第8話 ヘーゼル・アイズ(1)
1847年春、ロンドン、キングス・カレッジ。
コンコン、ノックの音が響く。返事をすると小使いの声が告げる。
「ライエル先生、ベントレー様と仰る方がご面会希望です。如何いたしましょうか?」
「お通ししてくれ。お茶の用意も頼む」
チャールズを迎えるため立ちあがり、机を周る。内心かなり驚いていた。
体調の悪化で、彼がめったにケント州の自宅を離れないことを知っていたから。
「お久しぶりです、チャールズ。あなたがわざわざロンドンの大学まで足を延ばすなんて、どうした風の吹き回しですか?」
笑顔で握手を交わす。チャールズは顔色の悪さ、重たい身ごなし、頭髪の後退で実年齢より年配に見えた。顔を合せなかった期間に彼に訪れた急速な老いと衰えに動揺を覚える。
椅子にかけ、互いの近況を報告しあった後、チャールズが本題に入る。
「先週、化石採集のミス・メアリー・アニングが病で世を去った。47歳。彼女の魂の安からんことを」
チャールズは静かな声で告げ、一瞬黙祷を捧げるように目を閉じ、また開く。
「君はこの事を知っていたか?」
「いえ、初耳です」
「地質学会の告知の写しだ、君に渡しておく。同じ名前なこともあって、メアリは……君の細君は以前から彼女のことを気にかけていた。君の口から訃報を伝えて、そばにいてやってくれ」
「ああ、それから。もし何か寄付や
「?……分かりました」
首を傾げながら了承する。
チャールズの退室後、茶器を片付ける年長の小使いの恭しい姿勢に居心地の悪さを感じる。本来、教授先生と敬われる器の人間ではない。ほんの十数年前は下町の泥水で顔を洗う少年だったのに。
重ねた業績に自負はある。それでも異例の昇進速度は妻との縁組と無関係ではないだろう。
ウェッジヒル家の富は社会で大きな意味をもつ、かつてチャールズが語ったように。
早々に帰宅すると、赤ん坊を抱いたメアリが目を丸くした。
「今日はずいぶん早いのね」
「ああ、急いで帰ってきたんだ」
帽子と上着を掛け、襟元を緩める。居間に落ち着いてから用件を切り出す。
「今日大学にチャールズが訪ねてきてね」
「あら、珍しい。叔父様、体調が良くなったのかしら?」
「残念ながら、そうは見えなかったな。正直訪問に驚いたくらいだ。伝言を預かっている。ミス・メアリー・アニングの訃報を伝えてくれと……」
続く言葉を呑み込んだ。
メアリの眼から涙が次々零れ落ちる。黙って抱き寄せ、髪と背中を撫でる。
ようやく彼女が落ち着いた頃を見計らい、穏やかに尋ねる。
「知り合いだったのかい?」
「直接お会いしたことはありません。手紙のやり取りは何度か……」
メアリは震える唇でまた嗚咽を呑み込む。
「トーマス、世の中は不公平ね」
「え?」
「幸運にも、家族に恵まれて私は何も諦めずに済みました。父や叔父が支えてくれ、あなたが側にいてくれて。お金の心配をせず学べ、子どもを授かってからも本を読む時間を持ち続けられた。あなたの研究を一緒に手伝うことも」
「でも彼女は。あれほど聡明で目覚ましい実績があっても、論文を発表する機会さえ与えられず、独りひっそり世を去った。どんなに悔しかったでしょうに」
「私が善行を積んだ訳でも、彼女が罪を犯した訳でもないのに。生まれた境遇が、家族の力が、違うだけでこんなにも差があるなんて。偽善でも彼女の矜持を傷つけずに援助する方法があったかもしれないのに。後悔してももう遅い……」
再びハンカチに顔を埋め、嗚咽する。
紅茶をそろそろと飲み、メアリはしばらく物思いに沈んでいた。隣で静かに待つ。
「トーマス、彼女への手向けに何かしたいわ。女性のカレッジを創る計画があると聞いているの。あの……私も曾祖父の遺産を寄付してもいいかしら?」
その一言に、心臓を冷たい手で掴まれたような気がした。一瞬後、血が沸騰するような激情が全身を駆け巡る。
あの人はメアリの悲しみ、そしてこの反応をも予測していたというのか⁉
一体どうして?
それほど深く彼女を気にかけ、その心を手に取るように理解しているというのか。止むにやまれず、病を押してロンドンまで自ら伝えに来るほど。
寝食を共にし、子を成し、傍で何年もの時を過ごした、夫である自分よりもはるかに?
落ち着け、冷静になれ。メアリを怖がらせてどうする!
「……お義兄さんに、トレヴァー氏に相談してみたらどうだい?彼は相続の専門家だろう。寄付の方法について色々知っているんじゃないか?」
「ああ、そうね!!どうして考えつかなかったのかしら、私ったら。ありがとう、あなた!」
メアリはぱっと顔を輝かせ、両手を打ち合わせる。善は急げとばかりに部屋を離れようとする、その腕を咄嗟に掴む。榛の瞳が怪訝そうに見上げる。
「トーマス?」
「手紙は明日でいいだろう?」
細い肩に顔を埋め、唇を寄せる。
「急にどうしたの?」
戸惑いが滲む声が自分の名を呼ぶ。
柔らかく甘い香りに紙とインクと鉛筆の匂いが微かに混ざる。目を瞑っていてもわかる、メアリの気配。
ああそうだ。初めて会った時から、どうしようもなくこの声に、瞳に、香りに惹かれたのだ。
舞踏会で手を差し出してくれた時、女神が自分に微笑んでいる、これは都合のいい夢に違いないと思った。
「自分でも呆れてる。僕はこんなに心の狭い男だったのか」
「え?」
「……嫉妬してるんだ」
「ええ?」
「君にそんなに悲しんでもらえるミス・アニングに。君を深く理解しているチャールズに」
「えええ⁉」
「何よりも君が必要だ、メアリ。今離したくない。だめかい?」
メアリは首を振り、そっと胸に額を寄せてくれる。
「夕食は食べないとだめよ。その後、あの子の世話をお願いしておくから。トーマス、私はどこにもいかないわ。あなたの傍に居る……居たいの。心配しないで」
「君は魔法使いだ。いつも僕が望む以上の言葉をくれる」
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