第11話 コペルニクスのことを考えていた(2)
1868年、ダウンハウス。
チャールズはトーマスから手渡された近著に目を細めた。巻頭の献辞に目を落とし、指先を触れ、口元に優しい笑みを浮かべる。
傍らで見守るトーマスの
トーマスは寝台のそばに椅子を寄せて座り、二人はディズレーリとその組閣について、最近の地質学界や博物学界について語りあう。
「神のご意志といっても対峙して直接聞いた者はいないのにな。世界はあまりに広く、その歴史は長い。比べて人生は短く、我々の見聞と知識は限られる。今在ることを示すより、かつて一度もある
眼光が一瞬鋭くなる。自然選択の理論を突き詰めた透徹した知性は、病に伏してなお健在だった。
話が一段落し、静かに水を飲むチャールズの傍で、トーマスが落ち着かなげに
「どうした?」
「……なぜメアリを私に引き合わせたんですか?よりによって、あなたが。彼女を愛しているんでしょう?」
「はは。知っていたのか」
「ミス・アニングの訃報の時、気付きました。秘蔵っ子の姪に寄せる以上の関心だと」
「そしてあなたの手紙は、必ず何か一冊は彼女が以前言及した本に触れているので。体調が悪く、その上猛烈に忙しいあなたが、わざわざ『若草物語』にも目を通している。共有し続けたかったんでしょう?メアリと魂を」
「はっは!そこまで見抜かれるとは。君は私が見込んだ以上に聡い男だな」
「茶化さないでください」
「……自分で気付かなかったんだ」
「えっ?」
「気付きたくなかったのかも知れない。叔父と姪の結婚は許されないし、私はメアリを赤ん坊の時から知っている。ただの可愛い姪っ子だと、無意識に思い込みたかったのかもしれん。自覚したのは君とメアリが婚約してからだ。抜け作にも程があるだろう?」
口髭の下の唇が自嘲で歪む。
「……」
「それにメアリには幸せになってほしかった。独身を通せばどうしても母親や親族とぎくしゃくする。結婚イコール幸せではないことも、ミス・オースティン、ミス・ナイチンゲールのように、生涯独りで生きる選択肢もあるのは知っているさ。メアリにはそれが許される財産もある」
白髪の病人は苦し気に息を継ぐ。
「それでも愛情と敬意を以て彼女の話に耳を傾け、その才能、あの声に励まされる相手と共に時を過ごしてほしかった。メアリの問いかけは一を二以上にできる。私は……失って寂しかった。16も年の離れた姪の眼差し、相槌と質問を」
チャールズは哀し気に微笑む。
「君は彼女の連れ合いに値する男だと思った。この著書の献辞が、メアリに捧げられているのを見て嬉しかった。彼女にとって、本はいつも特別なものだったから。メアリの存在価値、そのかけがえのなさを君が理解していると分かって、安堵した。……ありがとう」
好々爺としか形容できないチャールズの柔らかい微笑をトーマスは当惑した表情で眺める。
「老いたせいか、最近昔の夢をよく見る。太平洋の波に揺れる船、空に翻る大きな白い帆。むせかえるほど生命力に溢れた熱帯の動植物、息を呑む雄大な地形。島を軽々と飛び回る若い自分。目を輝かせて話の続きを催促してくれる少女のメアリ…」
「近頃どうにも調子が悪くてね。もう休ませてもらってもいいかい?長話に疎遠で、このくらいの会話でも疲れてしまったようだ。年寄りの戯言に付き合わせてすまない」
「……チャールズ。あの、メアリに恥じない男に、と肝に命じたからだけでなく、あなたに肩を並べたいと願って、その意地で私はここまで来られたのです。そんなことは仰らないでください」
「そうか。私は幸せ者だな。こんなに生きられたことといい。これからもメアリを頼む」
「ええ」
老人と壮年の、青い瞳と灰色の瞳の視線が交わる。
「どうぞお休みになってください。失礼します」
一礼し、トーマスは部屋を後にした。
1872年、ダウンハウス。
チャールズは目を開け、寝台の周りに集まっている家族を見た。主治医と妻が傍にいる。子どもたち、孫たちがその後ろで心配そうにこちらを見ている。
「ああ、私は発作で倒れたのか?まだこの老いた
呼吸を整え、家族に告げる。
「医者の許可が出たらトレヴァー君を呼んでくれ。遺言書を作る」
家族の抗議を片手を上げ、押し止める。
「60を過ぎたんだ、作成するのに早すぎる歳でもないさ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます