秘書としての覚悟 ④

「――絢乃さん、寒くないですか?」


 帰りのクルマの中で、僕は何やら助手席で考え事にふけっていた彼女に声をかけた。


「ん? 大丈夫だよ。コート着てるし」


 そう答えながらも、両手の指先をこすり合わせていた彼女は少し寒そうに見えた。ああ、でもコートの萌え袖、可愛い……。

 この日は朝から寒く、僕は寒さに強い方なので大丈夫だが寒さに弱そうな絢乃さんのために暖房を効かせて差し上げたかったのに、廃車寸前でバッテリーが上がりかけていた車内での暖房の効果はイマイチだった。新車に変われば、彼女にもっと快適なドライブを楽しんでもらえるのだが……。


「それならいいんですが……。すみません、このクルマ、ポンコツなんで。暖房の効きが悪くて」


「でも、もうすぐこのクルマとはお別れなんでしょう? だったらもうちょっとのガマンだね」


「……そうですね。ところで、先ほどから何を悩まれていたんですか?」


「うん……、クリスマス、どうしようかなーって。何もアイデアが浮かばないの。家族とも、親友とも、桐島さんとも一緒に楽しめる方法、何かないかなぁ……」


 ……あれ? 今、俺の名前出てこなかったか? 僕は一瞬、自分の耳を疑った。彼女はやっぱり、クリスマスを共に過ごす相手に僕もカウントして下さっていたらしい。


「僕のことはお気になさらず。今はお父さまのことを気にかけて差し上げて下さい。それにまだ時間はありますから、ゆっくり考えて下さって大丈夫ですよ」


「…………そう、だね。ありがと」

 

 その時点で、クリスマスイブまでは半月以上もあった。その間にご両親やお友だちと相談して頂ければ、何かいいアイデアが浮かぶかもしれない。そしてあわよくば、僕もその仲間に加えてもらえるかも……なんて思ったのだ。


 ――僕は僕で、運転しながら源一会長の病状について思いをせていた。

 彼はその頃、すでに体力的にかなり衰弱されていて、車いすで出社されていた。

 その前には辛うじて歩くこともできたが、足腰がかなり弱っておられたので社内でフラついておられることも多かった。廊下で倒れそうになっていた源一氏を、僕が慌てて支えることもしょっちゅうで、「桐島君、いつもすまないね。ありがとう」と感謝されることもしばしばあった。


 そんな体になっても、源一会長は無理をおして出社し、PCに向かって一心不乱に何かをされていたと僕は小川先輩から聞いた。

 一体何をされているのか先輩が訊ねると、「あの子のために、これだけは死ぬ前にどうしてもやっておかなければいけないんだ」とお答えになったそうだ。


 きっと彼の中ではもう、絢乃さんが自身の後継者だと決められていたのだろう。ただ、そこに彼女のハッキリとした意志が組み込まれているのかどうかまでは、僕も小川先輩も分からなかったが……。僕の感じていた限りでは、絢乃さんにも「お父さまの後を継ぐ」というしっかりした意志があるようだったので、源一氏が命を削られてまでされていたことは決してムダではなかったのだろう。現に、そのおかげで絢乃さんは会長の仕事を始められてからも困ることがなかったのだし。



「――桐島さん、今日も付き合ってくれてありがと。楽しかったよ」


 ご自宅の前で車を降りられた絢乃さんは、屈託のない笑顔で僕にお礼を言った。でも、僕はひっそりと思っていた。これってまるで、デート帰りのカップルの別れ際じゃんか。


「楽しんで頂けて何よりです。僕も忙しくなったので、毎日というわけにはいきませんが。また一緒にどこかへ行きましょうね」


「うん。あと、クリスマスイブのことだけど……」


「それは、ちゃんと予定が立ったらまた連絡を下さい。先ほども申し上げましたが、僕に気を遣われる必要はないので」


 絢乃さんと一緒に過ごせたら……というのはあくまで僕の勝手な願望というか妄想であり、特に何もなければ実家で過ごすという手もあったのだ。ただし、そこには漏れなくやかましい兄が付いてくるのだが。


「分かった。じゃあ決まったら連絡するね」


 ――絢乃さんはその後、僕のクルマが走り出すまでずっとその場から見送ってくれていた。というか、これは後々から知ったことだが、いつもそうして下さっていたらしい。



   * * * *



 ――そして、その翌朝。


「おはようございます、室長。小川先輩もおはようございます」


「おはようございます」


「おはよう、桐島くん」


 僕の出社の挨拶に最初に返事をしたのが秘書室のボス・広田たえ室長。背中までの長い黒髪をひっつめ、パッと見はキツそうな顔をしているが、本当はすごく部下思いの優しい女性だ。その当時で四十二歳。どこの部署だったか忘れたが、ご主人は同じ社内にいらっしゃるらしい。ご結婚が遅かったので、まだお子さんはいらっしゃらなかった。


 そして、室長の次に返事をしてくれたのは小川先輩だ。この二人は上司と部下という関係を超えて、女性同士で馬が合うらしい。ちなみに、我が秘書室には男性社員も数人在籍しており、後に広田室長につくことになるふじさんも僕の一つ年上の男性である。


「ちょっと桐島くん! 『小川先輩』ってどういうことよ!? ……まぁいいや」


 気心知れた相手なので、先輩がこうして僕の言うことにいちいち茶々を入れてくるのは挨拶代わりのようなものだったし、僕もいちいち気にしていなかった。


「いいんですかい。……あ、コーヒー淹れてきましょうか? 僕も飲みたいんで」


 とはいっても、この頃はまだ自前の豆やら道具やらは会社に持ち込んでおらず、給湯室にはインスタントコーヒーしかなかったのだが。


「いいの? じゃあお願い。あたし、ブラックの濃いめで」


「じゃあ私もお願いしようかな。薄めのお砂糖多め。ミルクはなしで」


「分かりました」


 給湯室へは、秘書室から直通の通路で行ける。あと、会長室側からも同じような通路が設けられている。

 僕は手際よく三人分のコーヒーを淹れ、マグカップをトレーに載せて秘書室に戻った。ちなみに僕はミルク入りの微糖が好みだ。


「――はい、お待たせしました」


「ああ、ありがとう、桐島くん」


「ありがとー。いただきま~す♪ ……ん、美味しい♡」


「でしょ? 温度が大事って言ったの、分かってもらえました?」


 僕は得意げに肩をそびやかし、自分もカップに口をつけた。


「――ところでさ、桐島くん。昨日絢乃さんとデートしてきたんでしょ? どうだったの?」


「……………………ブホッ!」


 ホッと一息ついたところで、先輩がサラッと爆弾のような質問を投下してきた。僕はしばらくゴホゴホとむせた後、やっとのことで反論した。


「デ……っ、デートじゃないですよ!? そんなおこがましい!」


「えーー? そうかなぁ? あたしはデートだと思うけど」


 先輩も大概しつこい。こっちが否定してるのにまだ言うか。


「…………どうしてそう思うんですか? 絢乃さんが俺のこと好きかどうかなんて分からないじゃないですか」


「だってあたし、分かるもん。絢乃さんも桐島くんのこと好きだって、絶対」


「……………………」


 この人はどうしてこんなに自信満々なんだろうか。そもそも、ちゃんと根拠があっての発言なのか?


「……先輩、それ、何か根拠があって言ってるんですか?」


「女のカン、っていうのは冗談だけど。傍から見ればあなたたち、付き合ってるようにしか見えないもん」


「え…………、マジっすか」


 確かに僕サイドはそのつもりだった。「おこがましい」と口では言っても、秘書室に異動したのも新車に買い替えたのも全部、愛する絢乃さんのためだった。が、彼女の気持ちがどうだったのかまでは、僕には分からなかった。

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