第5話 温かな繋がりというもの

 階は五階。私の病室はナースセンターや階段、エレベーターや休憩室などのあるセンターエリアの西側で、医師は〈その女性〉の病室が反対の東側にあると話していた。

「ねえ、休憩室へ行くんじゃないの?どこに行きたいのよ」

 車椅子を押す和美さんは怪訝そうな声で訊ねた。

「まさかあなた…」

「いえ……いや、そういうアレじゃ…。ただチラッとだけ…だよ。中に入ったり話したりなんてしないわ……しないよ……」

「ふうん、ならいいけどさ。相手が悪いにしても今は傷んでるんでしょ?危なかったとは言っても実際あなたは軽くて済んだんだし…」

「分かってる…。揉めるとかそんな考えじゃないから…」

 和美さんはまだ何かブツブツと言っている。けれどその雰囲気には、三沢さんへの全幅の信頼が感じられた。そうか――違いは――。

「どこかしらね?今のところ名前も分からないわけでしょ?」

「ええ……ああ…すぐに警察から連絡が来るはずよ…だよ。保険屋からもね。ただ名前は確か……葛西……」

「口が回らない?頼むわよ…公判四件も抱えてるのに!ていうか何で名前知ってるわけ?」

 その時だった。一つ先の病室から男の苛立った声が聞こえてきた。

「じゃあ一体いつになったら意識が戻るんだよ!」

 妻は開け放ったそのドアの傍まで車椅子をゆっくりと押して近づくと掲げられていた名札を見上げた。そこには「葛西エリ」という名が記されている。妻は眉をひそめた。

 男の背が見えた。

(あれは!)

 私の夫、葛西祥平だ。祥平は先刻の担当医とは違う男性医師に向かって声を荒げていた。

「眠ってるだけなら自宅でも構わないわけじゃないだろ?それが何で退院許可が出ないんだよ!」

 祥平なら言いそうなことだった。あまりにも思っていたとおりで、それ自体は驚くことではなかったが、ただ医師が気の毒だった。

「そうは言われましてもね…。担当の小野先生は脳の状態の話を分かり易く仰ったのであって、それは普通の眠りと似てはいても厳密には違うものなんですよ…。たまたま事故相手の避け方が上手あったこともあって外傷としては奇跡的に大きなモノはなかったですけど、それでも奥さんの体には相当な数の古い殴打痕があるじゃないですか?警察もそのことで別の話をお聞きしたい――と言ってるんです。それにもまず当事者の奥様の意識が――」

「関係ねえだろ!民事だ!それに当事者は俺だ!俺の嫁だ!俺が決めたらそうできるんだ!違うか!」

 私の背後で三沢さんの妻はため息を吐いている。私の脳にある情報が教えている。和美さんもまた弁護士で、離婚訴訟の専門家なのだ。彼女は私の肩にそっと手を置いた。

「彼の言う通りね」

 ポツリと言った。(そうなのだ…。一般的に患者は、その身体的状態や財政状態の如何にかかわらず、担当医の医学的判断に背いて退院する法的権利を有する。その際、権利放棄証書への署名が求められる――のだ。私の脳は知っている…)

「うん…。だけど…」

 私は妻に指で指示した。部屋に入るように――と。妻は驚いたが、指示に従ってくれた。私を信じているからだ。いや、ご主人の三沢さんのことを、か。

「失礼します」

 私たちの入室に医師と祥平は驚いたようだった。

「な……なんだよ、あんたらは?」

 祥平は初対面のこの夫婦にも睨みが利くと思っている。なんと幼いのだろう。それでは待ちのチンピラではないか。情けなさ過ぎて赤面しそうになった。妻は全く動じない口調で言った。

「今回、そちらの奥様がされた無理な侵入でこんな目に遭わされた被害者の三沢と言います。私は家内です。二人とも弁護士をしております」

 祥平は目を見開き、言葉も出せない。妻、和美さんは畳みかけるように、わずかな嘘を混ぜて言った。

「通りかかって部屋番号の下のお名前を拝見しました。お名前は保険屋さんの方から(聞いたとは言わない。さすがだ)…。それで少しお話がしたいと夫が言うものですから、よろしいですか?」

 気弱そうな医師はこの機を逃すまいとばかりにソソクサと部屋を出て行った。

「は…話って何だよ?別に俺は関係ないだろ…。俺が起こした事故でもあるまいし…」

 私は祥平を見据えた。何故か一歩も退かない自信があった。

「それは通りませんね。行政処分が運転手ご本人に掛かってくるのは当然ですが、民事賠償請求権は夫婦いずれかの過失による場合も双方に連帯して責任が及ぶと規定しています。仮に奥様がこの…」

 ベッドの上に私が居た。さっきの話で怪我の程度はこの三沢という男性同様に軽かったと知っているとは言え、頬や額に傷がある。なんてやつれてるんだろう。溌剌とした和美さんとは大違いだ。なんて弱々しいのだろう。私は目を閉じ、静かに眠っていた。

(そう……私は眠ってなさい……私に任せてね…)

「この状態で意識がないとしても、被害者に対する賠償義務はご主人にも及ぶの。いや、及ぶんだよ。運行供用者――と言うんだ。簡単に言うなら、その自動車を自分の思いどおりに使うことができる状況にあって、自動車を運行することが自分の利益となる人――や、もっと言えば自動車の所有者や名義人も該当するのさ。運行供用者は、たとえ直接自分が起こした事故でなくても賠償責任を負うことになる…って、ご存じかな?」

