40 世界一暖かくて寒い日
陽菜乃は叶歩の話に聞き入っていた。まばたきも忘れた両目から零れる流水は、叶歩の語る超常的な話を信じていることを口に出さずとも示していた。
いや、本当は信じたくなんてなかった。でも実際にこうやって自分たちは性転換現象に巻き込まれてしまった。それを経験してしまった今、どんな不可思議な現象であろうと疑っても仕方ないのだ。
それがたとえ、叶歩の余命が後一か月未満だという話であっても。
「ボクのこと、嫌いになってくれた?」
叶歩が覗き込むようにして陽菜乃を見つめると、陽菜乃は叶歩の後頭部に左手をかけて、そのまま手繰り寄せる。そして右手で叶歩の前髪をかきあげて、おでこを爪弾いた。
一言「ふざけんなよ」とだけ言って、あとはもう何も言葉を発せずに叶歩の体をもっと自分の身に寄せることしかできなかった。
どうして、こうなってしまったのだろう。
もっと早く、ハルの想いに気付いてあげられればよかったのだろうか?
ハルが神様を頼らずともありのままに生きられるよう、もっと寄り添ってやればよかったのだろうか?
それともハルが自分を好きにならないようにもう少し冷たくしていれば結末は変わったのだろうか?
脳内で羽虫が渦巻いている。でもどれだけ考えても浮かぶ策はすべて時間切れで、叶歩を抱きしめる力が強くなるだけだった。
「そんな顔しないで。ひなのちゃんは何もわるくないんだよ。ボクが神様を頼らずに男のまま好きだって想いをカミングアウトできなかったのは、悠馬に避けられる可能性が怖かったからだよ。男が男に好かれて忌避感を覚える、っていうのはごく自然の考え方でしょ?」
俺は何も言えなかった。ただ体を震わせながら、叶歩が本当は助かるんじゃないかという一縷の望みを模索する。
そうだ。ひょっとしたらまだ叶歩の死が確定していないという可能性があるのではないだろうか?
確か叶歩の話によると、神様は「ハルにとって最も大事なものを奪う」と言っていた。それが命であるとは限らないじゃないか。命よりも大事なものを持っている人間は、きっといくらでもいるんだ。
「ひなのちゃんが何を考えてるか、なんとなくわかるよ。本当はボクが死なないんじゃないかって期待してるんでしょ?でもいまこうやって君にぎゅっとされているとね、悠馬のいる世界で生きる希望しか湧いてこないの。そしてボクが生きる希望を持ち続ける限り、ボクにとって最も大事なものは命になってしまうんだよ」
陽菜乃はハッとして抱きしめるのをやめたが、叶歩はそれを察知してすかさず陽菜乃の胸に飛び込み、顔をうずめる。
これ以上に皮肉な話がこの世にあるのだろうか。叶歩の生きる希望が大きくなれば大きくなるほど、死の可能性はどんどん高まっていく。
それなら、叶歩にひどい仕打ちをすれば生きる気力を失ってくれるだろうか、と陽菜乃は考える。
でも、もしそれが中途半端に失敗したら。叶歩は余命を削ってまでせっかく手に入れた二人の世界を失い、苦しみながら過ごすことになってしまう。
「……ひなのちゃん、ボクは大丈夫。自分で決めたことだから。だからさ、もしボクの幸せを願ってくれてるのなら、残された時間はずっとボクを大切にして、一緒にいてくれますか?」
叶歩の口から初めて正式に発せられた、告白の言葉だった。
それを聞くのが本来なら何よりも嬉しかったはずなのに。こんなにも悔しい気分になってしまうなんて、夢にも思わなかった。
自分が叶歩にやってあげられる最大限はなんだろうと、陽菜乃は考える。そうしているうちに自ずと抱擁は強くなっていき、そこにいるのを確かめ合うように二人は目を瞑った。
「ごめんね、巻き込んじゃって」
「ばかだよおまえは、ほんとうに」
人生で最もあたたかくて、最も寒い時間を過ごした。
この時はある事を見落していたのだ。二人とも若すぎて、感情というものを冷静に分析することができていなかった。
結論から言おう。叶歩の願いが返済期限を迎える夏の終わりの日、
叶歩にとって最も大事なものは、最初から命ではなかったのだ。
叶歩の心が本当に大事にしているものにも、神様がなぜ夢に侵入して欲望を掻き立てるなんて回りくどいやり方でハルを狙ったのかについても、この時の二人は何一つ気付けなかったのだ。
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