第4話 恩返し
病院から帰るとすぐ部屋着に着替えて、ベッドに入って眠りについた。私は基本的に、昼夜逆転の生活を送っている。社会の大半の人たちが活動する日中は、うるさすぎて敵わない。陽の光もあまり好きではない。いくらなんでも、あれって明度高すぎだ。すぐに頭がくらくらしてきて、ものを考えられなくなる。
明るい部屋で布団をかぶると、安心感と自分への失望が同時にくる。気持ちいいと死にたいが混ざり合って、ぼやけていく頭で淡い声がぐるぐると回る。言葉に色がついて、ぬるま湯のような手触りをもって、私の潜在意識を水浸しにしていく。
私は大湖に浮かぶ廃神殿で、機械仕掛けの龍を倒す夢を延々と見ていた。夕方五時に公団全体に流れるチャイムで目を覚ますと、この前、イオンで衝動買いした卓上桜の蕾が、一人用炬燵の上でほころんでいた。おお、と思わず歓声をあげたが、寂しくなった。冷凍の鍋焼きうどんを、フライパンで溶かしてお花見をした。
さて、と私は声に出して、ペットボトルのお茶を含んで考えた。これからどうしようか。小学生のころ、卒業式のあとの最後のホームルームで、担任はこんな話を私たちにした。
「いつか君たちが大人になって、自分が本当は何をしたいのか、わからなくなってしまったときは、世界が自分に対して、何をしてくれたのか考えてみてください」
先生曰く、人間には与えられた恩を返したい、という欲求がある。だから社会に対して、恩返しをする気持ちで仕事ができれば、きっと受け取れる報酬以上のやりがいを感じることができる。たとえば君が音楽に救われたのなら、楽器の先生になればいい。もし先生に救われたなら(彼はそこで少し笑った)、学校の先生になればいい。
なるほどな、と12歳の私は思った。だから今でも憶えている。でも先生、と23歳になった私は思う。世界は私に何をした? たとえば両親は、私を生んで育ててくれた。本当に感謝している。ただ彼らは、私に常に優秀であることを望んだ。さもなくば愛しはしない、と。友人たちは私と友人になってくれたが、気が触れると同時に離れていった。納税者は私の生活を支えてくれるが、障害者を「障害者」と決め込んで、度外視した社会を築いたのもまた彼らだ。障害云々に限らず、世界は差別的な仕組みに依存している。
わかってる。悪いのは私のほうだ。感謝の気持ちがぜんぜん足りない。だけど私は社会に対して、世界に対して、運命に対して、神様に対して、人間に対して、自分に対して、心から失望しきっている。苦しくて悲鳴をあげたって、世界はまったく容赦しないし、泣く体力も尽きて抜け殻になっても、なお苦しみをもってなぶり続ける。
この世界で本当に、たったひとり優しかったのは、私を救ってくれたのは、やはり川上くんだけだった。今朝、病院で会った彼ではない。中学のころ、一緒だった川上くんだ。二人はまったくの無関係。でもなんとなく、私は川上くんに恩を返そうと思った。
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