 男言葉は慣れないので難しい。けれど少しずつ調子が出てきた。脳内の法的情報が私をしっかりと後押ししてくれるからだ。

「利益は夫婦のもの。それと同じように対外的債務も夫婦のものだよ。あんたが借金すれば奥さんにも(特別な場合を除いて、というのを私は言わない)返済義務が生まれるし、得たものは奥さんにも受益権利が生まれる。片方が稼いだ給与がそうだ。退職金も、ね」

 祥平は口を震わせて言い返そうとしているが、土台その頭から出せる言葉などない――と、この部屋にいる者の中で私だけは知っている。普段テレビを観ていても、やれ「このタレントはダメだな!」とか「この議員はまるで外交が分かってねえや!」などと何も言わない私相手に言ってみせるが、実際には何の知識もないのだ。風船だって空気くらい入っているのに。

「人身事故だ。追って警察が事情聴取を要請するだろう。まあ奥さんの容態如何だが。それが出来ないとしても私は民事裁判でそちらに請求するつもりだ。なにをって?決まっているだろう、補償だよ。ただし私の調査ではそちらは任意保険を切らしているね?」

 後ろの妻が驚いているのが分かる。それはそうだ。誰だって驚くだろう。事故のあと担ぎ込まれてからずっと意識がなかったのだ。一体いつ調査したというのか――と。

「な……な……!」

 祥平は蒼白な顔で私を見ている。学歴なんか人間の本質と直接関係ないのに、自分の高卒をコンプレックスに思ってのことだろう、短大卒の私に「大卒に限って使えねえ奴だらけだ。ウチの会社にも……」だの言って仕舞いには無反応の私を罵倒し、脇を通りかかる私の背中をゲンコツで殴る男。それがただの一人でも、女を自分の思うとおりにしなければ自分が壊れてしまいそうなのだろう、そんな弱い男。誰も見ていない〈家〉という密室でだけ獰猛で惨めな本能をむき出しにし、吠えて悲しい支配に酔う男。今、青い顔で震えている祥平は自分の内側を眺め回しても戦うための何一つのロジックも持たないことを認めざるを得ないのだ。その男は、家に一台の車に任意保険をかけていない。普段は私が使うことを知りながら。私に車のそうした知識が乏しいと決めつけ、それに関して話したこともない。私の中の三沢さんが私の情報を眺めてくれているのを感じた。

「そのこと…、使用者の奥さんは知っていたのかね?教えたかい?知り得ない場合、彼女の責は一つ軽くなると思うぜ?教えなかったおたくは…どうかな?ということだ。さあ、私の入院費用、恐らくはこの痺れる手の後遺障害の通院費用とその補償、併せて休業補償!君の給料と一緒にするなよ?まだあるぞ!車両はAMGだ!半年前に買ったばかりのね。絶対に新車返しでお願いする。因みに価格は税込みで五千五百万だったかな。とまあ、こう言いたくてここに来たのさ…。連帯責任者で〈意識のある〉ご主人様にね」

 さあ言うといい。私が思うとおりの男なのだから、〈それ〉を言うといい。案の定、祥平は静かに眠る私と、この私を見比べて唾を呑みながら言った。

「そ……そんなのはよ……俺とコイツが夫婦だからだろうが…」

 言った……。それを。

「お、俺は最近コイツと別れる話してたんだ!明日明日届け出そうぜって。だ、だから別れたら俺は……俺は関係ねえ!」

 愚かな祥平。愚かな祥平。何も分かってない取るに足らないクズ。

「さあ、そうはならないと思いますね」

 背後で妻が冷ややかに言い放った。互いの仕事はよく知っている夫婦だ。私の脳にはその情報もある。妻は、普段からこんな男を何人も見ているのだ。声に感情めいたものが含まれていない時、妻は最高に怒っているのだ。

 祥平は唇をかんで妻を見た。見たが、すぐに視線を逸らした。見なくとも妻の視線を感じる。力に満ちた視線。何の臆することもない自信。〈女〉は力でどうにでもなると信じ込みたい男は、その〈女〉の前で狼狽え、怯え、微風に因ってすら崩れ落ちる寸前の張りぼての城にも似ていた。

「この場合、夫婦でいる間の賠償義務を理由にしての離婚は成立しないわ。あなたは賠償責任の話を今聞いたのよね?そう、聞いたの。私も証人よ。その上で意識が戻らないなら、支払い義務はあなたに全て行くのよ。夫婦〈だった〉のですものね。当然よね」

 祥平はよろけ、ベッドにすがりついた。私にはこの先が分かる。この男ならどんなことを考えるか。おそらく離婚届を誰かに代筆させて出すだろう。行方をくらますこともあるかもしれない。そんな男なのだ。私のために何かをしようなど、間違っても思うはずがない。二人で人生を作る――なんて考えは毛頭無い男なのだ。

 私が――三沢さん達が賠償請求の申し立てを起こせば、離婚していようが裁判所は祥平を呼び出す。その際には離婚日付からそれが債務を逃れるための〈本人の同意なき手続き〉であったことは簡単にばれる。けれどその時、私は――。

「もういい。疲れたから戻ろう」

 私は肩に置かれた妻の手に触れて言った。温かい。これが夫婦の間に流れる信頼と、共に戦うと決めて人生を共にしたもの同士のつながりなのだ。そう思うと妻が――和美さんが、いや、三沢さんが羨ましく思えた。弁護士の夫婦という、そのことではなく、愛し合うもの同士の強い繋がりが。

 車椅子がターンし、廊下に出てから私は、呆けて何か独り言を言っている祥平に言った。

「まあよく考えるんだな。賠償総額は軽く六千万を越えるだろう。分割は認めない。全額耳をそろえて頼むよ」

 遠ざかる病室から聞こえたのは力ない叫びだった。

「ち……ちくしょう……!」

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