第2話 劇的な出会い

 うまくいくなんて、これっぽっちも思っていなかったけれど、こんなにうまくいかないとは思わなかった。私は大学を卒業後、なんとなく消去法という感じで、医療事務の仕事に就いた。自分の人生を消去法で決めるなんて、我ながらどうかとは思うのだけれど、でも、だったらみんなはどうやって決めたの? 


 やる気がなかったわけではない。受け取る給料分は真面目に働こうと思っていた。が、やはり私は不具者だった。音に過敏になり、光に過敏になり、ものの半年で、先輩の指示を聞き取れなくなった。カルテも何もかも読めなくなった。しまいには幻聴と妄想が出はじめて、私は職場から逃げ出すように、診断書をもらうべく病院へ来たのだった。

 

 汚れた雪原みたいな色の待合室には、小さな水槽が置いてあって、綺麗な青い魚が泳いでいた。冬の終わりの細い日差しが、私とその水槽のあいだに、光の破線を落としている。これ以上は近づいてはいけないと、誰かに言われているような気になった。

 

 席で診察を待つ人たちは、お年寄りがほとんどだったが、一人だけ同世代の男の子がいた。グレーのチェックの可愛いズボンに、おとぎ話に出てきそうなスエードの大きな靴を履いている。こんなに爽やかな人のなかにも、精神的に病んでいる人がいるんだ、と偏見にまみれたことを思った。


 事前に予約していたはずなのに、一時間近く待たされた挙句、色と番号で呼び出されると、私は以前からお世話になっている不躾な医師の待つ部屋へ向かった。


「調子はどうですか?」


 微笑みもせずにぞんざいな挨拶をすると、中年の医師はずけずけと私に訊いた。この薄汚い男が、私は心底嫌いだった。先に自己開示など一切せず、幻聴はあるかだの、離人感はあるかだの、不快な質問を畳みかけてくる。病気の話なんて、私は他人にしたくなかった。両親や妹にだってしたくはない。お前は異常で、だから治してやらないと、という傲慢な偽善を、当然のように振りかざしてくるからだ。

 

 私はべつに、自分を異常とは思っていない。私が社会に馴染めないのは、社会が常に一定の犠牲者を前提にしているからだ。全員は乗れないバスを作っておいて、なぜ時間通りに来なかったのだ、この怠け者は、と罵ってくる。私はいつか、世界のすべての不具者を引き連れ、この社会に反逆の牙を剥きたい。などとはこの医師には言わない。


「これは提案なんですけれど、今使っているロナセンテープを、40ミリから60ミリにしてみてはいかがでしょう?」

 

 中年の医師が、パソコンのモニターを見つめたまま言う。この男は私のことを、私の人格をともなう精神を、創作カクテルか何かだとでも思っているのだ。学生のころも毎月のように、薬の変更を勧められた。


 精神科医というのは、総じてクズの集まりだ。そもそもがクズの選ぶ職業だ。大きな責任を負う覚悟はないが、不当に高い報酬と、社会的な権威はぜひともほしい。そうして他人の臓器を切り刻む代わりに、患者の心をねるねるねるねみたいに混ぜ返す。医者か何かは知らないが、こいつらは何もわかっちゃいない。フローチャートにそって薬を出す自動のシステムみたいなもので、はなから私たちを救う気はない。私は診断書の依頼だけして、あとは適当に受け流した。

 

 診察を終えて待合室に戻る。会計の順番を待つあいだ、椅子に座って文庫本を読んでいると、隣の席におじさんが座った。空席もあるのに真隣に着いて、じろじろと顔を覗き込んでくる。気づかないふりをしてやり過ごしていると、


「お姉ちゃん、なかに誰か入っているね?」

 

 唐突に声をかけられた。

 私は顔をあげて、へ? という表情を返した。


「おお、べっぴんさんだな」

 

 おじさんが私の手首を握る。へへ、と笑った口元には歯がなくて、一瞬、ぎょっとしてしまった。


「それにけっこうボインだな。なあ、触らせてくれよ」

「やめてください」

「いいだろう?」

 

 おじさんが私の胸に手を伸ばす。

 咄嗟に振り払って、突き飛ばしてしまった。


「何すんだよ!」

 おじさんは逆上し、立ち去ろうとする私の前に立ちはだかった。

「どいてください」

「ブスが、調子に乗りやがって」

 

 腹が立ったのと驚いたので、反射的に涙があふれ出しそうになった。助けを求めるように周りを見たが、みんな顔を伏せている。


「触らせろ!」

 

 おじさんが大きな声で叫んだとき、お手洗いから一人の男性が出てきた。さきほど爽やかだな、と思った、チェックのズボンを履いた男の子だった。彼はまるで大学の構内で友人を見つけたように近寄ってくると、


「もしかして困っていますか?」


 おじさんの真隣に立って私に尋ねた。

 私は無言のまま頷いた。


「なんだてめえは」


 おじさんが彼の胸倉に手を伸ばす。ひらり、と彼はかわしたが、今度は誘うようにシャツの襟を立てて斜に立った。この状況で、困った人ですね、と共感するみたいに、私に苦笑を向けてくる。なんだこの余裕は、と呆気に取られている間に、おじさんが彼の胸倉に手を伸ばしたので、「あっ」と私は指をさした。

 

 次の瞬間、彼はおじさんと立ち位置を入れ替えるように身体を捌くと、そのまま相手をやわらかく投げた。と言うより、転がした、という感じだった。音もなくボーリングの玉を放すように。あるいは年下の少女とフォークダンスを踊るように。


「……こいつ、離しやがれ。トラの力で地獄行きだ」

 

 おじさんは床に伏せたまま腕の関節をきめられ、身動きが取れないみたいだった。

 こうして完全に決着のついたあとで、わらわらと看護師やら受付の人やらが集まってきた。彼はおじさんを固めたまま、


「面白いですか?」

「はい?」

「それ」

 片方の手を放して、私の文庫本を指さした。

 ああ、と私は頷いた。


「マダム・エドワルダ」

「バタイユ?」彼は噴き出して笑った。「意外すぎます」

 

 それが私たちの出会いだった。劇的な出会い、と言えなくもない。

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