら走る結人。
花びらが風に舞う如く軽やかに走る葵。
自身をピッタリマークしながら付いて来る葵に、結人は今自身が進んでいる道は正しい事を直感で感じ取る。
これが、二人に芽生えた初めての信頼関係だったのかもしれない。
だが、それが間違いであった事を知るのは極々近い未来である。
結人と葵は武士高内を走り回った。
まず中央の城の様な建物に入ると、目の前に飛び込んできたのは和風の内装の壁に一直線に並べられた六つの紋様。
一つは赤い三本の刀が合わさる様に彫られ、また一つは緑で描かれた一本の木が彫られている。
三つ目は青い扇子が大きく広がる様に掘られ、四つ目は黄色の薙刀が描かれている。
五つ目に紫の円の真ん中に白の小さな丸が彫られ、最後の一つは、五つの紋様の上の丁度真ん中に掲げられていて、桔梗の花弁が五枚、上から順に赤、緑、青、黄、紫で彩られている。
左右にはすぐ階段があり、上へと登れるようになっていた。
外から見た高さから考えて、三階建ての建物なのであろう。
結人がそれを無視し一直線に突っ走ると、空の教室がいくつもあり、武士高初心者の結人ですら、ある事に気付いた。
絶対ここじゃねえ。
結人は真っすぐ突っ切った先にあった裏口から外へと出た。
遅れて葵も飛び出てくる。
ここから直線した先には、昨日結人達が入って来た羅城門と同じ形をした門が見えた。
恐らくただの裏門だろうと結人は察した。
だとすれば、考えられる道は二つ。右へと歩を進めるか左に向かうか。
「こっちだ!」
結人は何の根拠もない自信に身を任せ、右へと舵を切る事を選択した。葵も結人に釣られて後を追う。
二人は手当たり次第武士校内を回り、目に付いた建物を片っ端から訪問していった。
校舎より二回りほど小さな一階建ての建物の入口を開けると、慣れた手つきでタバコを吹かす看護師の姿をした金髪の女性がいた。彼女は『受付』と壁の上に書かれた向こう側で退屈そうに座っていて、結人と葵に気付くと、口からタバコを離し「あら?新しい患者さんかしら?」と前のめりになり、二人に大人の空気を吸い込ませた。
結人と葵の二人は、咄嗟に「失礼しました!」と女性慣れしていない様を丸出しに、無様に敗走を喫した。
続いて大きな煙突から黒い煙が吹いている建物の入口を開けると、上半身裸の屈強な数十人の男達が真ん中の大きな火を囲み、トンカチを手に鉄を打ち付けている姿があった。
男達は全員、結人と葵の二人に気付くと、「新たな真の男候補が来たぞぉぉおおおお!!!」と建物内が震えあがるほどの雄たけびを上げた。
結人と葵はお互いの顔を見合わせると、冷静に、そして静かに扉を閉めた。
二人はその後も校舎内を駆け巡った。
何を祭ってあるのか分からない小さな神社。
綺麗に草が刈られ、整えられたふかふかの芝生道。
野球場とサッカーコートが設置された、充分以上の広さのグラウンド。
結人達が一夜を過ごした寮。
校舎の裏口から数えて校内を丁度一周したところで、結人と葵はようやく残された建物へと辿り着いた。
ウェーブのかかった屋根、マンション二階分程度の高さに、長い横幅。
今までの校舎内の古風な建物と比べて、異様なほど正統派で現代的に作られたそのデザインに、結人と葵は同時に確信した。
これが体育館だ。と。
ギアを上げる結人と葵。
直線のスピードはほぼ互角。
お互いにとなりの両者を睨みつける。
ここまで走り続けてきた二人にとって、喧嘩の理由や今何故競争しているかなど、頭からは完全に消えている。
それでも二人を争せたのは、ただの対抗意識であった。
入口は二人の到着を待つように既に開いている。
距離にしておよそ三十メートル。
先に勝負を仕掛けたのは葵。
葵は一瞬立ち止まり自らの体を深く沈み込めると、勢いよく前方へと飛び上がった。
風に身を任せ、結人との距離を広げていく葵は、後方の結人へ(俺の勝ちだ。二度と俺に偉そうな口を聞くんじゃないぞ。この、ゴミや馬鹿などという言葉ですら生温く感じる程の、肩に付いた埃レベルの愚者が!)と伝わる様な勝者の笑みを見せる。
入口は目の前。
結人から目を離し、ゴールの後にどんな勝者インタビューをするかで頭が一杯になる葵。
イメージでは既に綺麗な着地を決めている。
負けるはずなどない。
そう悦に浸っていた葵は、コンマ数秒遅れてしまった。彼の両足が強く掴まれている事に気付くのに。
結人は、葵と比べて綺麗とは言えない見よう見まねの跳躍で、少し足りない飛距離を必死の形相で両腕を伸ばすことによって補い、葵のゴールを拒んだ。
「行かすかぁぁああああ!!!」
「なにぃぃぃいいいい!!!!」
両足を掴まれバランスを完全に崩した葵。
両足を掴んでいるせいで身を守れるものが無い結人。
二人は無様にも、地面に体を打ち付けた。
両者はうつ伏せのまましばらくの間動きを止めた。
「俺の勝ちだ」
最初に立ち上がったのは葵。
葵は結人に向けてピースサインを向けると、「俺のこの指二本が入口を潜った。よって、先に体育館に辿り着いたのは俺。これで分かっただろう?貴様は明確に俺よりも、下だ」
言い終わったところで、葵は両鼻から鼻血をタラっと流した。
遅れて立ち上がった結人は、服に付いた埃を払いながら「まあ、しゃあねえか」とさっぱりした表情を見せた。
「ほう、意外だな。てっきりまだ何か吹っ掛けてくると思ったが」
「負けは負けだしな。今回は認めるしかねえわ。じゃあ、とっとと行こうぜ」
結人は「あ~あ」と呟きながら、体育館の中へと歩を進めた。
入口を通ると、立て看板が一つ設置されていた。
それには『武士高入学式会場』の言葉と、矢印が書かれてある。
そしてその先には入口とは別にもう一つ扉があった。
結人の意外な態度に呆気にとられていた葵であったが、すぐにある事を思い出した。
「おい!ちょっと待て、さっき言ってた凪様のとっておきの情報とは一体何だ?」
結人は葵を振り返り、にやりと笑った。
「凪先輩は、水色のパンツしか履かねえ」
「な・・・何ぃぃいいいい!!!!!」
葵の鼻血は、この瞬間ピークを迎えた。
「見たのか。貴様、見たのかぁぁああああ!!!」
結人に掴みかかる葵。
結人は葵をめんどくさそうに振り払う。
「そりゃそうだろ。あの人全然隠してねえし。戦ってたら嫌でも目に付くっつの」
「羨ま・・・いや、貴様、許さんぞ!」
葵が大きく声を張り上げたところで、扉が開いた。
二人は、今まさに入学式を行っている全員の視線を集めた。
時間が止まったかの様に、大きな体育館の中に静寂が流れる。
青ざめた顔を見せる葵。
「え~っと、遅刻っすかね?」
重苦しい雰囲気を意に返さず、結人はおどけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます